4話目・その7
特に何事も無く一週間の授業が終わりを迎えた金曜日の放課後…エルの携帯に朋希からのメールが送られてきた。
茉莉を連れて、第三校舎の3-L教室まで来て欲しい、という旨のメールだ。
エルはそれを伝えるべく、茉莉にメールを送る。
第三校舎は授業では使われていないものの、放課後になれば、その殆どが文化系の部室としての機能を果たす。
まだ同好会は設立されていない為、3-Lはその中でも部室として使われていない場所…ということなのだろう。
エルと茉莉は別々に1-D教室を出て、第三校舎の入り口に集まると、一緒に目的の3-L教室へ向かう。
一緒に…と言っても、人目がない訳ではないので、少し距離を置いて、なのだが。
それでも階を上がる毎、廊下を歩く者達は徐々に数を減らしていく。
歩いていたのも、どこかの部室として使われているのだろう傍らの教室に入る者ばかり。
エル達が最奥の3-L教室に着く頃には、三階廊下に彼ら以外の人影は失くなった。
「ここだな。」
教室のドア上部、3-Lと書かれたプレートを確認した後、エルは呟きほどの声で放ち、
「付き合わせてしまって悪いな、茉莉。」
続けて、後ろに立つ茉莉に声をかける。
「ううん、別に…大丈夫だよ。」
正直、昨日は気が動転していた為、同好会に入ると言ったような言わなかったような…と、曖昧にしか覚えていない。
しかし、改めて断るのも気が引けるので、茉莉は諦めて同行した。
「では行くか。」
エルはタイミングを見計らうように告げ、ドアを開け放つと、教室の中には既に、机に座る朋希の姿が有った。
「お、来たか。ちゃんと連れて来てくれたんだな!」
人懐っこい笑みを浮かべ、朋希はドアから入って来た二人に顔を向ける。
「それで、わざわざ呼び出した理由は何だ?」
「あぁ、同好会設立の用紙に名前書いて貰いたくてな!」
エルが早速本題を問うと、朋希は、待ってました、とばかりに勢い良く答えを返すのだが、
「と、そっちの彼女も………あれ?」
続けて茉莉を見ると、途端に首を傾げた。
彼女と思って目をやった人物が、男子の制服を着ているのだから、当然だ。
「な、何ですか…?」
「いや、べ、別に何でも…ごめん、気にしないで!」
「だから、何度も違うと言ったであろう。」
茉莉は困惑を示し、朋希は慌てて取り繕い、エルは溜め息を吐いた。
「と、ともかくだ!来てくれてありがとな!」
勝手に彼女だと勘違いしていたのが恥ずかしかったらしく、朋希は誤魔化すように語調を強めて茉莉に向き直り、その後、座っていた机の上から滑り降りた。
「あ、はい。えっと…それは全然良いんですけど…ボク、あんまり活動には参加出来そうになくて。それでも大丈夫…ですか?」
何だか状況がよく分からなかったが、置いておくことにして、冷静に同好会に入る上での線引きをするあたり、茉莉には抜け目がない。
「全っ然、大丈夫!無理して参加する必要はないぜ!それはエルにも言ったことだし、えーと………」
後半、朋希が言葉を詰まらせたのは、茉莉の名前を知らなかったからだ。
それを察し、茉莉は自分の名を名乗ろうと、口を開く。
「あ、ごめんなさい。ボクは…───」
が、それは朋希の口から発せられた驚声によって遮られる。
「ま、まーちゃん!?」
「………え…?」
少しの間を置いてから、茉莉は固まったまま聞き返す。
この人が何故、自分の働く“店”での呼び名を知っているのか…と、気が気でない。
「ん?知り合いだったか?」
エルは朋希の驚愕を、そう認識したらしい。
「…知らないよ…?きっと、人違いだよ…?」
感情が篭っていない声で、茉莉は朋希から目を背ける。
「そうか。世の中には自分によく似た者が三人は存在するらしいからな。人違いということもあろう。」
茉莉が否定した為、エルは割と現実的な解釈を述べた。
しかし、本気でそう考える訳ではないし、朋希も無論騙されたりしない。
もし本人なら、何故しらばっくれる必要があるのか。
時間にしておよそ3秒。朋希の脳内では、自分が目の前の男子を“まーちゃん”だと仮定する上での大きな問題点が浮かび上がる。
男子制服を着ている。これが実際、一番の問題点。
“まーちゃん”というのはウェイトレス…つまり、女性である。
にも関わらず、男性用の制服を着用しているのはおかしい。
であれば、やはりエルの言う様に、他人の空似なのか?
