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三洲華大学クトゥルフ神話探偵部  作者: 向陽日向
第三章 地上の太陽と原初の魔王
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灰色のロマン

 現実世界の空気のなんと気持ちがいいことか。

 肺を満たす幸福感に酔いしれる。カルコサにもお裾分けしたいくらいだ。


 終着駅は前回と同じ、広野先生の研究室だ。

 まだ移転作業中らしく、部屋には空きスペースが目立つ。薬品棚には数本の試薬瓶しか置かれておらず、器械類は電源コードが巻かれた状態で鎮座している。その中でいち早く定位置を獲得したらしい三台のクリーンベンチだけが低い唸り声をあげていた。


 日付は十月二十八日。既に講義は終わり、夕日が差し込んでいる。実習は二十五日だったのでかれこれ三日現実を留守にしていたことになる。先程からスマホがうるさいと思ったら、未読メッセージが五十件近く一斉に入ってきた。大量のメルマガに混じって青地さんやその他の友人、両親からもある。返信作業は大分骨が折れる作業になりそうだ。


「心配させやがってぇ!」

 目を丸くしていた青地さんの頬を涙が伝う。

 零れた涙を群青色の長袖セーターの裾で拭い、すぐに月山さんに駆け寄った。


 フェリスから連絡を受けた後、先生と協力して調査に赴いていたという。俺たちが帰還するとあって、部活を抜け出して駆け付けてくれたらしい。月山さんの髪がぐしゃぐしゃになるくらい撫でている。潤んだ瞳が瑞々しく光る。


 再会を喜び合い、奇抜な見た目の民さんを紹介する。

 変なことを言い出さないかと冷や冷やしていたが、予想は完膚なきまでに裏切られた。


「この度は大変危ないところを助けて頂き、誠にありがとうございました」


 あの民さんがなんと、深々とお辞儀をしたのだ。

 これには広野先生も度肝を抜かれたようで「――本当に七海よね?」と首を傾げる。


「ええ。同じ一族として過ごした日々。忘れもしませんわ!」

 狂人が正気に堕ちた――ということだろうか。

 一番面食らったのは青地さんで、理知的な笑みを浮かべる表情と穴が空いて足首バンドのようになった靴下を交互に見つめて再び目を丸くするのだった。


 ひとまず広野先生にお礼を言い、カルコサで目撃した光景を伝える。

 ハリ湖底から片鱗を覗かせたハスター。

 湖畔に佇む一人の教授。


「なるほど。これで証拠は揃ったみたいね」

 広野先生はチェックメイトと言わんばかりに頷く。白衣を脱いでブラウスの上からジャケットを着込み、耳にかかった黒髪をかき上げた。


 俺たちがいない間、青地さんと協力しながらイタクァやクトゥグァの背後に潜む黒幕の手がかりを調べていたという。

「さあ用意はいいかしら? ――って、これは私の役割じゃないわね」


 何故か俺を見つめる広野先生。知的な黒い瞳に射抜かれ、どきりとする。

 そんな柄じゃないと前内を見ると、奴はにやりと笑みを浮かべた。


「引き続き、僕のワトソンになってくれるかい?」

 何を今更――。


「事件は待ってくれないぜ。クトゥルフホームズさんよ」

「良い心構えだ。それじゃあ早速、ご挨拶に行こうか」

 全員が頷いた。


「広野先生、向かう前に一つ、お願いしたいことが」

「何かしら?」

「連絡入れたい奴がいまして」

 俺は最後の同行者の名を告げた。


  *


「来客かね? すまんが論文の執筆で忙しい。後日にしてくれると助かる」


 講義終わりの構内は昼間と比べて閑散としている。

 中でも文系の研究棟はそれが顕著だ。

 目的の部屋を訪れると、部屋の主である教授はパソコンモニターから顔も上げずにそう言い放った。キーボードをタップする音だけが反響している。


 研究室というか、豪華な個室のようだ。

 見たこともない模様が描かれた壁を見ていると、不思議な酩酊感に苛まれる。壁の至る所に自身が著した論文の拡大コピーが貼られている。壁際の本棚にも教授の名が背表紙に書かれた本が何冊もあった。それらから視線を感じた気がして目を逸らす。香水か何かだろうか、ツンと空気が香る。


