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内緒の魔王くん  作者: 如月結花
第8話「ゴールデンウィークの魔王くん-後編-」
61/63

8話目・その7

 急いで私服からウェイトレスの制服へと着替えを済ませた茉莉は、店内へと戻った。

『STAFF ONLY』の看板の内側では、ユニ子が段ボール箱から備品の補充を行っているところだった。

 茉莉はユニ子の姿を見ると駆け寄り、

「あ、あの…さっきはすみませんでした…。」

 と、再度謝罪の言葉をかける。

 ユニ子は一旦手を止めて茉莉の姿をチラと見ると、目を瞑って首を左右に振る。

 それから目をデフォルトの半分まで開いて、茉莉の頭上を見るように少し顔を上に向けてから言った。

「それよりまーちゃん、そのままホールに出てはダメですよ。耳付け忘れてます。」

「あっ…!?」

 ユニ子に指摘された茉莉は、台の隅に置いていた猫耳を急いで拾い上げて装着する。

「…まーちゃんは見ていて飽きませんね。」

 言いながら微かに口元を綻ばせたユニ子だったが、彼女の微細な表情の変化が余人に伝わることは殆どない。

「そ、それ、褒められてます…?」

「褒めてます。」

「そ、そうですか…。」

 あまり納得していない茉莉だったが、次の瞬間にはハッとして、

「すみません、ありがとうございました!ボクもう行きますね!失礼します!」

 エルとリアを待たせていることを思い出して、慌てて踵を返した。

 茉莉の後ろ姿を横目に、ユニ子は忍び笑いを漏らした後、何事もなかった様子で仕事を再開させた。

 そんなちょっとした遣り取りを終えた茉莉がエル達の待つテーブルに戻って来たのは、席を立ってから5分の後である。

「お待たせ!じゃあご案内するね!」

 という台詞と共に、茉莉はテーブルの前で急停止した。

『茉莉姉ぇ帰って来た?…って、あれ?着替えたの?』

『ああ、そういえば…。』

 リアが疑問を放ったことで、エルは先刻の茉莉とユニ子の会話内容を全く妹に説明していなかったことに気付いた。

 尤も、エル自身も内容をいまいち把握出来てはいなかったのだから、忘れていなかったとしても、どう説明したものか、と悩んだのではあろうが。

 傍目にも全く急ぐ様子のない兄妹に、もどかしさを感じながら、茉莉は言葉で急かし立てる。

「二人共、早く立って!時間なくなっちゃうから!」

 その勢いに押されたのかは定かではないが、

『猫を見に行くと言っておっただろう。茉莉が案内してくれるのだそうだ。』

 と、エルは簡潔にリアに説明を投げつつ席を立つ。

『あぁ、なるほどね。』

 一先ずは納得したらしいリアも立ち上がって、猫を見に行く意思を示した。

 茉莉はようやく腰を上げてくれた二人を見、うんうんと頷いた後、

「じゃあ、二人共、付いて来てね。」

 言いながらプレイルームへと先導を始めた。

 プレイルームは客席からも様子が窺えるようになっているが、その入り口はスタッフルームへと続く通路を途中で途中で右に折れると直ぐである。

 そんなに広くはない店内なので、ものの数秒で辿り着く距離だった。

 壁で遮られて客席からは死角となる位置には、木製の棚が置かれていて、その中には数足のスリッパが綺麗に並べられている。

 要するに下駄箱であり、喫茶店の中に下駄箱があるという、ある種異様な光景が、目に映り込んでくる。

 だがこれも、猫カフェというジャンルの喫茶店に関して言えば、それ程おかしい訳ではない。

 エルとリアが特に驚きを見せないのは、一般的な喫茶店についての知識が不足している為ではあるが。

「そこのスリッパに履き替えてね。」

 茉莉に指示に従って、エルは靴を脱いでスリッパを履く。リアもそれに倣い、同じ様にする。

「プレイルームに入る時と出る時には、手を洗って貰うのが規則だから、お願いね。」

 更に、近場に備え付けられていた洗面器での手洗いを促し、順番に手を洗い終えると、茉莉はプレイルームへと繋がる最初の扉を開ける。

 扉はクリアガラスの二重扉になっていて、一つ目の扉の先は、二つ目の扉が待ち構えているだけの狭い空間だった。

 エルが謎の空間に疑問を抱いていると、

「猫が扉の開け閉めのタイミングで外に出て行かないように、二重扉になってるんだよ。片方ずつ開けるから、後ろの扉を閉めてから、前の扉を開けるね。」

 と、茉莉による補足が入る。

 最後尾に位置するエルが後方のドアを閉めると、茉莉は前方の扉に手を置いた。

 が、思い出したように「あっ…!」と声を上げて、

「ごめん、注意事項、説明してなかったよね…。」

 本来は、客がプレイルームの利用希望を告げた際に説明するのだが、ユニ子が注意事項を説明しようとした段階で茉莉の存在に気付き、茉莉が引き継ぐことになった為に、その辺りをすっ飛ばしてしまっていたのだ。

