5話目・その7
裏通りの住宅街にある集合マンションの一室。
久十里学園から帰宅した茉莉は、明日から始まる連勤が、少しだけ憂鬱に思い、リビングで独り溜め息を吐いていた。
平日の勤務時間は学校が終わって夕方から、閉店22時まで。
休日シフトでは、開店11時前後から22時。
それが連日なのだから、気分が落ち込むのも無理はないだろうが、理由は単に連勤だから、だけではない。
帰宅直後、茉莉が家の中に入り、先ず始めにとった行動は、冷蔵庫の確認だった。
今日を逃してしまうと、この先一週間、買い物に行く時間がない。
だから今日の内に食材を買い揃えておかなければならない故の冷蔵庫チェックだ。
更に、予め一週間分の献立を考えた上で、必要になる材料の買い出しも当然待っている。
その億劫さが、大きな溜め息となって表に現れていたのだ。
「えーと、次の月曜までお休みだから…六日分かぁ。あ、今日の分も入れたら七日分だ。」
部屋の中は現在、茉莉の他に誰もいない為、単なる独り言である。
結構な量の買い物になるだろうと、茉莉は入念に冷蔵庫の中身をチェックしていく。
玉葱と人参が1つずつに、きゅうりが半分、新聞紙に包まれたキャベツが4分の1、卵が3つに、ハムが少量。
冷凍で、合い挽き肉が半パックと、ジップロックに入れた小口ネギ。
取り敢えず1日や2日であれば何とでもなるが、一週間となると確実に足りない量だ。
作る料理に関しても、欲を言えば、出来るだけ手の込んでいない物の方が良い。
アルバイトが終わった22時過ぎから作り始めることになるので、時間のかかる物は、なるべく避けたいのだ。
安易なのは丼物だが、流石に何日も連続で…というのも、どうかと思う。
なので茉莉は、パッと思い付く簡単メニューを、携帯のメモ帳に書き出してみることにした。
親子丼、チャーハン、オムライス、焼きそば、パスタ、焼き魚、etc...
どうしても手間のかからないように考えると、単品物ばかりが多く浮かんでしまう。
自分一人であれば気にしないが、同居人から文句を言われそうなので、茉莉はもう少し考えてみようと思う。
バイト先では賄いが出るが、帰宅してからも食事する為、作らない訳にもいかない。
だから、こんなに悩まなければならなかった。
直ぐには思い付きそうにないので、茉莉は携帯電話のインターネット機能を活用し、投稿型レシピ掲載サイト等で短時間で作れる料理を検索することにした。
小一時間程かけて、一週間分の献立を、同居人が納得してくれるだろう範囲まで絞り込むと、必要な食材のメモを取り、着替えと簡単な化粧を済ませる。
上は薄ピンクのフリルブラウス、下は紺のプリーツスカートといった、女性の服に身を包んだ茉莉は、面倒事は早めに済まそう、と意気込んで、早速家を出た。
行きがけに、駐輪場から自転車を引っ張り出す。
スカートを穿いて自転車に乗るのは、正直慣れない。
それでも自転車を選んだのは、結構な量を買い込む為、徒歩では疲れそうだからだ。
茉莉は自転車で暫く走り、大きな建物───エイエンデパートの前でペダルを止めた。
美里市発展の折に進出して来た、表通りに面する、全国規模で展開する大型デパートである。
デパート内のスーパーマーケットは、茉莉が食材を買う時によく利用する場所だった。
店内には他にも専門店が出店し、中でも衣類品販売は数十店舗が競合する。
衣類をはじめとして、家具、家電、日用品雑貨、等など…生活必需品の類は、殆どがこのエイエンデパートで一通り揃う。
また、地下には、百円ショップ、子供向けのゲームセンター、フードコーナーの飲食店が連なる。
近隣住民は、利便性の点もあるだろうが、何かにつけてエイエンデパートを利用する者が多い。
若者の方が利用率が高く、茉莉と同い年くらいの女子の姿も見受けられる。
