13 side リゼット
クラヴィエ家、屋敷の裏の洗濯場。
宙に浮かんだ水球の中で、白いシーツが円を描いている。
ゆるやかな水流に撫でられ、汚れが落ちるのを確認して水球をほどく。
洗い終えたシーツはふわりと広がり、汚れを含んだ水は排水溝へと吸い込まれていった。
「……リゼットさん、本当に新人なの?」
隣で見ていた先輩メイドの方が、呆気に取られたように呟く。
「はい。メイドとして働くのは、こちらが初めてです」
そう答えると、彼女はますます困惑したように目を丸くした。
「リゼットちゃんがすごいのは魔法だけじゃないんですよ!」
洗濯物を抱えた別のメイドの方が、弾んだ声で話に加わってきた。
「昨日、エリーゼ様のお客様にお茶を出した時に、危うく順番を間違えるところだったんです。年配の方を主賓だと勘違いしていて……。でも、リゼットちゃんがこっそり違うと教えてくれて、助かったんです!」
「ちょっと、あなた何をしてるのよ」
そう言った先輩メイドは、頭痛が襲ってきたかのようにこめかみを押さえる。
当の本人は、えへへと笑って誤魔化していた。
「でも、リゼットさんはよく気付いたわね」
「席順を見れば、ある程度は分かります。エリーゼ様の右手側に座っておられましたので」
「右手側、ですか?」
「はい。正式な場では、主賓にあたる方をその席へ案内することが多いのです」
「おおー……! そんな決まりがあったんですね!」
片手を広げながらそう説明すると、笑っていたメイドは目を輝かせた。
ころころと表情の変わる方だ。
さらにはぱちぱちと拍手までされ、少し反応に困ってしまう。
「あなたは感心する前に、もう少し勉強なさい」
先輩メイドの方がぴしゃりと言うと、彼女は「はーい」と肩をすくめた。
温かなやり取りを眺めるうちに、私の口元にも笑みが浮かぶ。
洗い終えたシーツを物干しへと移し、次の水球を作る。
澄んだ水が宙に浮かぶのを見つめながら、ふと昔のことを思い出す。
礼儀作法に詳しいのは、私が特別に優れているからではない。
ただ、そういうものを学ぶ環境に生まれただけだ。
私はエルフ族の住む国、森霊国シルヴァレスで生まれた。
名目上は、シルヴァレスの第五王女だった。
もっとも、王女だからといって、穏やかな日々を送っていたわけではない。
私の母は身分の高い方ではなく、すでに亡くなっている。
後ろ盾を持たない妾腹の王女。
それが、王宮における私の立場だった。
一番の問題は、私が王族の中でも強い魔力を持っていたことだ。
兄姉たちから疎まれていることは、幼い私にも分かっていた。
そして父である王も、私に手を差し伸べてはくださらなかった。
ついには殺されかけ、命からがら故郷を逃げ出したのだ。
知る者のいない異国の地。
生きていくために、私は冒険者となった。
幸い、魔力と戦う術は身についている。
依頼をこなし、日銭を稼ぐことだけなら難しくはない。
――けれど、いつも一人だった。
王宮で過ごした日々は、私に人を疑う術ばかりを教えていた。
差し伸べられた手の裏に何が隠されているのか。
向けられた笑みの奥に、どんな思惑があるのか。
そんなことばかりを考えてしまう。
だから私は、冒険者になってからもパーティーを組むことはなかった。
それでも、ギルドから頼まれれば、駆け出しの冒険者たちに同行することもある。
ノエル様に初めてお会いした日もそうだった。
経験の浅い冒険者を見守り、危険があれば助ける。
ただ、それだけの依頼だったはずだ。
けれど、強大な魔物に遭遇した瞬間……。
彼らは私の指示を無視して逃げ出した。
誰だって命は惜しい。
逃げること自体は、まだ許せた。
しかし彼らは、私の退路を塞ぎ、囮として魔物の前に置き去りにしたのだ。
――ああ、やはりそうなのか。
そんな言葉が脳裏をよぎった。
どこにいても変わらない。
人は、自分の都合のためなら、平然と誰かを切り捨てる。
それが、この世の本質なのだと。
片目片腕を失い、腹部からは血が止まらず、地面に倒れ伏しながら……。
私は怒りにも似た感情を抱いていた。
どうして、私ばかりがこんな目に遭わなければならないのか。
悔しかった。
怖かった。
死にたくなかった。
誰か。
誰でもいい。
私を、助けて!