否、それは真実ではない。
明らかに挙動不審な態度から、目の前の人物が“まーちゃん”であると確信するには十分だ。
それ以前に、毎日のように“店”に通い、“まーちゃん”を眺め続けてきた自分が、その顔を、雰囲気を、間違えようはずがない。
他人の空似では決してない。
つまり、朋希が行き着く解は一つ。
「なぁエル、ちょっと席外してくんね?」
その解を確かめる為には、エルの存在は邪魔だった。
「は?お前、いきなり何を…。」
エルとしては当然、朋希の意図が見抜けるはずもない。
「お前にはこれっぽっちも関係ない話だから、さっさと席外せ。」
有無を言わせぬ口調で、朋希は追い払う動作をエルに向ける。
「そう言われてもな…。せめて事情を話せぬのか?」
「お前がいたら話せねーんだよ。察しろよ。」
理由を聞いて納得出来れば、そのくらい構わない、とは思う。
反応を見るに、やはり知り合い同士なのだろうことは分かるのだが、何とも言い難い、剣呑な空気であるのも確かだ。
そんな中に茉莉を一人で放置するなど、エルには出来ない。
朋希の言葉を無視するように、一向に退室しないエルに、朋希が再度追い払おうとした矢先、茉莉が口を開いた。
「…エルくん、少し外してくれない?」
「ま、茉莉…!?」
まさか茉莉からも言われるとは思っておらず、流石にエルは狼狽する。
「大丈夫だよ。ちょっと勘違いについて、訂正するだけだから。」
安心させるように、茉莉は微笑んだ。
「う、うむ…茉莉がそう言うなら…。」
大人しく従うしかないというものだ。
エルは横目で様子を見、心配しながらも教室を出て行った。
残った二人は暫し沈黙し、互いの出方を窺う。
だが、それも束の間。先に動いたのは朋希の方だった。
「まーちゃんが同じ趣味だったなんて、驚いたよ。」
「だ、だからボクは違………え?」
自分が“まーちゃん”であることを否定しようとした茉莉は、しかしそれを完遂出来なかった。
朋希の口から出てきた言葉が、思っていた以上に核心を突いたものだったからだ。
茉莉を動揺させるには十分過ぎた。
「っと、自己紹介がまだだったけど、オレは1-Dの藤原 朋希っつーんだ。まぁ、その…隠してるんなら誰にも言わないからさ、安心してよ。」
“まーちゃん”の動揺は、秘密を知ってしまったと思えば納得出来る。
だからこそ、まるで自分が敵ではないと言い聞かせるように、朋希は優しく言葉を投げかけた。
尤も、その配慮も今の茉莉の前では無意味に等しかったが。
何故なら、茉莉にとっては更に驚くべき事実を、朋希は何でもない事のように告白していた為、それどころではなかったのだ。
「ちょ、ちょっと待って!…同じ、趣味?」
ようやく頭の処理が追い付き、茉莉は聞き直した。
思い違いの可能性も…否、それはない。
藤原 朋希と名乗った人物は自分を“まーちゃん”と確信し、その“まーちゃん”が学校では男子の制服を着ているのを理解した上での発言なのだから。
“同じ趣味”と言うからには、朋希という人も“女装趣味”…ということになる?
