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三洲華大学クトゥルフ神話探偵部  作者: 向陽日向
第三章 地上の太陽と原初の魔王
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名状しがたき原初の魔王

 杜亜教授の部屋は三階にある。

 普通の人間であれば無傷では済まない高さだが、教授は恐らく無傷だ。


 落下する間際、教授の体を包み込むナニカを見た。

 それはあのハリ湖から覗く二本の触手だった気がする。


 胸騒ぎを振り切るように茫然自失する面々を連れ、すぐに研究棟を後にした。

 外に出ると粘着質な風が吹き荒れていた。陽はとうに傾き、薄闇が支配しつつある。質量を帯びたように重苦しいそれは狂気の地カルコサを思わせる。


「少し見ぬ間によくもこの星を汚してくれたな、ヒトの子らよ」

 北門と南門を結ぶ通りの中央付近で、杜亜教授は待ち構えるようにして立っていた。

 着込んだスーツにはやはり傷一つない。周囲に人気はなく、各々の乱れた呼吸音のみが周囲の薄闇に溶けていく。


「ハリ湖底にて悠久の時を過ごすのは、まことに愚かなことなり」

 教授の背後からヌッと現れ出でたものがある。それは二本の奇怪な触手だ。

 教授は虚ろだ。白目を剥いた顔を暗雲立ち込める空に向け、口はだらしなく開いている。これは教授の言葉ではない。教授の声を通して別の存在が語りかけているのだ。


 それはカルコサのハリ湖底に潜む【名状しがたきもの】ハスターに他ならない!


「ヒトの子らよ。汝らの遺伝子を設計したのは創造主たる神ではない。太古の昔、ユゴスよりも彼方に存在する暗黒星より飛来し、当時の地球の支配者【古のもの】どもからその支配権を奪った我らをはじめとする旧支配者(グレートオールドワン)だ。まだそのような醜い頭と無秩序な手足が生えていなかったが、コソコソ逃げ回る中で受け継がれた意思があるように思える。それがやがて刻印となり、形状を二重螺旋構造に落ち着けたのだろう。汝らの設計図には太古の昔からコードされたものがある。それが何かわかるか?」


 黒々とした言葉が零れ落ちる中、教授はみるみるうちに歪みに取り込まれていく。

 背後の触手に完全に吞み込まれたとき、周囲一帯の空間にヒビが入った。

 その隙間から射抜くような視線を感じた。


「それは――畏怖だ」

 まるで暗黒そのものが、意志をもち睨んでいるようだ。


「根源的な存在に対する畏怖の念。汝らの恐怖の原点――それこそ我ら旧支配者(グレートオールドワン)に対する恐怖感情そのものなのだっ!」


 杜亜教授は語る。

 旧支配者(グレートオールドワン)は語る。

 ハスターは語る。


「ヒトの子よ。世界を支配した気でいたか? 今一度思い出せ。我らの名を称えよ。旧支配者(グレートオールドワン)の前に今一度ひれ伏せ。我こそは旧支配者(グレートオールドワン)の筆頭――名は? 名はなんという? 愚かなクトゥルフを差し置き、復活を遂げた偉大なる旧支配者(グレートオールドワン)の名はっ!?」


 教授の体が、ふわりと宙に浮く。

 トリックなどない。マジックでもない。


 それは言わば必然。


 ――ハスター。

 ――ハスター。


 周囲の闇から声が漏れる。


 ――ハスター!

 ――ハスター!


 やがてその名を称える声が讃美歌のように響き始める。

 いつの間にか数人の学生たちが集まり、虚ろな表情で手を合わせている。徐々にその数は増し、讃美歌もボリュームアップしていく。まるで信仰神の復活に酔いしれるように。


 異端者である俺たちは呆然と立ち尽くしている。

 あれ程耳障りだった民さんの笑い声も聞こえない。前内の推理も月山さんの叫びも響かない。青地さんの溌剌とした笑顔も見る影がない。


「これほど早くこの日が訪れるとはね。こうなってはお手上げよ」

 その中でただ一人、広野先生だけが口を開くが、すぐに落胆したように首を振る。

「食い止める手はないのですかっ!?」


「残念だけど無理ね。先祖たちも彼らにはひどく手を焼かされて、半ば隠居生活を余儀なくされたほどだから」

 蛇人間の先生が言うのだから、確かな事実なのだろう。しかし――!