「聞こえなかったか? 出ていきたまえ」

 要求を無視したことに苛立ったのか、語尾が先ほどよりも強くなる。

 威圧感を感じ怯む面々の中、広野先生が先陣を切った。


「これは失礼しました。お忙しいことは重々承知しています。なにせ――」

 と、そこで一旦語尾を切る先生。

「ハスターの復活が近いですものね?」


 規則的に響いていたタップ音が、ピタリと止んだ。

 ここで初めて黒幕はモニターから顔を上げた。


「これは驚いた。ハスターとはクトゥルフ神話の邪神の名か? 神話のことなら詳しい者がいるから、そちらを当たるのがよかろう」


 そっけなく咳払いし、杜亜玄一教授はゆっくりと立ち上がった。

 至近距離で遭遇するのはどちらにせよ初めてだ。背は俺と同じくらいで人当たりの良い穏やかな表情を浮かべている。黒い上下のスーツに緑色のネクタイという恰好だ。


「何を仰いますか杜亜教授。教授こそ、神話世界の探究者ではございませんか」

「生憎、私の専門は散文学ではないのでね。すまんが、執筆に集中したい」

 ハスターを拝んでおきながらよく回る口だ。憤慨しかけた思いを抑えるのに必死だ。


 民さん以外、突き刺すような視線で杜亜教授の動向を窺っている。ちなみに民さんはそんな光景が可笑しいのか、薄ら笑いを浮かべている。

 広野先生は毅然として言い放つ。


「惚けても無駄ですよ? 附属図書館の【黄衣の王】を長年借りたままなのは既に調べがついています」


 広野先生は手始めに、長年貸出し中となっていた【黄衣の王】の行方を調べたという。

 本は数か月単位で様々な人の手に渡っていた。大学関係者もいれば、大学と取引がある大手メーカーの研究員もいた。その大半は既にこの世を去っていた。不審死も少なくないという。


「これらの不審死は本の効力を試すための実験といったところですかね?」

「言い掛かりも甚だしい。そんな本知らん」

「嘘よ! あなたがカルコサにいたのは――」

 ヒートアップする月山さんを前内が宥め、すかさず切り込む。


「では、そのデスクに置かれた本はご趣味で読まれるのですか?」

 静かに口を開いた前内は、杜亜教授のデスクに置かれた一冊の本を指さす。


 それは黄色い装丁の本だ。タイトルは――《沈む谷》。


「ああ、これか」

 何食わぬ顔で本を手に取りパラパラと捲る。ゴツゴツした中指にエメラルド色の指輪が嵌っている。ハスター崇拝者が羽織っていたローブと同じ色だ。


「最近校内で話題になっているからな。読むと狂うとかなんとか……試しに読んでみたが何ともないわい。最近の学生はこんな子供じみた本でぎゃあぎゃあ騒ぎよる」

「確かに。ご自分で書かれた本を読んで狂うわけがないですよ」

「なんだと?」


 杜亜教授は、鋭い視線を前内に向ける。


「それはあなたが【黄衣の王】を参考にし、執筆したものだ。それを校内に広め、学生を狂気の淵に追い込み、ハスターへ捧げた。噂の散布などの雑務は横大路教授や忍川助教にやらせたのだとは思いますが」

「君……何を根拠にそんな創作めいたことを言っておるのだ?」

「私、先生がカルコサの湖畔に立っているのを見たんです」


 すかさず言い放ったのは月山さんだ。傍らに立つ青地さんとしっかり手を握っていた。

 その言葉に杜亜教授は怒りを露わにした。


「見ただと? そんな地、知らん。人違いだろう」

 今の言葉で確信したのは俺だけではないだろう。

 カルコサと聞き、迷いなくそんな()と言い放った。事前に知っていた証拠だ。


「あなたと【黄衣の王】との接点を示す、決定的な根拠があります」

 前内ホームズは一歩踏み出し言い放つ。一斉に全員の視線が奴に集まる。


「ほう?」

 腕組みをして、未だ余裕な態度を崩さない教授。その牙城を崩す一撃を投じる。


「そのスーツの襟のバッジ――それは紛れもない【黄の印】だ」

 全ての発端となった《沈む谷》の噂が囁かれ始めた頃、俺は杜亜教授の日本文学の講義を受けていた。講義中、襟についたバッジの存在を認めたが席が遠くて細かい形などは判別できなかったのだ。

 しかし今――距離僅か数メートルまで接近したことで、その輪郭をしっかりと捉えることが出来た。


 それはまるで両腕がクエスチョンマークのヒトを象ったようなマークだ。

 まさしくこれこそ――【黄の印】。《沈む谷》の表紙に描かれた奇妙な印の原形にして、狂気の原点【黄衣の王】に描かれたマークそのものなのだ。


「これでもまだご自身が【黄衣の王】、さらには《沈む谷》とは無関係だと言い張るおつもりですか?」

「ふ、ふふ。なるほどなあ」

 杜亜教授は小さく笑った。未だに余裕のようなものを感じさせる不気味な笑みだった。


  *


「ここまで辿り着いた学生は君らが初めてだ」

 杜亜教授は椅子に深く座り直し、腕を組んで大きく頷いた。


「何故、こんなことを?」

 野暮な質問だと思う。しかし聞かずにはいられなかった。

 全員が杜亜教授の次の言葉を待っている。


「裏返すため、とでも言えばよかろうか」

 ぽつりぽつりと、黒く淀んだ言葉が産み落とされる。


「この世界は疲弊している。人類の技術は飛躍的に進歩しているが、その頭はまるで原始人のように成長を知らぬ。争いの火種は今も生まれ続けている。技術革新が緩やかに自らの首を絞めているということを、おそらく未来永劫理解することはないであろう」