久十里学園の生徒もいるかもしれないが、例えクラスメイトであったとしても、今の茉莉を、夏川 茉莉として認識出来る者はいない。
茉莉の趣味を知っている者達を除けば、の話だが、彼らはこの場にいないのだから、数に入れる必要がない。
それに茉莉は、自分の女装が、そう簡単にバレないと思っている。
尤も、数日前に、朋希が茉莉の秘密に気付いてしまったのは、実は茉莉の中では少なからずショックを受けるに値する出来事だった。
しかし、それ以降は他人からバレることもなかったので、朋希が例外だったのだ、と自身に言い聞かせることで、少しずつ自信を取り戻している。
すれ違う人々の視線をなるべく気にしないように努めながら、デパート前に列を成す自転車の群れに自分の乗ってきた自転車も加えると、茉莉は店内へ入る為の二重の自動ドアを潜る。
そして、携帯電話を取り出し時間を確認する。
時刻は15時過ぎ。
家を出る時には気に留めていなかったが、スーパーマーケットでは、一部の商品が16時から値引き、18時になって売れ残っていれば更に値引きされる。
せめて16時までは待って、安くなってから買うのが賢い選択だろう。
何もせず只待つには長い時間なので、その間に服でも見よう…と思い、茉莉は先ず上階を目指すことにした。
3階…衣服関係の専門店が詰め込まれた、衣類品ばかりが売られている階。
安価を売りにしている店から、庶民では手が出ないような高級服を扱うブランドまで揃っている。
茉莉はその中から、手頃な価格の店を選んで、中に入る。
1000円、2000円台の服も置いてあり、高くても10000円そこそこ。
アルバイトしてるとはいえ、無駄遣いになり兼ねないので、限度額としては、このくらいで丁度良い。
安い服も、安いから…とバカには出来ない。
自由なコーディネートの一部として機能を果たす物も多いのだから。
尤も、安い物だけでの組み合わせはシンプルすぎて、あまりオシャレとは言い難いので、そこそこの値段のするものも必要となってくる。
服の質は、値段に比例しているが、高級ブランドは身の丈に合わない為、茉莉は高級店を見に行くことすらない。
結局、見て回ったのは、女性服ばかりだ。
始めの頃は、女装がバレるのではないか、と不安でびくびくしていたのに、最近ではレディース専門のショップでも普通に入ってしまう。
こういうのも多分、慣れである。
店内を見回り、「あ、これ良さそう。」とか「んー…もうちょっと安ければ買うんだけどなぁ…。」等と悩みながら一通り見終えると、30分以上が経過していた。
迷ったが、結局何も買わずに店を出て、そろそろ1階スーパーマーケットに行こうと思った時、高級服ブランド店から出てくる女性が茉莉の視界に入った。
その女性は、茉莉のバイト先の先輩だった。
声をかけたほうがいいのかな…。
と、外でバイト先の人と会うのは初めてなので、茉莉がどうしようか悩んでいると、
「…“まーちゃん”?」
気付いた女性の方から声をかけてきた。
「は、はい。おはようございます、“ルナルナ”さん。」
言いながら、茉莉は慌てて頭を下げる。
互いに呼び合うのは、バイト先の渾名である。
茉莉が“ルナルナ”と呼んだ人物は、落ち着いたイメージの、長い黒髪の女性。
腰まである長い髪を揺らし、彼女は茉莉の方にゆったり歩いて来る。
「今日はお休みなんですか?」
バイトリーダー的な立ち位置にいるルナルナが祝前に休みなのは珍しい。
と思った茉莉だが、
「お互い、明日から六連勤だしね。」
「あはは…。」
彼女も茉莉と同じく、ゴールデンウィークを潰された犠牲者らしかった。
だから代わりに今日、のんびりと買い物に来たのだろう。
