23 意志の炎
ドス黒い粘液はリザードマンの体を飲み込むだけでなく、気付けば、水たまりに紛れて屋上の床全体からしみ出していた。リザードマンの体が溶けていく様に、自分が胃の中にいるかのような錯覚をする。
そしてそれは錯覚などではなかった。ジュウと足元から音がして、ブーツが侵食され始めていた。
「は!? これ、精霊の加護がついてる装備――う、なんだ、これ……っ」
全身から力が抜け、床に膝と手を付いてしまう。接触面である下衣と手も焼けたが、損傷度合いは下衣の方が大きかった。
「や、ば、まさかこれ、精霊喰らい……!?」
精霊喰らいとはその名の通り、精霊の力を、精霊そのものを喰らうモンスターの総称である。わたしは特に精霊の加護が多いため、加護によるバフが減少したことで相対的に体が重く感じるようになってしまったのだろう。とはいえ、素の身体能力自体はまだ残っているので動けないことはない。
しかし、精霊喰らいの行動は素早かった。床から黒い触手を伸ばし、精霊王のマントを引っ張る。抵抗できず背中から倒れてしまい、逃がさないとでも言わんばかりに腹と腕を締め付けてきた。さらにはボフリと、黒い靄――様々なデバフを付与する瘴気まで吐き出してきた。
「ぐあ……!」
精霊王のマントすら侵食せんと蠢く強烈な瘴気。それは、精霊たちの加護が激減し、エルフェリアの祝福も失ってしまったわたしの抵抗力を抜くには十分な威力だった。あらわになっている肌を焼き、装備を焼き、内腑までも焼こうとしている。咄嗟に呼吸を止めたけれど少し吸ってしまい、口内に血の味が広がった。
なんだ、これは。なぜこんな強力なモンスターが、こんなところにいるんだ……!? リザードマンといい、たかが五年魔力を溜め込んだ程度で生まれてくるはずもない強さだぞ……!? それともわたしが気付いてないだけで、この地域に大きな穴でも開いているのだろうか? 異世界から大量の魔力が流入してしまうような、大きな穴が、どこかに。
ゴロゴロと雷が鳴り、暗い雲に覆われた空がわずかに照らされる。空にそれを見つけて、わたしは目を見開いた。雨が目に入るのも気にしていられないくらいに、ただただ呆然と、それを見る。
空に走った、大きな亀裂を。
中心が横につままれたように少しだけ開き、内側がわずかに見える。
怨嗟、慟哭、嫉妬、憎悪、虚無。
ありとあらゆる闇を煮詰めて濃縮させた、悍ましいまでのそれは。
「……魔、王……?」
わたしが過去に遭遇した、魔王にそっくりだった。
いやいやいや! 魔王はわたしが倒したばかりだ! 神様だってあと十年は発生しないといっていた! だからあれは魔王じゃない! 落ち着けわたし!
「いぎっ……!」
皮肉にも、この身を包む粘液による痛みのせいで、わたしの混乱は一時的に収まった。しかし自体は何一つとして好転していない。
まずはこの精霊喰らいの拘束から脱しなければいけない。このままでは精霊の加護が喰らいつくされ、本格的に私本体の侵食が始まってしまう。そもそもこの装備を壊したくないので、悠長にしていられない。
「筋力強化!」
強化の魔法を使用してからフンッと腕に力を入れると、ブチブチと粘液が剥がれる。しかしすぐさま追加の触手が湧いて纏わりついてくる。
「光の衣!」
各種抵抗力を高める魔法を使用し、粘液の力を弱めて脱出しようとした、のだけれども。
亀裂の闇が蠢くと同時に精霊喰らいも活性化し、大量の、津波といえそうなくらいの粘液が噴出した。光の衣のおかげでダメージはほぼ入っていないけれど、このままでは物量で押されてしまう。
まだ魔力に余裕はあるけど、どうしたものかと頭を悩ませる。コアの方を見ると、粘液の壁が厳重に守っていた。まず超出力で周辺の粘液を焼き切って、一点突破系の魔法を叩き込めば壊せるだろうか。
――
……ん? なんだ? 雨音に混じって何か音が聞こえた、ような。
今この時に気にしている場合ではないのかもしれない。けれども、聞き逃してはいけないような、そんな予感。
粘液に気を付けながら、慎重に周囲に視線をやる。右でもない、前でもない、下でもない……――上。
バッと亀裂を見上げてみれば、亀裂からぼたぼたと黒い液体が垂れていた。精霊喰らいの補充用……ではない。なんとなくだけど、性質が違う気がする。負の感情がみっちり詰まってそうには変わりないのだけれども……あれは、そう。
まるで涙のような――
『……テ……』
また聞こえた。肉声ではない、思念のようなものだけれども。
あれは、今……何を訴えようとしている?
