3話目・その7
「あれ、もうこんな時間っ!?」
茉莉がそんな驚きの声を上げたのは、いつの間にか時計の針が16時を回っていた為だ。
プールに来たのが昼食を済ませた後なので、13時だったとしても、既に三時間は遊んだ計算になる。
時間を忘れて遊んでしまったのは、一時遠慮していたリアが完全に復活し、それまでの分を取り戻す勢いで、茉莉とエルを連れ回した所為である。
50mを誰が一番早いか競争してみたり。備え付けのビーチボールでボール遊びしてみたり。流れるプールを浮き輪に乗って堪能した後、人がいなくなったのを見計らって逆走してみたり。水中で鬼ごっこをしてみたり。、
そうこうしている内、気付けば長い時間が経過していた。
「ふむ…もう帰らねばならぬ時間か?」
エルはもう少し良いだろうと思っていただけに、気になって尋ねる。
「えーと…まだ時間は大丈夫だけど、帰る前に乗りたいなぁって思うものがあって…。」
楽しく遊んでいるリアに最後まで付き合ってあげたい気持ちもあるが、茉莉としては遊園地に来る楽しみの一つが”それ”だった訳で、乗らずに帰るのは忍びない。
「そうか。そういうことなら、茉莉の行きたい場所に行くとしよう。リアも十分に遊んだであろうからな、文句は言うまい。」
「うん、ありがとう。」
茉莉が感謝を述べると、エルはすぐにプールから出る旨を、リアに告げた。
プールでの遊びは終わりと言われ、少し不満気な表情を見せるリアだったが、茉莉が行きたいなら、と素直に従う。予想に反して、妹はまだ遊び足りなかったらしい。
元々夕飯までに家に帰る予定で計画を立てていたので、時間も限られている。
帰宅予定時刻を過ぎても兄妹が戻らなければ、執事のグラゼルも心配するだろう。
それに、明日は月曜日である。遊びすぎて学業に影響を及ぼすのも良くはない。
「じゃあ着替えたら、外に集合ね!」
茉莉はハキハキと告げる。
3人はプールに入る時にも通ったシャワーの雨の中、身体中の塩素をざっと洗い落とすと、それぞれの更衣室に向かう。
購入したタオルで身体と髪を拭き、手早く着替えを済ませ、水着を返却するとそのまま外に出た。
特に髪は乾ききっていないが、時間も惜しいので、移動中もタオルで頭を拭きながら歩くことで妥協する。
方針が決まると、三人はすぐに茉莉の楽しみにしていた乗り物へと向かい始めた。
しばらく歩くと、目的のものは見えてきた。
というより、見るだけなら遊園地内のほぼどこからでも見ることは出来る。
やってきたのは巨大な観覧車。
帰る前に観覧車に乗らなければ、遊園地に来た気がしない、というのは茉莉の談である。
同じことを思う人も多いのか、観覧車の前には少なくない人が列を成していた。
余談だが、この観覧車のゴンドラの扉一つ一つには、それぞれ違う動物が描かれている。
夜になると、ライトアップされた動物達がイルミネーションとして輝くらしい。
このアニマルランドにおいても、観覧車は目玉の一つなのだ。
30分以上待たされ、そろそろ17時になろうという時、エル達はようやくゴンドラに乗り込むことが出来た。
パンダの描かれた扉が閉まり、彼らの乗ったゴンドラはゆっくりと上昇を始める。
「これはやはり、景色を楽しむ物なのか?」
一息ついたエルは、両側の窓に視線を投げると、質問した。
「そうなるかな。」
「リアには退屈かもしれぬな。」
「あはは…。」
一周あたり十五分程。
ゆったりと景色を見下ろし、落ち着ける空間。
密室なので他人の目を気にすることもない。
それは現在、エルにとっては好都合だった。
彼は、ずっと人目を気にして聞けなかった質問を口にする。
「なぁ茉莉、身体は大丈夫なのか?」
「あー…んーと…胸が窮屈っていうの以外は、大丈夫だと思う。服が伸びちゃわないかなぁっていうのはちょっと心配だけど…。」
プールで遊んでいる内に女性の身体にはすっかり慣れてしまったのか、思ったほど深刻な様子はない。
それを聞いて安心したが、少しだけ、心配して損した気分にもなるエルだった。
「そうか…特に違和感がなければ良い。」
落ち着いた口調で返すエルの言葉に、茉莉は途端に難色を示した。
「いや、あるからね!?違和感はバリバリだよ!!」
「そ、そうなのか…。」
慣れた訳ではないのか…?という疑問は浮かぶ。
だが、時間は有限だ。
