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内緒の魔王くん  作者: 如月結花
第3話「遊園地の魔王くん」
21/63

3話目・その5

 時は、15分ほど前に遡る。

 女子更衣室の前まで引き摺られて来た茉莉は、その入り口の壁を掴み、必死の抵抗を試みていた。

「やめて!お願いだから!これ以上は!」

 と、言葉が通じないことなど忘れて、自分を禁断の地へ引き入れようとする少女に何度も訴えかける。

 しかし、その思いが通じることはない。

 それは茉莉自身、ここに来るまでに身を持って分かっていたが、最後の砦とばかりに、更衣室の入り口を踏み越えることを拒み続けていた。

 そもそも外見がいくら少女のようであろうと、女装なのだから、この先は決して踏み入れてはいけない領域なのだ。

 茉莉のことを無理矢理連れて来たリアだが、茉莉が壁にしがみつくほどに拒絶する理由が、何かしらあるのだろうとは流石に思い始める。

 そう考える最中にも、茉莉を引っ張る手を緩めることはないが。

 そのうちに、茉莉の握力が限界を迎えた。

 一度崩れた均衡は元に戻ることはなく、そのままリアは、茉莉を引っ張って中へと突き進む。

 茉莉はこれ以上踏み止まれないと判断すると、ぎゅっと目を閉じた。

 見ちゃいけない、見ちゃいけない、見ちゃいけない…と、彼は心の中で呪文のように反芻はんすうする。

 目を瞑っている所為で、茉莉は何度か躓きそうになる。しかし、頑なに目は閉じたままだ。

 どこに行こうとしているのか、更衣室の内部を把握出来ない為、不安に思う茉莉。

 だがそれも少しの時間のことで、何度か左右に折れた後、シャッという軽快な音が2度聞こえると、リアは立ち止まったようだ。

 一方リアは振り向くと、頑なに目を閉じ、開く様子のない茉莉を見やり、きょとんとして首を傾げた。

『茉莉姉ぇ!』

 暗闇の中、突然リアの声が耳元で、彼の名を呼ぶ。

 勿論、暗闇というのは単に彼が目を瞑っていた所為だ。

 驚いた茉莉は、「わっ!?」と、素っ頓狂な声を上げ、思わず目を見開いてしまう。

 目の前にはリアと大きな姿見。左右には壁。後ろにはカーテンが敷かれている。

 およそ公衆電話くらいの広さの空間に、二人はいた。

 状況が掴めず、茉莉は困惑する。

 もしかして、分かってくれた?女子更衣室に入らずに済んだのかな?…という淡い期待も同時に浮かび上がる。

 だが、冷静さを取り戻し、周りの音を聞けば、ここが女子更衣室のどこかであるのは明白だった。

 壁の向こう側からは、誰かが着替えているのか、微かに衣擦れの音が聞こえてくる。

 女子特有の甘ったるい香水の匂いもするし、内容を聞き取れる程大きい訳ではないが、女性の話し声もする。

 多分ここは、着替えの為に設置されたスペースなのだろう。

 茉莉は諦めにも似た納得をした。

 出口もどこにあるか分からない為、外を見ずにこの場から脱出する術はない。

 あるとすれば魔法くらいだろうが、試すまでもなく、茉莉に魔法は使えない。

 逃げ道は封じられ、どうすることも出来ないのだ。

 それでも茉莉は、何とか脱出方法を模索しようと考える。

 茉莉が思考に耽っている間、リアは難しい顔をしながら、茉莉の身体のある一点をじっと見続けていた。

『うーん…。』

 リアも同じように、先程から茉莉がプールに来ることを嫌がっていた理由を考えていた。

 そして今、丁度その理由に行き当たったのだ。

『茉莉姉ぇ、ちょっと失礼するね。』

 彼女は茉莉の服の裾に手をかけると、そのまま一気にずり上げた。