それ以外考えられない、と茉莉の脳は訴えている。
そして、そんなことを考えていた茉莉の頭からは、最早自分が“まーちゃん”である事実を否定しようとする意志が消滅していた為に、
「あれ?まーちゃんはそういう趣味な訳じゃないの?」
「え…あ…しゅ、趣味…だけど…。」
不思議そうに返す朋希に対し、茉莉は訂正せずに認めてしまう。
朋希の発した一言で虚を突かれた故の、迂闊な返しだった。
茉莉が二重の意味で肯定したことで、朋希は満足そうに頷き、更に質問を重ねる。
「エルは知ってるの?そのこと。」
「う…ん…知ってるよ。」
言葉を詰まらせながらも、茉莉は正直に答える。
女装を知られてしまった以上、エルと秘密を共有している事に関しては今更隠す必要もない。
「それならエルのこと追っ払う必要なかったか、悪いことしたな。あと、まーちゃんはエルの彼女ってことで良いの?」
「へ?…あ、う、うん…成り行きだけど…女の子の格好してる時は、そういうことになってる…。」
エルから聞いていたのだろう、と思い、咄嗟にそう答えたが、茉莉はどこか腑に落ちない。
しかし、それも一瞬の後には、別の感情によって塗り潰されることになる。
「OK、事情は分かった。じゃ、エル呼んでくるわ。」
「待って…!」
言いながら教室の外に向かおうとする朋希を、茉莉は慌てて制止した。
呼び止められた当人は、不思議そうに振り返る。
「あ、あの…エルくんには…お店で働いてること、言ってないから…。」
言い難そうに切り出す茉莉の発言は弱々しい。
「エルに内緒にしときたい…ってこと?」
茉莉の言い方では、朋希がそう受け取るのも無理はない。
「…そ、そういう訳じゃない、けど…わざわざ自分から言うのも、あれかなって…。」
アルバイト自体は別に秘密にすべき内容ではない。学校が禁止している訳でもない。
しかし、今までエルには言い出し難く、ずっと“用事”とだけ言っていたので、それが実は女装でアルバイトをしていた、というのは、あまり知られたくない。
軽蔑されたりはしないだろうが、今まで何故隠していたのか、くらいは問われるだろう。
そうなってしまうと、茉莉としては困る。
聞かれれば、エルに仕事先を知られるのが恥ずかしい、と思う気持ちを説明しなければならない。
否、それは正確ではない。
無自覚ながら、エルに自分のウェイトレス姿を見られることに対する抵抗が、茉莉の心の底に確かに存在する。
そんな意識しない感情を払拭出来ないまま、
「他の人にも…趣味も、バレないように、してるから…エルくん、とも学校だと話さないし。」
と、茉莉は誤魔化すように、途切れ途切れで前後の微妙に噛み合っていない台詞を続けていた。
「そっかぁ。よっぽどバレたくないんだな。」
話を聞きながら、“まーちゃん”も苦労してるんだなぁ…と朋希は勝手に納得した。
騙してるみたいで何だか気が引ける…とは思うものの、言葉を選んでいられるほど今の茉莉に余裕はない。
「…こんな趣味、他人に知られたくないよ…。」
結局、茉莉は根底にある自己の切望を吐き出していた。
同じ女装趣味を持つ朋希であれば、誰にも知られたくない、という思いは簡単に理解出来るだろう。
そして、同意を示す…と思いきや、朋希の口から出てきたのは、
「そうか?オレは別に。割とオープンだけどなぁ。」
という、茉莉の想像を遥かに超えたものだった。
「………羨ましい、な…。」
その短い一言は、聞こえるか聞こえないか程度の声で、茉莉の口から漏れたものだ。
「何か言った?」
「えっ…な、何でもないよ。あ、そ、そういえば…朋希くん?は、お店に来たことある人…なんだよね?ごめんね、覚えてなくて…。」
幸いにも朋希には聞き取れなかったようで、茉莉は妙に落ち着きなく話を逸らした。
「あぁ、オレも店行く時は女の格好してっからなー。一人なら男より女の格好の方が、入りやすいし…と。」
朋希は別段気にした風もなく、茉莉にとっては意外な真実を語る。
「っていうか、一昨日も店に行ったよ。まーちゃんには…変なこと聞いちゃったけど。」
更に、申し訳なさそうに続けた。
変なことを聞いた…と言われて、茉莉は一昨日の“店”での出来事を記憶から引っ張り出す。
女装してる、と言うから、他のアルバイトの子なのかな…とも考えるが、特に変なことを聞いてきた人に心当たりもないから違うのだろう。
そうやって記憶を辿りっていると、ふと客の中に該当する人物がいたことを思い出す。
「え?…あ、あれ?もしかして…あの常連のちっちゃい女の人?」
「そうそう。一昨日は本当ごめんね、まーちゃん。」
茉莉は目を丸くしながら確認を取り、朋希は同意と共に再び謝罪を述べた。