世の中への恨みつらみ? 聞くに堪えない罵詈雑言? なにもできないでいるわたしへの嘲笑?
いや、そんなものではない。もっと別の、痛切な――願い。
『タスケテ』
「――」
助けて。
あの、負の想念の塊が、わたしに?
……いや、それが誰だろうと、何だろうと、関係ない。
わたしがわたしであることを曲げないためにも、助ける。
「勇気の炉心」
ゴウッ!とわたしを中心に白い炎が舞った。周囲の闇色の粘液は蒸発し、残った粘液も光に照らされた夜行虫のように嫌がって離れていく。
勇気の炉心。それは、世界でただ一人、わたしだけが使える固有魔法。
効果は単純。わたしの進む意志が続く限り、胸の内から魔力が溢れてくる。それだけだ。
ただし常に使えるわけではない。これまで魔王戦含めて数回しか使えなかった。正直自分でもよくわかっていないけれど、『助けたいけれど高すぎる壁にぶつかった時』に発動することが多い気がする。
今回の高い壁は……精霊喰らいのことではないだろう。わたしは剣に魔力を篭めて、伸ばす、伸ばす、伸ばす。
「聖炎」
白炎を剣に宿らせ、大きく腕を引き。
「はああああああああっ!!」
ザンッ!!!
横なぎの一回転斬りで、屋上を覆っていた粘液を全て蒸発させた。それはコアを覆っていたものも例外なく散り、ついでにコアも上下に分断されている。聖なる炎はコアまでは焼き尽くさなかった。
そう、この程度で終わるものが困難なんかじゃない。わたしは空を見上げ、剣をしまう。今度は巨大な弓を生成し、弦を引く。弦の動きに合わせて、白炎の矢も生成されていく。
白炎にありったけの魔力を篭める。無念を、諦念を、絶望を吹き飛ばす、魔力を篭めて。
「いつになるかわからない。けれど……わたしが、絶対に、助けるから」
放たれた巨大な白炎の矢は、光り輝きながら空を切り裂き、亀裂に吸い込まれ。
派手な炎を散らすでもなく、叫びを上げるでもなく、亀裂は静かに閉じて消えていった。
あの矢がどれほどの効果があったのかはわからない。それでも、わずかながらも、届いたのだと、神託めいた直感がささやいた。
いつしか雨は止み、柔らかな夕日が世界を包み込んでいた。
◇◇◇◇◇
「ハハ、首を突っ込む必要はないと言うたのにのう。災難に巻き込まれるのは、もはや勇者の宿命か」
その光をどこからか眺めていた者が、笑みを浮かべながら呟く。
「しかし……そうか、アレを『倒す』ではなく『救う』ときたか。お主の魂は、本当に筋金入りよのう」
声は楽しさに弾みながらも、どこか悲哀も滲んで。
「まぁ、よかろ。たとえ心が折れたとて、きちんと拾うてやる。やってみるがよい」
誰の耳に届くこともなく、風に吹かれて消えていった。