「今こそ世界が裏返る刻だっ!」

 ついに教授が時空のヒビに消えた。隙間から絶え間なく暗黒が漏れ出している。


 ドクン、という鼓動が聞こえる。

 時空の切れ目から最初に顔を覗かせたのは、やはりあの象徴的な二本の触手だった。

 歪みが徐々に大きくなるにつれ、ソレの一部が三洲華大学構内に流れ込んでくる。

 ハスターの外見は、巨大な顔に無数の触手が生えたような奇怪なものだ。


 目を背けたくなる顔が躊躇なく顕現する。

 カルコサで対峙した際に垣間見た、暗黒を孕んだ双眸。

 二本の触手の間から、まるで這い出るようにしてギザギザの歯が見えた。それは何事かを囁くように上下にしきりに動き、場違いな甲高い音を響かせる。


 口の下に密集する顎髭のような物体――それは幾重にも生えた小さな触手だ。それはクトゥルフの外見との不気味な類似点に他ならない。彼らが半兄弟といわれる所以だろう。


 巨大な顔が露わになり、ヒトでいうと首にあたる付近から丸太ほどの触手たちが這いつくばるミミズのように顕現し、アスファルトに向かって進軍していく。まるで恐る恐る地に足つけようとしているようだ。


「三洲華大学……ミスカトニック大学……爆心地……誕生」

 いつもの推理のノリじゃないのはすぐにわかった。

「ここはクトゥルフ神話の爆心地だ。すべてはここから始まる運命だったんだ」


「らしくねえじゃんホームズさんよ!」

「やだなあニジュウ、これは推理じゃないよ。世界が裏返る瞬間――見届けようじゃないか」

「お断りだね」


 キッパリと言い放つ。前内のみならず、全員が俺に注目する。


「丸瀬くん?」

 月山さんは気が触れた者を憐れむような視線を向ける。

「丸瀬さん諦めよ? どうにもできないじゃん!」


 青地さんは泣きそうな表情でブンブンと首を振る。

「丸雄。ハスター顕現はヒトが止められるものじゃありません。ハリ湖の魚を召し上がって気でも狂ったようですね」

 それを食わせたのはどこの狂人だ!


「ワトソンがホームズの代わりとはね――」と広野先生。「悪くない展開だわ」

 もはや蛇人間の助けも期待できない。今にして思えば、()()()()()()()()()()()()()


「お言葉ですが広野先生。俺はホームズにはなりませんよ」

 用意はいいな? この機会を逃したらおしまいだ。

 頼むぞ?


「うちのホームズを正気に戻すだけです。それがいつだってワトソンの使命ですから」

 大きく深呼吸する。淀んだ空気に肺が悲鳴をあげるもしばしの間我慢してもらう。


 そして思い切り叫んだ。

 目の前で徐々に裏返っていく世界を、丸ごと吹き飛ばす勢いで!


「フェリィィィィィィーーーーーースッ!」


 俺の声を受け、通り沿いの植木から一匹の猫が躍り出た。

 先程のやり取りが脳裏に蘇る。


『ニャるほど。ついにハスターが動き出したか。それならボクもそっちに向かう。万が一ハスターが顕現したら合図をくれ』

「合図って、どうするつもりだよ?」

『それはその時のお楽しみだ』

 緊張感のない猫は続けた。


()()()()()()()()()()()()()()()


 紺色の毛をはためかした猫は唖然とする俺たちと顕現しかけるハスターの間に割って入る。全身を強張らせ威嚇するフェリスの登場に青地さんが「フェリちゃん!?」と叫ぶ。

 紺色の体に一枚の白い札が巻き付けられていて『㊙』と赤字で書かれている。

「にゃおっ! にゃおおおおぉぉ!」


 フェリスは不器用な手つきで体から札を毟り取り、宙に放った。


 その札には見覚えがある。

 イタクァとの対峙で使わせてもらったフェリスの主ニャルラトテップの従者を召喚する札だ。あの時使用したのは『14』。【外なる神】の王、アザトース総帥の従者を呼び出せたものだが、今回の『㊙』とはいかに――。


 その時だった。

 言いようのない空気の変容を感じた。


 知らぬ間に手の指が小刻みに震えていた。片方の手で包み込むも、やがて震えは全身へと波及していく。上下の歯がガチガチと鳴り始める。肌寒さを感じる季節ではあるが、そういう類の震えとは根本的に違うと本能が理解していた。


 例えるなら――畏怖だ。

 明瞭な形なき不気味な塊が漠然と目の前に顕現し、己の存在を根こそぎ奪い去っていくような感覚――と無理やり日本語に変換したところで、この感覚の根本原因を表現することは叶わないであろう。


 畏敬の念。

 手を合わせるしかないような遠い存在――合掌。合掌。合掌。


「フェリス……親玉ってマジかよ」

 ハスターと対峙するように、全宇宙の畏怖を湛えた巨大な存在が、今、三洲華大学にてその身を顕現させようとしているのだ!

「にゃおっ!」


 もちろん、フェリスは今やただの猫。返答はない。しかしこちらの言葉は理解したらしく、振り返って不敵にウインクしてみせた。

 そのものの名は――。


  *


 始めに鼓膜を震わせたものは、笛と太鼓の音だ。

 ゆっくりと扉が開いていくのを感じる。

 その音は徐々にボリュームを上げ、リズムを増し、彼らの王の凱旋を称える。


 かの有名なベートーヴェンの交響曲第九番のように聞こえる。しかしそれは、目の前で広がる音符たちの狂騒を、必死で脳が既知情報を集積して辛くも弾き出した偽りの解答に過ぎない。この音色に名前などない。あったとしても到底ヒトが理解できるわけもない。


 扉の向こう――虚無が広がる寒々しい領域で蠢く、エネルギーの塊を見た。

 扉が開いて一分は経っただろうか、それは膨張を続けていく。


 文系のくせに理系の講義をかじったことがある俺は、その光景に見覚えがあった。

 いや、俺の浅はかな知識と記憶がそう思わせているに過ぎない。既知なるものに当て嵌めなければ到底説明が出来ないのだから。


 それは受精の光景だ。

 排卵された卵に群がる精子の群れ。根源たる意志の塊の如く膨れ上がる虚無に、無数の波々とした暗黒が絶えず寄り集まっているのだ。まるでそれを独り占めするように。たった一つの卵目掛けて他を押し倒しながら突き進む精子のようではないか!