朋希の身長は男子の平均に比べかなり低く、茉莉よりも5センチは小さい。
よくよく見れば、背丈は大体同じで、顔立ちも似ているような気がする。
ただ、やはり男女の服装では、まるで雰囲気が違うので、注視しなければ気付かない程だ。
それは自分も同じはずだが、簡単にバレてしまった以上、これからはもっと気を付けないと…と思う茉莉だった。
尤も、どう気を付ければ良いか、具体的に案がある訳ではない。
朋希が気付いたのも、“まーちゃん”を近くで意識的に観察してきた成果である。
一ウェイトレスとして視覚しているだけでは、通常は茉莉と一致することはないのだから、言ってしまえば無駄な努力である。
そして、今すべきは当然、無駄な努力ではない。
「…悪いと思うなら、一つお願いして良い?」
実は朋希が知っている常連客だったことで、多少心を許した茉莉は、そんな風に切り出す。
「オレに出来ることなら大抵のことはOKだよ!」
むしろ、まーちゃんのお願いなら断る理由はない、とばかりに、朋希は勢い込んで返答していた。
そんな朋希の様子に、茉莉の警戒心は解かれ、苦笑してしまう。
今の朋希なら、本当に何でも言うことを聞いてくれそう…だとしても、茉莉のお願いは元々、断る理由もないような些細なことでしかない。
「じゃあ、その…“まーちゃん”じゃなくて“茉莉”って呼んでくれない、かな?」
それだけのことだったが、
「ごめん、無理。」
朋希は存外あっさり断った。
「えぇ!?大抵のことは良いって言ったばっかりだよ!?」
流石に不満の声を上げたくもなるが、
「オレにはまーちゃんをまーちゃん以外の呼び方で呼ぶなんて出来ない。普段本名で呼んでたら、店でうっかり本名を出しちゃうかもしれない。オレはそういう切り替えが上手くないんだ。」
と、朋希が断った理由を聞けば、茉莉も納得せざるを得ないのだった。
それでも、やはり不安は付き纏う。
少なくとも学校で“まーちゃん”と呼ばれるのは、何としても避けたいのだ。
「む、むー…そう言われちゃうと仕方ないかもしれないけど…だったら、ボクの気持ちを分からせる為に、ボクも朋希くんを別の名前で呼ぶことにするよ…?」
茉莉は脅しのつもりで口にするのだが、これっぽっちも迫力が伴わない。
それに、台詞も微塵にも脅しのようには聞こえないので、
「お、おう。」
朋希は、状況が呑み込めず、曖昧に相槌を打つだけに留まる。
脅し(と思っているのは茉莉だけだろう)に対しても、朋希が先程の台詞を訂正する意志は見られない。
仕方なく、茉莉は深呼吸の後、意を決して口を開く。
「………と、とも…ちゃん。」
「うん。…ん?」
茉莉が何を言ったのか理解出来なかった朋希は、思わず聞き返した。
「だ、だから…ともちゃん!朋希くんがボクのことをどうしても“まーちゃん”って呼ぶなら、ボクも朋希くんのことを、“ともちゃん”って呼ぶからね!」
伝わっていなかったことに軽くショックを受けながら、茉莉は言い切る。
実際、話はよく分からない方へ向かおうとしていた。
「へ?どういうこと?」
朋希は未だ理解が及ばないのか、一切動じる様子はない。
だが、それもそのはずだ。
「ちゃん付けで呼ばれるの、恥ずかしいでしょっ…!?」
「いや、そりゃ普段ちゃん付けなんかされねーから慣れないけど、別に恥ずかしいって訳じゃ…。」
「えーっ!?」
朋希は別に恥ずかしいと思っていない。
これでは、到底理解されるはずがない。
「何?まーちゃん恥ずかしいの?」
勿論この時、可愛いなぁ、と朋希は心の中で付け加えている。
「う、うぅ…そ、そうだったら、悪い…?」
恥ずかしくて若干涙目になりながら、更にジト目で上目遣いを向けてくる生き物、まーちゃん。
それに対する朋希の反応は素早かった。
「大丈夫!自信を持って!まーちゃんは可愛いから!!」
遂に我慢し切れなくなったのだ。
可愛い生物に可愛いと伝えないのはむしろ失礼にあたるのではないか、とそんな斜め上向きな思考に支配された瞬間、既に発言は終わっていた。
「え…?な…何か、話おかしいよ…?」
違和感というレベルを通り越し、会話が噛み合っていない。
「気のせいだよ!…まぁでも、まーちゃんの心配は分かるからさ。部室以外じゃ話しかけたりしないよ…っていうことで、まーちゃんって呼び続けるけど良いよね?」
「…うん…分かった。」
朋希は茉莉のことを考えて、本名で呼ぶことを拒否したのだし、茉莉の懸念さえも配慮してくれているなら、もう認める以外の選択肢は残されていない。
茉莉の、三日天下どころか三分天下とでも言うべき短すぎる優位は終わりを告げ、再び立場は逆転した。