 入室の直前に気付くことが出来たのは、本当にギリギリのタイミングであった。

 目前に猫が見えているのに待たせても申し訳ないので(実際リアなどは、早く早く、と表情で訴えている)、茉莉は半ば早口でマニュアルを読み上げる。

「えーと…プレイルームはお一人様30分までご利用頂けます。ルーム内ではお静かにお願いします。寝ている猫を起こしたり、逃げるのを追いかけたり、無理に撫でたり抱っこしたりは、しないようにお願いします。また、フラッシュを使用しての撮影はご遠慮下さい。」

 注意事項を聞きつつ、エルは同時進行でリアに翻訳し、伝えていた。

「もしもルール違反を目撃しましたら、従業員の方から声をかけさせて頂く場合がございます。ルールを守って、ごゆっくり、猫との触れ合いをお楽しみ下さい。…以上!」

『…だそうだ、リア。』

 茉莉が言い終わったのに数秒遅れて、エルも注意事項をリアに伝え終える。

『はいはい。子供じゃないんだからルールくらい守れるっての。』

 口を尖らせるリアの仕草は子供そのものであったが、言ったら不機嫌になるのは分かり切っている為、エルは大人しく口を噤んでおいた。

 二人の会話が終わったのを見計らって、茉莉はエルに確認を飛ばす。

「魔王くん、伝えてくれた?」

「うむ。」

 エルが肯定するのを認めた茉莉は、改めて二つ目の扉に手をかける。

 いよいよ扉を開けて、猫達の闊歩する空間へと、踏み込むのだ。

 扉が茉莉の手によって、そっと押し開けられていく。

 クリアガラスであった為に、室内の全容などは既に知るところとなってはいたが、それでも扉を隔てたのと直接見るのとでは、五感から伝わる情報にハッキリとした差異があった。

 隔てる物は無く、手を伸ばせば触れられる距離に猫が居るというのは、猫好きにして至福の空間であろう。

 具体的には、若干キャラ崩壊しかけているリアのことだ。

『はぁぁ…猫が、いっぱいぃ…。』

 うっとりした声を出しながら身悶えている。

 普段のリアからは想像も付かない姿だった。エルがそんな妹に若干引いていたのは、ここだけの話である。

 プレイルームの中には多種多様な猫が十数匹存在し、個々に違う姿を見せていた。

 絨毯の上でゴロゴロと転がる猫。伏せた姿勢で入って来たエル達を観察する猫。箱の中に頭を突っ込んでジタバタする猫。台座からバネが直立する玩具の猫じゃらしをひたすらパンチする猫。柱の周りを囲うように作られた段の少ない階段のような足場に次々跳び移る猫。どうやって登ったのか、天井に近い換気窓のさんに乗りバランスを取っている猫。

 そして今この瞬間にも次々と居場所を変え、姿勢を変える猫達。

 動かず寝入ってる猫や、寝そうになっては起きてを繰り返す猫も何匹かは居たが。

 全てを目で追うことなどは到底不可能である。その代わり、天井以外の何処を見ても、大抵は猫が視界に入ってくるのだ。

「その辺にある玩具は、自由に使っても良いから…。」

 という茉莉が説明する声も耳に届いていないらしいリアは、ふらふらとした足取りで、猫達が戯れる場所へと誘われていった。

「…まあ、リアは放って置いても、自由にするであろう。やり過ぎぬように見張っておらねばならぬとは思うが。」

「…そう、だね。」

 エルは茉莉と苦笑を交わし合った。

 彼らが視線を向けると、夢現ゆめうつつのような状態で部屋の中心部に歩いていったリアは、ある程度の距離まで猫に近付いた辺りで床に座り込んで、寄って来た猫達と戯れ始めた。