 ヒトが生まれる前に経験する生存競争。

 俺もそれを経験した。だから俺は今ここにいる。数多に放出された親父の種の一つとして、他を押しやりへし折り、この世への切符を手にしたのだ。


 膨張を繰り返す塊に対する表現ではないのはわかっている。

 広がっていく存在であって、収束していく存在ではないからだ。


 しかし俺の目にはそう見えるのだ。俺の頭の中ではそのような像が結ばれているのだ。

 やがてそれは正しいことを知る。


 暗黒の精子たちは収束していたのだ。たった一つの母なる虚無の卵に向かって。

 ヒトの生存競争では生き残る精子はたった一匹。

 しかし虚無の卵は数多の精子たちを受け入れている。その身腕で抱きしめている。

 収束する。収束する。そして――膨張する。膨張する。


 虚無の卵は収束を繰り返し、膨張していく存在だったのだ。

 扉が開いて二分――なおも収束と膨張を繰り返している。

 通りを覆い隠すほどの虚無の卵が講義棟に巨影を落とす。


 それは今もなお膨張を続ける宇宙の中心部で絶えず同じように膨張し、また同時に縮小を繰り返す混沌だ。沸騰するように泡立ちながら、如何なる形も持たない黒影はまるで玉座に寝そべる不埒な王そのもの。


 全ての宇宙の支配者【外なる神】の総帥にして原初の魔王――万物の王たる盲目の混沌、それはアザトースを示す言葉遊びに過ぎない! ヒトの言葉など意味を持たない。

 フェリスは文字通り親玉をぶつけてきたのだ。その狡猾さは、主であるニャルラトテップを既に凌駕しているのではなかろうか。


『騒がしいと思って来てみれば。ハスターよ。悠久の時はさぞ貴様には退屈であろう。クトゥルフとは相変わらずのようだな』


 これは違う! アザトースの言葉ではない! 扉の先から流れ込んでくる音を、勝手に脳が誤変換しているだけだ!

 なおも扉から絶えず混沌が流れ込む。あれはアザトースの一部だ! 膨張する虚無の卵の一端だ! そんな存在が日本語を話す訳ないじゃないか!


「忌々しい宇宙の部外者どもの王よ。この星が我の支配下であると知っての蛮行か!」

 ハスターの二本の触手が高々と天に向かって伸びる。それは講義棟を軽々と越える。アスファルトを掴んだ触手がうごめく。


『抜かせ小童。塵に等しき小惑星の一つを手中に収めた程度で、笑わせる』


 沸騰する混沌が徐々に形を成していく。

 収束して膨張を繰り返していた虚無の卵に、ついに亀裂が走る。


 数多の暗黒を孕んだ卵へ最後の精子たちが収斂し、やがて一つの形を産み落とす。

 不定形な混沌が、啓示のように定形を伴って顕現した瞬間だった。


 それは巨大な眼のように見える。

 彼方の四次元空間から情けの如くこの三次元空間に身を堕とした愚劣なる姿。それを敢えて曝したことに、全宇宙の支配者たる余裕が滲み出ているようだ。


『今一度、惰眠を貪るがいい』

 巨大な瞳からまるで涙のように混沌が流れ落ちた。それはハスターを憐れむ涙のようにも感じられた。

 ハスターとアザトースが急接近し互いに絡まり合い始めたところで、慌てて数歩後退した。未だに目の前の光景が信じられない。特に前内はひどい顔で、まるで生気が感じられない。

 何度か深呼吸し、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「目ぇ覚めたか? クトゥルフ探偵さんよ」

「あ、ああ……」


 まるで悪夢から覚めたように前内は眼鏡を外し、両目を掻く。

「まさかアザトースを呼び寄せるなんてね。一枚とられたよ」

 いつもの澄ました表情を浮かべ、嬉々として続ける。


「ハスターとアザトースが目の前で喧嘩しているんだぜ?」

 それは事件を推理する時のいつものクトゥルフ探偵の姿だった。

「僕らに出来ることがあるとしたら――」


 しばし考え込む前内ホームズ。全員、奴の次の言葉を待っている。

 今や奴の知識だけが頼りだ。


 その後、前内は広野先生と民さんに声をかけ、前内の質問に二人は頷いた。

 首を傾げる俺と月山さん、青地さんを尻目に前内は言い放つ。


「よしっ、それじゃあ足掻くとしますか。偉大なるクトゥルフ神話を僕らヒトの手に取り戻すんだ。準備はいいかい?」

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