プライベートな話題がある訳ではないが、仕事の話をするのも気が滅入りそうなので、茉莉は話題を切り替えることにした。
「あのー、ルナルナさんって、高い服をよく買われるんですか?」
「え、そんなことないけど。」
不思議そうな顔でルナルナは茉莉を見返した。
もしかして金銭感覚がおかしい人なんだろうか…と、茉莉は戸惑いながら、
「でも、お高いブランドの店から出てきましたよね…。」
と、自信なさげに発する。
そう言われたら、唐突な質問の理由に納得したらしく、ルナルナは「ああ。」と頷くと、
「買わないから。見てるだけーってやつね。」
それが当然だと言わんばかりに、淡々と告げる。
茉莉は女装という趣味故に、外見こそ女子であるが、中身は女子ではないので、買わなくても見るだけで満足してしまえる感覚は分からない。
可愛い服は、着て初めて満足するのだ。
見て気に入ってしまったら最後、買わずには満たされないからこそ、高級店を敬遠しているのだが。
表情に出ていたようで、今度は茉莉が不思議そうな顔をしていた所為か、
「高級なのを見るだけ見て、似たような安いパチもんを選んで買ったりするだけね。」
ルナルナは冗談めかしく続けた。
その発想はなかったが、同意も出来兼ねるので、茉莉は反応に困り、苦笑いを返すしかなかった。
「まーちゃんは、服買いに来たの?」
と、ルナルナが質問したのは、このまま沈黙が訪れそうな雰囲気を察し、気を利かせたからだった。
「あ、いえ…ご飯の材料買い溜めに来たんですが、16時まで待って割引になってから買おうかなぁと思って。時間潰しです。」
「そっか。うちは実家暮らしだから必要ないけど、作ってくれる人がいないと大変そうね。」
「まぁ…住まわせて貰ってるんだし、大変なのは仕方ないです。」
茉莉はぎこちなく笑う。
あまり打ち解けているとは言えない。
かといって、特に仲が悪いという訳でもない。
ルナルナに対する茉莉の反応は、良くも悪くも他人行儀だ。
自分にだけでなく、『STRAY’t』の他の面々に対しても恐らくそうなのだろう、と感じたルナルナは、
「ところでまーちゃん、この前のって彼氏?」
今度は明確な意図を持って、急な話題転換を試みる。
「へ?」
「いや、この前の日曜、常連のおばあさんと、スーツみたいなの着たおじいさんと、同い年くらいの男の子と一緒に座ってたじゃない。」
「あ、あああ………ま、まぁ…そんなことも……ありましたね…。」
日曜はルナルナも出勤していたし、あのような異色空間を作っておいて、誰からも興味を持たれないはずがないのだ。
言い淀む茉莉だが、実際これ以上突っ込まれても、あの状況を上手く説明出来る気がしていない。
困った風におどおどして、肯定も否定もしない茉莉に、ルナルナは無言で視線だけを送り続ける。
根負けした茉莉は、
「………やっぱり、気になります…?」
顔色を窺いながら口を開いた。
「気にされると困るみたいだし、気にならないって言っても良いけど、…どっちが良い?」
ルナルナは悪戯っぽく笑いかける。
「え、あ…その………き、気にしないで貰えると…有り難いのは、確かなんですが…。」
消え入りそうな声で、茉莉は口をもごもごと動かした。
決してルナルナは茉莉をからかって遊んでいる訳ではない。
「詮索は禁止ってのが仕事場のルールだけど、まーちゃんってさ、自分のことあんまり話さないじゃない。“姉さん”以外には壁を作ってるっていうか。私らが知ってるのも、“姉さん”の妹だってことくらいだし。だから余計気になるんだよね。」
個人情報の詮索が禁止というのはバイト先での決まり事。
氏名も同じで、それに従って、皆が互いのことを、“姉さん”が付けた渾名で呼び合っている。
当然ながら、プライベートまで縛られてはいない。
それでもルナルナがバイト先のルールを持ち出したのは、