観覧車の中で、彼は言わなければならないことがある。
それをどうやって伝えるべきか、どう言えば茉莉は納得するのだろうか、やはり一から説明すべきなのだろうか。
エルが思い悩んでいると、茉莉がそれを見透かしたように、声を上げる。
「ボクが女の子になっちゃったのって、多分副次的な効果なんだろうけど、これって結構危ない魔法だったの?」
こういう時の茉莉は、本当に察しが良いから困る。
いきなり核心を突かれては、全て話さないことには茉莉も納得しないだろう…とエルは腹を括る。
「ああ…うむ。それなのだがな、リアにも説明しておかなければならぬ。二人に同時に説明することになる故、多少長くなってしまうが、問題はないか?」
「うん、ボクは構わないけど。」
「そうか。感謝する。」
茉莉の同意を得て、エルは続けざまリアに声をかける。
『リア、少し話があるのだ。』
『改まって、どうしたの?』
『お前が茉莉にかけた魔法に関してなのだが、言っておかねばならぬ事がある。』
それを責めているのだと勘違いしたリアは俯き、拗ねた子供のような表情を見せた。
やっぱり怒る気なんじゃん…と、思っているのが手に取るように分かる。
だが、エルにはそんな気は毛頭ない。それを証明するように、エルは落ち着いた語調で続ける。
『勘違いするでない、終わったことを責めるつもりなどない。お前が今後同じ過ちを繰り返さぬ為に、教えておかなければならぬことがあるのだ。』
『…うん、分かった。聞く。』
顔は俯いたままだが、怒られる訳ではないと安心したせいか、また、自分には聞く義務があると感じたせいか、短くだが、ハッキリとリアは、聞く意思を表に出した。
『茉莉にも同じ説明をする。長くなるが、黙って聞いて欲しい。では始めるぞ。』
エルは前置きを告げると、日本語と魔人語で、同じ台詞を交互に語り始めた。
先ず、肉体を変化させる───つまり、人体に影響を及ぼす魔法には、副作用が発生する事例が多い。
完璧に魔法を行使出来たとしても、それは起こり得る。
不完全なリアの魔法では、尚酷い副作用が出る恐れがあった。
例えば魔界の文献に残されている記録の中には、変化させた部分が一時間もすると動かなくなり、その後も一生動かぬままだった。変化させた部分が自分の意思とは無関係に、まるで他人が自分の身体を乗っ取っているかのように、時折勝手に自傷行為を繰り返すようになった。全身が動かなくなり、そのまま数時間もせぬ内、死に至った。声が発せられなくなった。
などという例もある。
尤も、これらは一部の極めて凄惨な例ではあるが、それが実際に起こる可能性が無いとは言い切れぬ。
リアは軽い気持ちで茉莉の身体を変化させたかもしれぬが、肉体を変成させる魔法は、その実とても危険なのだ。
今回茉莉に副作用が出なかったのは幸いだったと言えよう。
「まぁ、女性の身体になってしまったのだから、本来は副作用で済むレベルではないのだがな…。」
とは、茉莉にだけ申し訳無さそうに告げる。
「茉莉が男だと知れば、リアは自分の魔法の副作用で茉莉を女にしてしまった事実を知ることになる。リアには出来れば、知らぬままでいて欲しい。茉莉、身勝手なお願いですまぬが、今後もリアには絶対にバレぬよう協力して欲しい。」
深く頭を下げたいが、リアに感付かれてしまう恐れがあるので、それが出来ない。
だから、エルは言葉に誠意を込め、丁寧にお願いをする。
「…ボクもほんと言うと、言い出すタイミングを完全に逃しちゃって…リアちゃんにもっと早くボクが男だって打ち明けてれば、こうはならなかったんじゃないかなって…。」
言い辛そうに、茉莉も胸の内を話す。
「リアちゃんが魔法を使ったのは、元を辿ればボクが男だって知らなかった所為…つまりは、ボクが言えなかった所為で…身勝手だったっていうならボクの方だよ…。」
この時エルは初めて、リアの魔法が茉莉の心にも影響を与えていたのだと知る。
罪悪感という名の傷跡を残していたのだ、と。
自身を責めるように語る茉莉に対し、エルは即座に口を挟む。
「そんなことはない。こうなることは我も予想していなかった。茉莉が自分を責める必要などない。」