 そんな常ならぬリアを視界に捉えながら、茉莉は続けて独り言のように呟く。

「あと十分ちょっとで、休憩終わりかぁ…。」

「ああ…すまぬな、茉莉。休憩時間に付き合わせてしまって…。」

 エルが申し訳なさそうに反応を返すと、

「あれっ、今、声に出ちゃってた!?あ、あの、そういうことじゃなくてね!?」

 焦った様子で茉莉は視線を左右に泳がせた。

 そんな茉莉の態度が可笑しくて、エルは笑ってしまいそうになった。

「当て付けのような意味で口にした訳ではないのは分かっておる。…ただ、迷惑を掛けたな、と。」

「あ、ぅ…迷惑ってことは、ない…けど。…その…久しぶりにリアちゃんとも会えて、話せて、楽しかったから。もっと話したかったなぁって…。」

 本心としては、それだけだ。そもそも自分の都合で話せる時間が限られている現状を、茉莉の方こそ申し訳なく思っている。

 だが、エルにもやはり、思うところはあったようなのだ。

「仕事先まで会いに来るのは止めておくべきであった。それは我の反省点だ。」

「…うん。そうしてくれると、助かるかも…。気になって仕事に集中出来ないのは困る、って言われちゃったし…。実際そうなったと思うから…。」

 今回エルが『STRAY’t』へやって来たのは、リアが魔界へ帰る前に少しでも茉莉と話をさせてやりたかったから、という理由もある。

 しかしながら彼自身も、1週間もの間、茉莉と会えないのは、寂しいと感じていた部分もあった。

 たった1週間、夏川 茉莉という人間に会えないだけで、どこか心が打ち沈んでしまいそうだったのだ。

 3年後に、本当に自分は友人達に別れを告げて、魔界へ帰ることなど出来るのだろうか…そんな不安にも似た気持ちをねじ伏せて、エルは微笑を浮かべる。

「今後は、茉莉に迷惑を掛けぬ為、自重するとしよう。今回だけは大目に見て欲しいところだ。」

 その台詞は、あるいは自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのかもしれない。

 茉莉はエルの内心に気付くことはなく、

「あはは…。」

 曖昧に笑って頷いた。

 会話に一先ずの区切りを迎え、暫しの間リアから目を離していたことに気付いた彼らが部屋の中央付近に目を向けると、数匹の猫にじゃれつかれながら、何故か背を丸めて部屋の一点を凝視している姿が目に映った。

