第29話:何もなかった顔
本作は毎週水曜・土曜の21時に、2話ずつ更新予定です。
朝は、いつも通り来た。
目覚ましが鳴って、
透はそれを止めて、布団から起き上がる。
身体は重くない。
筋肉痛も、違和感もない。
――昨日のことが、嘘みたいだった。
「……気のせい、か」
小さく呟いて、制服に袖を通す。
鏡に映る自分は、変わらない高校生の顔をしている。
朝食の準備をして、
母と他愛ない会話をして、
妹と弟の声を背中で聞きながら玄関を出る。
世界は、何も変わっていない。
*
学校でも、同じだ。
教室のざわめき。
チャイムの音。
ノートをめくる音。
さやと目が合えば、軽く手を振られる。
「おはよ、透」
「おはよ」
それだけ。
昨日の夜、
“出せたけど止められなかった”ことなんて、
どこにも残っていない。
――残っていない、はずだった。
体育の時間。
ボールが弾かれ、予想外の方向に飛んでくる。
「あっ」
誰かの声より早く、
透の身体が動いた。
考える前に、腕が伸びる。
ボールは、ぴたりと手に収まった。
「……ナイスキャッチ」
クラスメイトの声に、透は一瞬だけ固まる。
(今の……早すぎなかったか?)
でも、誰も気にしていない。
自分でも、理由は説明できる。
――たまたまだ。
そう思うことにして、
ボールを投げ返した。
*
放課後。
校舎裏の自販機前。
透が飲み物を買っていると、
少し離れたところに、見慣れない先輩がいた。
制服は同じ高校。
でも、どこか雰囲気が違う。
だらっと肩の力が抜けていて、
それでいて、目だけが落ち着かない。
先輩は、透に気づいて、軽く笑った。
「一年?」
「あ、はい」
「そっか。俺、相馬。三年」
相馬恒一。
名乗り方は軽い。
「部活?」
「いえ……」
「だよな。俺も、そんな感じ」
相馬は自販機にもたれ、空を見上げた。
「最近さ。
“間に合った”と思ったのに、
全然足りてなかったってこと、ない?」
唐突な問いだった。
透は、答えに詰まる。
「……どういう意味ですか」
「んー。
守れたつもりだったのに、
あとから見ると、結構壊れてた、みたいな」
相馬は笑っている。
でも、その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「ま、気にすんな。
そのうち、慣れるから」
「慣れる……?」
「そう。
できない自分に」
その言葉だけが、妙に重く残った。
チャイムが鳴り、
相馬は手を振って去っていく。
「じゃ。またな」
透は、その背中を見送りながら、
胸の奥がざわつくのを感じていた。
理由は、分からない。
*
その夜。
別の場所。
暗い部屋で、モニターが静かに光っている。
数値は、安定している。
――少なくとも、表向きは。
「訓練場のデータは、やはり空白です」
部下の報告に、徹は目を細めた。
「それでも、現象は起きている」
「事故……ではないと?」
「事故なら、もっと派手だ」
徹は画面から目を離し、低く言う。
「誰かが、出している。
だが、管理外だ」
沈黙。
その言葉の意味を、全員が理解していた。
「引き続き、観測を」
「はい」
徹は、椅子に深く腰掛ける。
少年の顔が、脳裏をよぎる。
――まだだ。
だが、遠くない。
管理できない力は、事故と同じ。
それが、組織のルールだった。
*
透は、その夜も眠りにつく。
何も知らない顔で。
何もなかった一日の続きを、生きるために。
胸の奥に積み上がっている“何か”に、
まだ、名前を与えないまま。