「ううん、ボクの責任だよ。今更ボクが男だって打ち明けても、逆にリアちゃんを傷つけるだけ…っていうのはボクも思うし、リアちゃんには内緒のままにする。でもね…魔王くんから秘密をバラさないで欲しいって言われて…言わなくても良いんだって、どこか安心しちゃってる自分が嫌なんだ…。」
結果的に茉莉は、リアに秘密を打ち明けなくても良い、という免罪符を得たことになる。
だが、罪の意識は消えることはない。消える訳がない。
それでも、茉莉は当然の罰だと受け入れ、エルに笑ってみせた。
茉莉が無理をしているのは、エルにも疑いようがない。
そんな辛そうに笑う茉莉は見たくない…そう思うと、感情的に、エルの口からは勝手に言葉が溢れ出していた。
「茉莉、無理に笑うな、反省したのだから我が許す!間違いは誰にだってある、間違いを犯して、反省して、人は成長する…そう言ったのはお前ではないか!自分の言葉に責任を持て!それも以前、我が茉莉に言われたことなのだぞ!」
自分でも抑え切れない激情というのは、確かに存在するらしい。
言い切った後で、エルはそんなことを考える。
「…そうだったね。ごめん。ありがとう。」
エルの放った言葉は、思いと共に、確実に茉莉の心に届いた。
だが、心の整理が付かず、困った表情を浮かべるだけの茉莉からは、伝わった事実を読み取ることは出来ない。
茉莉も心配ではあるが、あまり間を空けると、リアに怪しまれる。
これで茉莉の罪悪感が消えたのか確証は持てないが、エルは軽く頷くと、中断してしまった話の先を続けた。
茉莉の身体を元に戻すにも、それ相応の知識が必要になる。
我が今この場で茉莉を戻せれば良いのだが、それは無理だと分かって欲しい。
家には魔界の書庫から持ってきた本が何冊かあるが、確かその中に、人体に影響を与える魔法について詳しく載っていたものがある。
一度家に戻り、茉莉には申し訳ないが、再び人目に付かない場所で会って欲しい。
その時に魔法を試みようと思う。
手間をかけてすまぬが、我の魔法によっても茉莉に副作用を与える可能性が否定出来ぬ以上、万全の状態で臨みたいのだ。
それで我の話は終わりだ。長く付き合わせてしまったな…。
聞き手の二人には、それぞれ思うところがあり、顔を俯かせる。
時々、互いに相手を心配するように視線を向け合わせた。
沈黙は暫く続いた。
だが、程なくして、俯いたままのリアが、少し躊躇いながらも口を開く。
『それ…マジな話し…なんだよね?』
『別に脅そうと思って言っておるのではない。全て真実だ。』
重い言葉がエルの口から発せられ、再び沈黙が訪れる…と思った刹那、
『…茉莉姉ぇー!?身体大丈夫ー!?』
涙目のリアが茉莉に飛びついた。
「だ、大丈夫だよ…。大丈夫だから、泣かないで…。」
消沈していても、妹のように思うリアのことを蔑ろには出来ないのだろう、茉莉は優しくリアの頭を撫でた。
三人の間には、重苦しい空気が流れていた。
このままではダメだ、と思ったのか、自分の心に整理が付いたのか、どちらにせよこの場の空気を振り払おうと、茉莉は顔を上げると、
「…見て、魔王くん、リアちゃん。」
と、二人に呼びかけ、窓の外を指差す。
彼らの乗ったゴンドラは、いつの間にか半周を過ぎていた。
夕日が沈みかけ、窓から見える景色は、一面オレンジ色に輝いていた。
それをちょうど、観覧車の上方から眺めたのだ。
「うむ、これは…。」
『すごい、綺麗…。』
圧巻…としか言い様がない。
二人のそんな様子を見て、茉莉は自然な笑顔を浮かべ、
「色々あったけど…こんな景色見たら、全部どうでも良くなっちゃった。」
誰に言うでもなく、呟いた。
そして、今度は二人に向け、提案する。
「ね、いつかまた、三人でこの景色を見に来ようね。」
エルもリアも、それに頷くと、三人は残り半周、ゴンドラから見える景色を眺め続けた。
そこには再び沈黙が訪れたが、先刻までとは打って変わって、穏やかな空気だけが循環していた。
観覧車を降りた三人は、そのままの足でアニマルランドを出た。
足取りは軽く、エルの語った言葉を受け入れたのがつい数分前だというのに、三人はすっかり落ち着いていた。
あんな素晴らしい、筆舌に尽くしがたい景色を見せられてしまったら、暗い気分など吹っ飛んでしまう、ということなのだろう。
だが、それも駅に着くまでの約5分もの間のことだ。
リアとエルは再び、満員電車の洗礼を受けることになったのだから。