「うむ?何をしておるのだ、リアは…。」

「…えーと…何だろうね…。」

 彼女の行動の意味が理解出来なかった二人は、取り敢えず生じた疑問を解消しに行くことにする。

『何をやっておる、リア?』

 と、ある程度の距離まで近付くと、エルはそのまま直球で疑問をぶつけた。

 その際、彼の声に反応したらしい猫が二匹、その場から逃げ出して、一瞬微妙な顔になったエルであった。

『いや、あの猫がさぁ…。ずっとこっち見てるんだけど、全然近寄って来ないから…。』

 振り向くこともなく、リアは静かに答える。近くに居た猫が二匹逃げたことは、特に気にしていないらしい。

 リアの視線を追った先には、確かに一匹の黒猫が、此方に真っ直ぐ目を向けていた。

『…それで、その猫と睨み合っておったのか?』

 胡乱うろんげにエルが問うと、リアは少しムッとした声で、

『ちょっと見ててよ…?』

 と応えたが、エルには何を見れば良いのかさえ分からなかったので、一先ず丸まったような姿勢のリアを改めて視界に収める。

 すると、リアが身を捩って、そのままの姿勢を保ったまま半歩分だけ前進した。

 三秒程の間を空けてから、リアが再び声を上げる。

『…分かった?』

『何がだ?』

 当然だがエルには、妹が妙な姿勢のまま少しだけ前に進んだことしか分からなかった。

『はぁ?ちゃんと見てたの?』

 苛立ち混じりの声は、明らかにエルを批難している。

『お前が変な恰好をしたまま前に進んだのは見ておったが?』

『わたっ………私を見てもしょうがないでしょ、猫を見ろ馬鹿兄貴。』

 不思議そうに答えるエルに、声を荒げそうになったリアだが、室内では静かにするというルールを思い出して何とか自制し、控え目に言い直した。

 理解出来ていなかったエルも悪いのかもしれないが、言葉足らずであったリアも悪い。但し、リアには自分に非があるとは全く考えなかった。

 エルがそんな状態だったので、魔人語を解さない茉莉には余計に何のことか分からなかっただろう…と茉莉に目を遣ったエルだったが、

「…あー、なるほど…。」

 と、茉莉は何故かリアの行動に合点がいったように頷いていた。

 今のリアとの遣り取りは日本語に訳していなかったので、エルは何故茉莉がリアの行動に納得を示したのか疑問であった。

「茉莉は、何か分かったのか…?」

 エルは自分だけが理解していない状況に、何だか奇妙な疎外感を覚えながら茉莉に問う。

「えーと…あの子は警戒心が強いんだよね…。」

 問われた茉莉は、しかし要領を得ない言葉を返すだけだった。

 それで尚も疑問が氷解しない様子のエルを見た茉莉は、その理由に思い当たったらしく「…あ。」と声を上げる。

「魔王くん、見てなかった?」

「…リアのことを見ておった。そう言ったらリアに、猫を見ろ、と責められたが…。」

 茉莉の聞き方はリアと違って責めるような声色ではなかったが、誤魔化しても仕方がないのでエルは素直に白状した。

「多分、ちゃんと見てれば分かるよ。…えっと、分からなかったらボクが説明するから。」

「ふむ…そうか。」

 少し自信なさ気に言う茉莉に、エルは信じて頷きを返す。

 そうして今度は魔人語でリアに話しかけた。

『リア。悪いがもう一回やってくれぬか。今度は猫を見ておる。』

『まぁ別に良いけど…。』

 渋々といった感じではあったが、リアの了承を取り付けたエルは、今度こそ黒猫に視線を定めて観察を始める。

 黒猫を改めて見ると、3メートル以上距離を開けて、此方側───リアにジッと目を向けている。

 立ち姿は極自然体に見え、特に警戒している様子でもなさそうだった。

 しかし、ふと黒猫は、此方を見据えたまま、少し後ろへ退いた。

 距離にして、人の半歩分程だ。

 その動きを見れば、茉莉が言った通り、エルにも現状を正しく理解出来た。

 要するに、黒猫は常にリアと一定の距離を保っているのだ。

 リアが黒猫との距離を詰めると、その分だけ黒猫は後ろに下がる。

 先程茉莉が言っていた、警戒心が強い、という言葉に、エルはようやく納得がいった。

『…今度はちゃんと分かった?』

『うむ。』

 心なしか気落ちした声で言うリアに、肯定を返すエル。

 警戒されているのだろう…とは、リアにも直ぐに思い至った事だ。

 黒猫は一定の距離を保ち、それ以上は近付かせてはくれない。

 けれど、リアに全く興味がない訳でもなさそうなのだ。

 近付けば同じ分だけ距離を開け、逆に遠ざかれば、黒猫の方は、その分だけ近付いてくる。

 そうでなければ、リアも特段、意識したりはしなかっただろう。

 しかし一度意識してしまうと、そんな黒猫の態度に、何故だかリアは親近感を抱いたのだ。

 黒い髪をして、黒い色の服を好んで着るリアであるので、黒い毛並みの猫に対し、近しいものを感じるというのは、ない話ではないのだろう。

 そして、他者に対する強い警戒心を持ち合わせるのも、共通点であった。

 相手が初対面であれば、表面上は何でもない風を装いながらも警戒し観察する…といった行動も、似ているのかもしれない。

 つい三日前にリアが初めて顔を合わせた人間───藤原ふじわら 朋希ともきに相対した時の態度とも重なる部分があった。