「ぎゃー!?」

 考え事に没頭し、警戒もしていなかった所為で、茉莉はリアの行動を止めることは出来なかった。

「ちょ、ちょちょ、ちょっと!?リアちゃん!?何してるの!?」

 リアは慌てる茉莉を無視するように、服を捲り上げたまま、そこにある膨らみを凝視する。

 そして確信する。自分の考えは間違っていなかったんだ…と。

『やっぱり…。そういうことだったんだね…。』

 リアは、茉莉に憐れむような冷たい視線を向ける。

 その表情を見て、一瞬の後に茉莉は察する。

 バレてしまったんだ…、男だということが、バレてしまった…と。

 リアは低いトーンのまま顔を俯かせ、何かを呟いている。

 茉莉には何を言ってるか分からないが、多分自分を非難する言葉なんだろう、と想像は付く。

 身体を見られたんだし、気付かれたんだろう…。

 彼女はボクを軽蔑するはずだ。

 それどころか、トラウマを植え付け、人間不信になってしまう可能性だってある。

 こんなことなら、最初からリアちゃんに秘密を明かしておけば良かった。

 言うタイミングがなかった、なんて言い訳は今更しない。そんなの言う機会はいくらでもあった。

 ただ、彼女が気付かないことに甘えて、女性としてだけど自分を慕ってくれるのが嬉しくて、言ってしまったらこの関係が崩れそうで、言い出せなかっただけだ。

 ボクはリアちゃんのことをこれっぽっちも考えてなかった、只の卑怯者だ…。

 ごめんなさい、ボクの身勝手な思いで、君のこと傷つけちゃって…。

 そんな負の思考だけが逡巡する。

 後悔と自責。茉莉にはもうそれしか考えられない。

 だが、実際のところ、リアが呟いていた言葉は、茉莉への誹謗中傷などではない。

 リアはぼそぼそと言葉を言い終わると、パッと顔を上げ、ニヤリと笑う。

 その表情を見た茉莉は、あれ?ボクのこと軽蔑したんじゃ…と疑問に思ったのも束の間、自分の身体に異変を感じる。

 特に、胸と下半身。

 身体を見下ろすと、胸部にはパッド付きのブラを押し上げるように、小さくない膨らみが存在を主張し、そして、下腹部にあるべきそれが、消失していた。

「ふぁっ!?」

 茉莉の口からは、驚きで変な声が出てしまう。

『茉莉姉ぇ、胸に詰め物してるのは何となく分かってたけど、そこまで真っ平らだなんて思わなかったよ…ごめんね、だからこれはお詫び。』

 リアは、茉莉の胸が平らなのが、イコール男だという発想は微塵も持っていない。

 それもそのはず、魔界では女装という概念が存在しないのだから。

『今この瞬間だけでも、茉莉姉ぇが胸を張って兄貴の前に出られるようにしてあげたよ!言葉なんか通じなくても、きっと私の気持ちは分かってくれるよね!』

 まるで伝わっていない。

『さぁ、水着を選ぼう!兄貴に、茉莉姉ぇの魅力を見せつけてやろう!』

 カーテンを開けたリアは、茉莉の肩を抱き、右手を、人差し指をカーテンの向こう目掛けて突き出し、自信満々に言い切った。

 それから、混乱した茉莉の頭が正常に働き始めるまで、数分の時間を必要とした。

 ただ混乱していてもやることはちゃんとやっていたようで、気付けばリアと一緒に、レンタルしたであろう水着姿になっていた。

 しかも、しっかりと自分の趣味に合う水着を選んでいたようなのだから、やるせない気持ちは相乗される。

 うん、もう、なんか訳が分からないし、色々どうでも良くなってきたかも。

 バレていなかったことを喜ぶべきなのか、将来的にリアを傷つけてしまう可能性があることに気付いたのに未だ言う勇気のない自分を咎めるべきなのか…それすらも分からなくなり、最終的に茉莉は、考えることを放棄した。