そう願った時だ。
ノエル様が私の前に現れたのは。
♦
「一度は失った命ですから。救っていただいたこの御恩を、ノエル様のお側でお仕えすることで返していきたいのです」
そう口にした時のことを、今でも覚えている。
死を待つばかりの私を、ノエル様は救ってくださった。
その恩に報いたいと思ったのは、本心だ。
ただし、すべてが綺麗な感情だったわけでもない。
私はまだ、誰かに狙われているかもしれない。
シルヴァレスから逃げ出した私を、もう誰も追っていないという保証はどこにもなかった。
ならば、ノエル様のお側にいればいい。
あれほど規格外の魔法を扱える方の庇護に入れば、簡単に殺されることはない。
今まで散々、理不尽な目に遭ってきたのだ。
ならば今度くらい……。
――自分が生き延びるために、他人を利用しても許されるのではないか。
そんな浅ましい考えが、自分の中にあることにも気づいていた。
♦
洗濯を終えたあと、私は客間の掃除を任された。
床を掃き、窓辺の埃を払う。
最後に飾り棚を拭こうと、置かれていた花瓶をそっと持ち上げる。
本来なら難しい作業ではない。
けれど、先ほどの回想がまだ胸の奥に引っかかっていた。
そのせいだろうか。
指先からわずかに力が抜けた。
花瓶が手の中から滑り落ちる。
「あっ――」
伸ばした手は届かなかった。
次の瞬間、乾いた音が客間に響く。
花瓶は床の上でいくつもの破片に砕け散った。
「……やって、しまいました」
床に散らばった破片を見下ろしたまま、私はしばらく動けなかった。
頭の中が真っ白になる。
そんな時だった。
「リゼット?」
客間の扉が開き、聞き慣れた声が耳に届く。
音を聞きつけたのだろう。
振り返ると、そこにはノエル様が立っていた。
目が合った瞬間、胸が冷たくなる。
見られてしまった。
雇っていただいたばかりだというのに……。
役に立つどころか、屋敷の物を壊してしまった。
私は慌てて膝をつき、破片を拾おうとする。
震える指先で、床に散らばった破片へ手を伸ばす。
次の瞬間、ちくりと鋭い痛みが走った。
近づいてくる足音。
叱られてしまう。
そう思い、反射的に肩が強張る。
けれど、ノエル様が見ていたのは割れた花瓶ではなかった。
「手、切ったのか?」
その視線は、私の指先に向けられていた。
「はい。少しだけ……」
そう答えると、ノエル様は静かに息を吐いた。
「それでも、放っておくと痛むだろう」
ノエル様は私の手を取り、傷口を確かめる。
黒い靄のような魔力が指先を包み込んだかと思うと……。
滲んでいた血が消え、切れた皮膚も元通りになっていた。
「よし。これで大丈夫だな」
そう言うと、ノエル様は床に散らばった破片へと視線を移す。
「破片は素手で拾うと危ない。布を使おう」
ノエル様は近くに置いてあった掃除用の布を手に取り、自ら膝をついた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「申し訳、ありません……」
気が付けば、そんな言葉が零れていた。
視界が滲み、頬を温かなものが伝っていく。
「えっ、リゼット。まさか、そんなに痛かったのか?」
突然涙を流した私を見て、ノエル様はぎょっとしたように目を瞬かせた。
慌てた声に、私は首を横に振る。
痛みはもうない。
ノエル様が治してくださったのだから、当然だ。
「じゃあもしかして、割れた花瓶のことか? それなら大丈夫だ。母さんも、こんなことで怒ったりはしない――」
違う。
そうではないのです、ノエル様。
もちろん、花瓶を壊してしまったことも申し訳ない。
けれど、私が一番に謝りたいのはノエル様に対してだ。
ノエル様は、失敗した私を責めなかった。
壊れた花瓶よりも、私の傷を見てくださった。
それどころか、後片付けまで手伝おうとしてくださっている。
優しい方だ。
強者の優しさではない。
傷ついた者を放っておけないのだ。
そんなノエル様を、私は利用しようとしていた。
その事実が、どうしようもなく恥ずかしかった。
「今度こそ、必ずノエル様のお役に立ってみせます」
涙を拭い、そう告げる。
するとノエル様は、少し困ったように笑った。
「いや、そんなに気負わなくていいよ。リゼットにはもう十分助けられてるし」
ノエル様は分かっていない。
何気ない優しさが、私にはどれほど眩しく見えたのか。
けれど、それでいい。
私はもう、ノエル様の力に隠れるためだけに側にいるのではない。
ノエル様の優しさに報いたい。
その歩みを支えられる私でありたい。
誰かのために、心からそう思ったのは。
おそらく、この時が初めてだった。