 そういった理屈を一つずつ積み重ねていった訳ではない。

 単純に、この黒猫と自分とは似ているらしい…と、リアは直感したのだ。

 互いに興味を持ったのは、似た者同士は惹かれ合う、という心理でもあったのかもしれない。

 であれば、自分に似て非なる相手を少しでも知りたい、と思うのは、当然の帰結であろう。

 その相手というのが、意思疎通もままならない猫であるとは、今のリアには瑣末な事のようだった。

 リアは黒猫から一瞬たりとも視線を外さないまま姿勢を正すと、

『あの猫、名前とかあるのかなぁ。』

 と、呟きのような疑問を口にする。

「クロだよ。」

 茉莉は床にしゃがんだ状態で、近寄って来ていた猫の頭を撫でながら答える。

 立ち尽くしたまま二人の言葉を日本語と魔人語に訳しながらエルは、クロ(黒)とは見たままだな…と、心の中で突っ込んだ。

『…クロ、かぁ。………ねぇクロ。クロは私みたいだね。』

 言葉なんか通じるはずもないのに、ついリアは黒猫クロに語りかけてしまう。

『クロにも、ちゃんと対等に向き合える相手が居れば良いな…。』

 続けてリアは、優し気な声で、自身の願いを漏らした。

 が、リアは突然ハッとして振り返り、顔を真っ赤にしてエルを睨み付けた。

 今の間、エルや茉莉の存在を失念して、自分の世界に浸ってしまっていたのだ。

 エルは当然というか、リアの台詞に目を丸くしていた。

『…っ!!』

 うっかりだったとはいえ、柄にもない独り言を聞かれた恥ずかしさで、エルを怒鳴り付けようとしたリアだったが、何とか理性が勝り、踏み留まることに成功する。

 直後に、

『今のは忘れろ、馬鹿兄貴…。』

 と釘を刺すことは忘れなかったが。

『普段から、今のように素直に語れば良いではないか。』

『忘れろって言ってんの、馬鹿兄貴…!』

 茶化すようなエルの言葉に、流石にリアの我慢は限界を迎えたらしい。

「あー…、リアちゃん。もうちょっと声抑えてね…?」

 そんな風に苦笑する茉莉の台詞は、何だか場違いのようでもあったが、魔人語での会話では内容が分からない為に、言えるのはそれだけだった。

 そうこうしている内に、三人がプレイルームに入室してから既に5分以上が経過していた。

 刻一刻と茉莉の休憩時間は失われていく。

 休憩から戻るのが遅れては、他の従業員にも迷惑がかかる。

 だから本来は、少し余裕を持って切り上げなければいけないのだが。茉莉としては、時間の許す限り、エルとリアと一緒の時間を過ごしたいのである。

 たとえ残り5分だろうと、一秒でも長く同じ時間を共有していたい…それは店員と客という立場で考えれば難しく、とても身勝手であるかもしれない。

 だがしかし、心残りを生じさせない為にも、今の茉莉には必要な措置だった。

 そして何より、限られた時間だからこそ、茉莉は今の時間を、より楽しいものにしたかった。

 エルが茉莉の言葉を翻訳している横で、茉莉は立ったままのエルを見上げ、声をかける。

「魔王くんも座ったら?猫、触ってみる?」

「…う、うむ。」

 茉莉に促されたエルは、少し緊張した面持ちで茉莉の側に座る。

 猫という生き物に対して、エルは少々苦手意識を持っていた。

 苦手意識というより、普通にどう接して良いか分からないのだ。

 猫というのは、エルが人間界に来てから初めて、直に目にした生き物の一つだった。

 魔界にも猫自体は存在している。

 しかし魔界に居た頃のエルは、リアと違って魔王城から殆ど外出しなかった為に、猫という存在を机上の知識としてしか知らなかった。

 人間界では独りで街中を散策する機会も多かった故か、その際には時折、猫の姿を見かけることもあったのだが、エルが野良猫に触ったことは今までに一度も無い。

 それが何故かと問われれば、猫が逃げるから、と言う以外には答えようもないだろう。

 大抵は出会い頭に猫の方が逃げ出す。もしかすると、エルが近寄り難いオーラを放っている所為かもしれない。

 猫に避けられるのが彼の常態であるなどとは知りもしない茉莉であるので、何故エルが緊張した様子を見せているのかについては、疑問を浮かべはしたが、単純に猫に触るのが初めてなのだろう、という当たらずも遠からずな感想を抱くに留まった。

 兎も角、エルが猫を触ってみようとする意思を見せたので、茉莉は笑顔でお手本を見せながら、猫を撫でる際の注意点を説明していく。

「先ず、手を近付ける時は、猫の目線と同じか、それより低い位置からゆっくり近付けてね。それで、手のひら全体で撫でるんじゃなくて、指で優しく、こんな感じにね。」

 毛並みに沿って、指の腹を使って猫の顎の辺りを触る。

 それから茉莉は静かに手を引っ込めると、エルに向かって笑顔のまま頷いてみせる。

 今の動きを参考に、実際にやってみて、と促しているのだ。

 エルは一つ頷き返してから、恐る恐る猫へと手を伸ばす。

 人に慣れている猫だからなのか、茉莉の言う通りにしたのが良かったからなのか、少なくとも猫が即座に逃げ出すという事態には陥らなかったことで、エルは軽く安堵の息を漏らす。