だからといって、朋希は別にこれ以上茉莉に何か要求することはないし、むしろ今し方の可愛い生物っぷりを見られて感謝すら告げたいと思う程である。
いつまでも見ていたい、とは思うものの、今は他にやることもあるし、何より、
「ところで、まーちゃん今日はバイトないの?」
と、朋希はそれが気になっていたのだ。
金曜はいつも“店”にいたし、当然今日もシフトに入っている可能性が高い。
「あるよ…だから、あんまり時間ないんだ…。」
返事は朋希の予想通りというか、ストーカー紛いの常連客の成せる業というか。
何にせよこの場に長く引き止めては、“まーちゃん”を困らせてしまうだけだ、というのは理解した。
「じゃあ、先にこれ書いててよ。オレはエル呼んでくるから。」
部活・同好会新設用紙と書かれた紙を鞄から取り出し、茉莉に手渡すと、朋希は返事も待たずに教室を出た。
廊下に追い出されたエルは、悩ましげに、窓側の壁に背を預けていた。
考えることは一つ。
今現在、教室内で会話をしているであろう茉莉と朋希の関係について、だ。
二人は知り合いのようだが、単なる顔見知り、というには、茉莉の反応は不自然だった。
何かを悟られまいとして、自分を遠ざけたように見えた。
昔の友達…という線が一番あり得そうか。
“まーちゃん”…と茉莉のことを、愛称で呼んでいたことからも、容易に想像が付く。
その場合は、茉莉の秘密を知っている可能性がある。
やはり二人きりにしたのは間違いだったかもしれない…と、過ぎたことを思い悩む。
自分が行ったところで、恐らく解決はしないのだろう、というのも分かっている。
魔法を使えば、例え朋希が茉莉の秘密を過去に知ってしまっていたとしても、それを無かった事にするくらいは可能だ。
尤も、茉莉がそれを望むかといえば、答えは否だろう。
だからこそ、気掛かりではあるが、こうして待つ他ない。
壁1枚隔てた向こう側での会話なのだから、聞こうと思えば一字一句漏らすことなく、盗み聞きは出来る。
それをしないのは、人間に魔法を見られてはいけない、という魔人の制約がある為。
そして何より、自分の友人達を信じるからである。
証拠に、誤って聞いてしまわないよう、エルはなるべく離れた窓際に位置取った。
しかし、本当に問題ないのか、気になってしまうのは、仕方がない。
悶々としながら10分が過ぎた頃、朋希が3-L教室のドアを開け、廊下へと出てきた。
「エル、待たせたな。」
「何を話していた?」
エルは10分耐えたのだ、口を開けば勝手に吐き出てしまうのも、仕方がない。
「別に、大したことじゃねーよ。」
朋希から言うことは何もない。
「………そうか。」
確認したい気持ちをグッと堪え、エルは無愛想に一言だけ発した。
朋希には色々世話になった。不器用ながら、友達思いの良い奴だ。
もし茉莉の女装を知っていたとしても、バラすような真似はしない。
信じているから、エルは追求しない。
「エルも中入って申請用紙書いてくれ。」
「ああ、分かった。」
朋希に促され、エルは教室に入る。
茉莉が丁度、用紙に名前を書き終わり、顔を上げたところだった。
「ごめんね、魔王くん…待たせちゃって。」
言いながら、エルに申し訳なさそうに笑みを向ける茉莉は、いつも通りだ。
気落ちしたり、怯えている様子はない。
その普段と変わらぬ様子の茉莉を見て、エルは安堵した。
「否、問題ない。」
が、ここで気付く。
茉莉は、つい油断して普段通り“魔王くん”と呼び、エルも普段通りに返事をしてしまっていた。
「あ、あああっ!エルくん!あの、ボク、これから用事だから!か、帰るね!ごめんっ!!」
いたたまれなくなり、用紙をエルに押し付けるようにして渡した後、茉莉は走って教室から逃げ出した。
穴があったら入りたい、とは正にこんな状況を言うのだろう。
「お、お前、“魔王くん”て…ッ…呼ばれてん、の?」
朋希は笑いを堪え切れていない。
「おい!笑うな!」
「わ、悪い悪い、不意打ちだったから、つい………ぷっ!」
流石に頭に来たエルは、謝罪しながら吹き出す朋希を、怒りの形相で睨む。
「ほんと悪い…でも、無理だ、限界だ、書いたら先帰ってくれ…じゃあ!」
一方的に言葉を投げると、朋希は教室を出て行き、トイレの個室に駆け込んだ直後、
「ふッ、フフッ、アーッハッハハッ、ヒィッ苦しいッ笑い死ぬぅッグハーーッ!!」
奇声の如き笑い声が校舎中に響き渡った。
当然、エルの耳にも届いたのは、言うまでもない。
だから、部活・同好会新設用紙を机に叩き付けると、エルはそのまま3-L教室を去った。
帰宅後、謝罪のメールが2件送られていたことに気付く。
朋希からと、その原因を作った茉莉からも、だ。