 杜亜教授はゴホンと咳ばらいをした。


「そのツケを支払うのはいつだって幼き子供たちだ。地球は今、氷河期を懐かしむように汗をかき続けている。オゾン層の隙間を縫って差し込む太陽光線により、遥かな時間が圧縮された未来、その身に広がる大海は霧となり霧散し、やがては虚無に飲み込まれるであろう」


 まるで達観するようなひどく冷めた声音だった。


「しかし学生らは地球の悲鳴に耳を傾けず、ただ目先の快楽に突き進むのみ。そう気づいた瞬間、手にした教鞭は朽ち果てた。文学の素晴らしさを伝える筈の手から次々と力が抜けていった。いつしか私の胸にも、地球の悲鳴は響かなくなっていた」


 誰も口を挟まない。静かに呼吸をするだけで精一杯だった。


「果たしてこんな世界に価値はあるのだろうか――自問自答の毎日だった。しかしある日天啓を授かったのだ。それは身震いするほど魅惑的なものだった。退廃が宿命づけられた世界に光を差し込む存在こそ、偉大なるラヴクラフトが創造した世界だったのだ」


 教授の瞳が僅かに輝いた気がする。


「この地球は元々我らヒトのものではなく、太古の昔に飛来した旧支配者(グレートオールドワン)のもの。さらに地球を取り巻くこの宇宙は高次元に存在する形なき神たちのものではないのか。これこそ本来あるべき世界の形ではないのか――今私たちが見ている世界は偽りで、偉大なるラヴクラフトが書き残した世界こそ終着点なのだ。世界は裏返すべきなのだよ」


 教授の言葉に前内が身じろぎした。同じ神話探究者だと知り、親近感を感じているのだろうか。


「そのときだ。一陣の風が吹いた。風は私の声に呼応した。胎動を感じた。その名こそ――宇宙を吹き荒れる風の王。【宇宙の風を束ねるもの】にして【名状しがたきもの】ハスターに他ならぬのだ!」


 教授の力強い声が部屋に反響し、胸のあたりを震わせた。


「ラヴクラフトは決して創作家などではない。彼は見た。会った。そして、言葉を交わしたのだ。そして知った。己の無力さを。――宇宙の意思を。それをただ、書き記したに過ぎない。それこそ、現代に伝わる【クトゥルフ神話】なのだ。彼が書き残したものは紛れもない、この世界の真実そのものなのだ!」


 バカげている!


 しかし否定できないこともまた事実なのだ。

 俺は確かに見た。巨大な石造りの残骸に溢れた古代都市カルコサを! 不思議な種族に溢れた【夢の国(ドリームランド)】を!


 この目で見た! 感じた! 湖底から覗くハスターの眼差しを! イタクァの凍えるような冷気を! アザトースの従者の音色を! クトゥグァの怒れる炎を!


 現実と虚構は既にミックスされ、溶け合っているのだ……。


「違うっ! まやかしだ!」

 淀んだ空気を切り裂いたのは前内だ。


「クトゥルフ神話は創作だ! これ以上ラヴクラフトを愚弄するな!」


 嘲笑うように呼応する杜亜教授の声。

旧支配者(グレートオールドワン)たちはいつも君を見ている。それは君自身がよくわかっているはずだ。この世界に蔓延る悍ましい存在の影を忘れたわけではあるまい? 君の背後にいる女史の真の姿――もう一度見るまでもあるまい?」


 広野先生は唇を噛んだ。眉間に皺を寄せ、険しい表情のまま視線を逸らす。反対に民さんは「私が蛇人間の一族だったのは疑いようのない事実です」などと抜かす始末。


 誰も神話世界の存在を否定できない。それは即ち、これまで見てきた光景を否定することだから。自分の感覚を疑うことに繋がるから。


「ではタネ明かしも済んだところで、裏返しの仕上げを始めるとしよう」


 杜亜教授はゆっくりとした足取りで部屋の奥の窓へ近づく。


 その手にはいつの間にか分厚い本があった。《沈む谷》よりも大きくて分厚い本だ。

「つい先程、カルコサでハスターと契約を交わしたところだ。復活の刻、私が依り代になる見返りに――」


 それが狂気の原典【黄衣の王】であるとわかったとき、教授の体がグニャリと歪んだ。


「私に力を授けると! 『名状しがたき黄衣の王』の目覚めだ」


 ぞわりと寒気がして、窓ガラスが割れる甲高い音が全身を貫いた。

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