 そして、茉莉の動きを参考に、エルも猫の顎付近を撫で始めた。

 しかしながら、そっくりそのまま真似るというのは、到底無理な話である。

 茉莉に撫でられていた時は目を細めていた猫は、エルが撫でている最中は何だか真顔になっていた。

 撫で方がお気に召さなかったらしい猫は、何秒かすると身を起こして、エル達の前から去っていった。

「………行ってしまったな…。」

「あー…ま、まぁ、最初は上手く出来なくても、しょうがないよ…。う、うん…。」

 少し物寂しさを覚えながら呟くエルに、茉莉は懸命にフォローしようとするが、あまり言葉が続かない。

「うむ…やはり我は大人しく見ておることにする。」

「なんかごめんね…。」

 何かを悟ったようなエルの物言いに、居たたまれなさを感じる茉莉だった。

「茉莉が謝ることではなかろう。…それに、初めて猫に触るという経験は出来たのだ、我は満足しておる。」

「そっか…。」

 エルに落ち込んでいる様子が見られないのが、せめてもの慰めではあった。

 道往く猫には例外なく出会い頭に逃げられていた事を思えば、猫に逃げられることもなく触れることが出来たのだから、エルにしてみれば飛躍的な進歩だと言って良い。故に悲観するばかりにはならなかったのだ。

 尤も、『STRAY’t』の猫達は躾もされているし人にも慣れている為、野良とはまた違うのだが、今のエルには考慮の外であった。

 そしてエルの裏事情を知らない茉莉には、それを指摘することすら不可能なのである。

 今度は違う猫がやって来て、茉莉が猫を撫でて、エルはその姿を優しく見守る。そんな風に過ごしていれば、瞬く間に時間は過ぎていった。

「…時間だから、もう行かなきゃ。」

 もう少し一緒に居たかったな…と思いながら、茉莉は自身の休憩時間終了を告げ、立ち上がる。

「…うむ。」

 エルも名残惜しく感じつつも了解を示し、続けてリアにも声をかける。

『茉莉は仕事に戻らなければならぬ時間のようだ。リアはどうする?』

 結局リアは、あの後もクロを眺めていただけで、他の猫が寄って来ても、特に自分から触ろうとはしなかった。

 だからなのかは分からないが、

『うん、じゃあ帰ろっか。』

 リアの返事はあっさりしたものだった。

 そうしてリアも立ち上がり、クロに背を向けて、エルと茉莉の方へと歩みを進める。

「あっ…。」

 途端、茉莉が短く声を上げた。

 その声に反応したエルが茉莉の視線を追うと、リアの後方から黒い影が追走し、進行を妨げるかのように、リアの前へと飛び出した。

 真っ黒な毛並みを持つ猫は、リアが振り返って歩き始めた刹那、走り出し、リアを追い抜いて進路上に駆け込んだのだ。

 頑なに3メートルを維持ていたはずの黒猫とリアの距離は、今や数十センチにまで縮まっていた。

 そのままリアが歩を進めても、クロは動こうとしない。

 リアはクロの目前まで来ると、しゃがんで頭を優しく撫でてやる。

 それでもクロは嫌がる素振りを見せず、微動だにしなかった。

 素直じゃないところも、そっくりだ…と、リアは一人笑う。

『…また来るからさ、今度はちゃんと相手してよね?』

 リアがクロに向けて、そう言い放った直後、クロは「にゃぁ」と鳴き、最初の位置まで駆け戻っていった。

 言葉は伝わらなくても、気持ちは通じたのだろうか。

 あるいは猫特有の単なる気まぐれであったかもしれない。

 それでも、リアは口元がニヤけるのを我慢し切れずに、嬉しそうに笑った。

 エルと茉莉は驚きに目を見開き、言葉を失いながら、リアとクロの短い交流の一部始終を目にしていた。

「何だか、リアちゃんすごいね。」

 クロの警戒心の強さを、身を以て知る茉莉は、奇跡的な場面に遭遇したかのように、心が打ち震えた。

 エルにしても、今のが言葉では言い表せない神秘的な一幕であるように見えて、大きく情動を揺さぶられていた。

 しかし、続くリアの台詞は、彼らの感動を台無しにするものだった。

『クロ、魔界に連れ帰ったらダメかなぁ…。』

 というリアの言葉(当然却下された)が、茉莉にとって意味を成さない言語での呟きであったのが、まだしも幸いだったと言えよう。




「それじゃあ、今度こそボクは仕事に戻るから!リアちゃん、あんまり話せなくてごめんね?また話そうね!まお…エルくんも、また学校で!」

 プレイルームを出る際に予想外の事態が起きてしまった所為もあって、本当に時間ギリギリになってしまった茉莉は、それだけを一方的に告げると、仕事に戻る為に慌ててタイムカードを押しに行った。