 ボーっとしたまま、コインロッカーに手荷物と、衣服を綺麗に折り畳んで閉まった後は、プールへ向かう前にシャワーの雨を通り抜ける。

 そして、その先でエルの姿を視界に収めた茉莉の心中には、何だかすごく安心感が込み上げてきた。

 抑えきれずに彼に駆け寄ると、

「あ、ま、魔王くん…お、お待たせっ…。」

 と、よく分からない熱っぽさを感じながら、茉莉は声をかけた。

「それほど待ってはおらぬ。それよりも、茉莉の方は大丈夫であったか?」

 心配してか、エルはすぐに質問をする。

 しかし、それに関して茉莉は思考放棄状態である為、上手く答えを出すことが出来ないでいる。

「……う、うん。大丈夫といえば大丈夫だし、大丈夫じゃないといえば大丈夫じゃないんだけど…。」

 茉莉は、ぼそぼそと、どっちつかずの返事をしてしまう。

 その返答をエルが不審に思っている様子は、茉莉にもよく分かった。

 しかし、やはり答えは出ない。

 そうして茉莉が黙っていると、追い付いてきたリアが、エルに誇らしげに話しかけた。

『どうよどうよ、茉莉姉ぇの水着姿。魅力的でしょ?』

 エルは妹の態度を見、茉莉の秘密がバレた訳ではないのだろう、と推察する。

 返事を返すよりも早く、エルの脳内は、茉莉の不審な発言に対しての思考を始め、

『無視すんなー!』

 リアによって、物理的に中断された。

 彼女は勢いをつけて、兄の左足を蹴り上げていた。

 エルは痛みで膝を付く。

 目の前で行われた暴挙に一瞬、唖然とする茉莉だが、すぐにエルの横にしゃがみ込むと、

「だ、大丈夫、魔王くん!?」

 と、痛みを和らげられるように、慌ててエルが蹴られた場所をさする。

 さすりながら、茉莉はリアを見上げ、自分でも驚くようなハイトーンで、

「もう、リアちゃん、何でこんなことするの!」

 と、リアを叱りつけてしまう。

『そ、そんなに強く蹴ったつもりなかったんだけど…ごめん、大丈夫、兄貴?』

 エルが翻訳していない為、言葉は正確には分からないが、リアは叱られたのだろうということは理解する。

 流石に茉莉に叱られてしまっては、ばつが悪く、素直に謝罪した。

 しかし、謝っても、エルはわなわなと震え、許し難い怒りの色を消そうとしない。

『うむ…いや、大丈夫ではない。リア…何ということをしでかしたのだ、お前は…。』

 茉莉も流石に、怒りすぎなんじゃないか、と感じるが、彼を止めることは出来なかった。

『ちゃ、ちゃんと謝ったじゃん…それに…蹴られたくらいでさ、そこまで怒るなんて、大げさだって…。』

 兄が何に対して怒っているか気付かぬまま、リアは言い訳がましく言葉を放つ。

 エルの形相は兄が妹を叱りつけるような生易しいものではなく、まるで規律に反した者を弾圧する独裁者のように見える。

 声は地の底から響くように重たい。

 茉莉は以前に同じような空気を纏ったエルを見た記憶があった。

『リア、お前…茉莉に魔法を使ったな?』

 そう、グラゼルが茉莉に対し、魔法を行使しようとした瞬間、それを制したエルの姿とよく似ていた。

 それを見て、ようやく茉莉は自分の身体に起こった異常を認める。

 ああ…リアちゃんがボクに魔法を使って、ボクは女の子になっちゃったのか…。

 理解するのを頭が拒んでいた故に、茉莉は一番ありそうな事態を思考の外に放り出していた。

 現状を把握した後の茉莉の行動は素早かった。

 先ず、立ち上がると、リアを庇うように2人の間に割り込み、

「……茉莉、こ奴はお前に、してはならぬことを───」

「えーい!」

 エルの説明を待つことなく、茉莉はそのままエルに勢い良く抱き付いた。

「ま、茉莉…!?」

「冷静になって、魔王くん!?」

 突拍子もない茉莉の行動に、完全にエルは虚を突かれる。

 どう見ても冷静でないのは茉莉の方だ…というツッコミすら間に合わない程に、反論の機会を与えず、茉莉は言葉を続けた。