「少しは自分から、周りに自分のこと伝えた方が、人間関係って円滑に行くものだよ。まーちゃんと仲良くしたいって思う人は、私だけじゃない。他の子達だって、仲良くしたいって思っているはずだよ。」
茉莉の他人行儀な対応を少しでも改善して欲しい、そして、『STRAY’t』の面々とも仲良くして欲しい…そういう意図が込められてのことだ。
「ありがとう、ございます。」
茉莉には、本当は男だということを隠している後ろめたさがある。
だが、彼がなるべく自分を見せたがらないようにしているのは、それだけが理由ではない。
心に傷を負った原因───過去の失敗により無意識に身に着けた処世術だった。
それも含め、何一つ教えていないのは茉莉自身だ。
彼女を責めることなど出来はしない。
だから茉莉は、お礼を言った。自分の悪い所を指摘してくれた、優しい先輩に対して。
ルナルナの目には、茉莉が無理をしているように映った。
伝えるべきは伝えた。
これ以上踏み入るのは、茉莉を追い詰めるだけだろうし、それは彼女の望むところではない。
「じゃあ口止め料ってことで、ゴールデンウィーク中に一度くらいは賄い作って欲しいな。姉さんだけはズルいから、私もまーちゃんのご飯食べてみたい。」
茶化すように、ルナルナは話題を切り替える。
「姉さんが作る方が美味しいですよ…?」
茉莉には、期待に沿うような賄いを作れる自信はない。
別に料理が嫌いな訳ではないが、賄いは限られた短時間の中で作らないといけないのが、急かされているようで、あまり作りたくない。
食材の余り具合によっては、考えていた料理が作れなくなるというのも、渋る理由の一つである。
「どっちが美味しいとかじゃなくて食べてみたいの。ダメ?」
「あ、えっと……。」
押しの強いルナルナに対し、答えに詰まる茉莉。
承諾も拒否も、出来る立場にはない。
ルナルナもそれは分かっているから、
「姉さんに駄々をこねておくから、許可が出たら作ってね♪」
と、可愛らしく付け足した。
「か、考えておきます…。」
その場凌ぎの曖昧な返しではなく、文字通りの、考えておく、だった。
姉さんなら許可するだろうことは分かりきっているので、ルナルナが言い出した時点で、何を作るか考えなければならない。
「宜しくね。」
ルナルナにしても、姉さんにダメと言われるとは微塵も考えていない様子だ。
結果から言ってしまえば、茉莉が今週作らなければいけない献立が1つ増えた。
他の子達とも仲良くなる切っ掛けになるだろうし、苦労に見合う提案だろう、とルナルナは心の中で得意気になる。
話が一区切り付いたのを見計らって、
「それじゃ、私はそろそろ帰るから。」
と、落ち着きのある笑みでルナルナは茉莉に笑いかける。
「は、はい。あれ…何も買わないんですか?」
何も買い物袋を持っていないことに気付いた茉莉は、疑問に思う。
「今日は見るだけデーだからね。今度彼氏にねだってみようかな。」
さらりと自然に言い切るルナルナ。
「彼氏いるんですね。」
ルナルナさんくらい可愛い人なら当然いるんだなぁ…と茉莉が思っていると、
「いないよ?」
と、語尾を上げて、またもさらりと言う。
「え?」
何を言ってるのか理解に苦しんだ茉莉だが、
「女子って恋愛話が好きな生き物だからね。彼氏の話を出せば、皆すぐ食い付いて来るでしょ?」
と、ルナルナが言うのを聞いて、
「あー…。」
先程彼女が言った“自分のこと”とは、別に自分自身のことでなくても良い、という一例を挙げたのだ、と茉莉は納得する。
「じゃあお疲れ様、まーちゃん。」
「…はい、お疲れ様です、ルナルナさん。」
軽く手を振って歩き去って行くルナルナと別れた後、茉莉もデパートの1階へ戻り、メモに取っておいた今週分の食材を買い始めた。