 エルは茉莉の言葉をリアに伝えた後は、一度テーブル席に戻り、伝票を手に持つと、そのままレジへと向かう。

 リアとしては別れの挨拶を伝えられなかったのは少々心残りではあったにせよ、時間いっぱいまで一緒に居ようとしてくれた茉莉の気持ちを嬉しく思ってもいた。

 兄妹がレジに向かうと、すぐにユニ子がやって来て会計を行う。

「お会計3045円になります。」

 内訳としては、ホットサンドが二つで1680円、紅茶が四杯840円、苺チョコケーキが525円の、合計3045円である。

 エルは告げられるまま、財布から千円札を三枚と四十五円分の硬貨を取り出す。

 人間界に来てから初めて自分で買い物をした、という一般的な金銭感覚が身に付いていないエルなので、これが高いか安いかは、判断に困るところではあった。

 どちらにせよ、手持ちの現金の総量から考えれば、手痛い出費になってしまったことに変わりはない。

 お金が無くなった時は、言えば執事グラゼルが追加で渡してくれる、というのもあるが、別にエルはお金が必ずしも必要とは思えないのだ。

 無論、衣食住に関して言えば、エルにもお金は絶対に必要になるのは分かっている。

 それ以外の、自由に使えるお金については、あって困る物ではないが絶対ではない、と思っている…ということだ。

 ユニ子はエルから受け取った現金を確認すると、

「3045円、丁度お預かりします。レシートはご利用でしょうか。」

 と、相変わらず抑揚の少ない声と眠そうに見える半目のままエルに問いかけた。

「否、必要ない。」

 財布をズボンのポケットにしまいながら、エルは答える。

 そうして支払いを済ませると、

「ありがとうございました、またお越し下さいませ。」

 ユニ子の言葉と丁寧なお辞儀に続いて、

「「ありがとうございました。」」

 という店内からの復唱に見送られる。

 その復唱に茉莉の声が混じっていなかったのを少し残念に思いながら、エルはリアと一緒に猫カフェ『STRAY’t』を後にした。

 一方、茉莉はというと、エル達が店を出たのに数秒遅れて、店内へと戻って来た。

「ごめんなさい、休憩終わりました…!」

 ホールスタッフの待機所に居たのは、ルナルナとアヤメだった。

「おかえり、まーちゃん。」

「まーちゃんさん、おかえりなさいっす!」

 二人は其々に挨拶を返した。

「ほんとに時間ギリギリだったねぇ。」

 と、軽く苦笑しながらルナルナは言う。

 嫌味で言っているのではないだろうことは、その口調や表情から察することが出来た。それは偏にルナルナの人柄の良さ故であっただろう。

 そもそも、もし嫌味で言われたとしても、茉莉には平謝りするしかなかったのだが。

 事実、タイムカードを押した時には休憩時間が残り1分を切っていたのだから、そう言われてしまったとしても仕方がない。

「はい…。すみませんでした…。」

「次からは気を付けようね。」

 深く頭を下げ謝罪する茉莉に、ルナルナは至極軽い口調で言った。

 当人が反省している様子であった為、口煩く言うのは止めておいたのだ。

 あとは、新人であるアヤメの前で、先輩に当る“まーちゃん”の情けない姿をあまり長いこと晒さないように、という配慮もあった。

「…はい。気を付けます。」

「よろしい。」

 ルナルナは真面目に応えた後で、気分を切り替えるように努めて明るい声で続ける。

「じゃあ私、休憩行くね。今は新規のお客さんが二組入ってて、注文は未だだから。呼び出しがあったらユニちゃんかまーちゃん、手が空いてる方が応対してね。ユニちゃんにも言ってあるけど、料理提供はなるべくアヤメちゃんにさせてあげて。じゃ、いってきます。」

「分かりました。いってらっしゃい。」

「いってらっしゃいっす!」

 そうして簡単な指示を置いていったルナルナを休憩に送り出し、茉莉のゴールデンウィーク5日目のアルバイト後半戦が始まった。




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