「ボク別に怒ってないから!リアちゃんだってボクの為を思ってやったことなんだし!だから、怒らないであげて!!」

 同時に、物理的な意味でも反論を封じていたことには気付かなかった。

「ま、茉…莉…このままでは…死ぬ…。」

 腕の中で苦しそうな声を微かに上げるエルによって、茉莉は力を込めすぎていたことにハッとなる。

 茉莉が慌ててエルから離れると、エルは俯き数度き込むが、すぐに呼吸を整えると顔を持ち上げ、茉莉を真っ直ぐに見つめる。

「茉莉…いくら茉莉とは秘密を共有しているとしても、リアは許されぬことをした。分かるな?」

 諭すように、エルは言う。

 やってはいけないことなのだ。それも、茉莉に魔法を使うなど。

 そもそも被害者なのだぞ、茉莉は。リアが魔法を使ったことは、お前の身体を見れば一目瞭然だ、庇っても使用した事実が変わる訳ではない。

 と、エルは更に茉莉が食い下がるだろう言葉に答える準備として、頭の中で幾つかの対応を考える。

 だが、茉莉の口からは、そのどれもに該当しない主張が飛び出したのだ。

「魔王くんも使ってた。」

「…は?」

 使ってた、とは言うまでもなく魔法のことだ。

 茉莉は平然ととんでもないことを言い出すが、エルにそんな記憶はない。

 リアを庇う為、出鱈目でたらめを口にしているだけだ。

 そう確信した故に、エルは強気に質問を返す。

「いつ我が使用したというのだ?」

 その質問への答えが出るには、数秒の時間を要した。

 暫く思い出すように目線を上に向けていた茉莉だったが、割と具体的な日時を提示するに至る。

「えーと…六日前の、正確な時間は分からないけど、お昼頃だね。」

 すぐに、そんなことはありえない、とエルは間を置かずに反論を開始する。

 何故なら、

「六日前というと、月曜日か…それも昼頃と言えば、つまり学校にいる時ではないか。学校などで使う訳が…───」

 と、そこまで言って、彼は思い出す。

 その日、お昼一緒に食べない?と誘ってきたのは、確か茉莉だ。

 人目に付かない場所で、という要望があったが、校舎内で二人きりになれる場所は自然と限られてくる。思うように見つからず、最終的に屋上で昼食を一緒に摂った。

 屋上への扉は施錠されていて、茉莉が「魔法で鍵、開けれないかな?」と、自分に悪戯っぽい笑みを向けてきた。

 そして、流されるまま、魔法を使ってしまった。

 否、正しくは、流されたというには語弊がある。茉莉は何も強要はしていない。折れたのはエルで、最終的に自己の判断で魔法を使った。

 しかし、それは単に茉莉を悲しませたくないとか、そういう思いがあったからであって、今回のケースとは違う。…はずだ。

 そうやってエルは、当時の状況を一つずつ思い出しながら口を開くのだが、

「あ、あれはだな…茉莉がそもそも、使って欲しいと、言ってきた訳で…我はその要望に応えただけというか、だな…。」

 どうにも言い訳っぽくなってしまう。

 お前にリアを咎める資格はない…茉莉の笑顔が、そう核心を突いてくるように見えてしまい焦る。

 無論、茉莉はそんなこと思ってはいない。単にエルの錯覚だ。

「うん、確かに魔王くんはボクがお願いしたから、ボクの為に仕方なくだろうけど、使ってくれた。リアちゃんも、ボクの為を思って使ってくれたんだから、お相子じゃないかな?」

 茉莉は言うが、その物言いに、エルには少々納得出来ない部分がある。

「待て、茉莉の為に…とは、リアは一言も言っておらぬではないか。それとも、言葉が通じぬのに、それを理解出来たと言うのか?」

 エルが疑問を持って制止をかけると、茉莉は少し困ったように首を捻って、考える仕草をした。

 だがそれも僅かな間のことで、考えながら、自信なさげに答えを形にしていく。

「うーん…確かにその辺は、ハッキリとは言えないけど。えーと、じゃあ逆に聞くけどさ、魔王くんはリアちゃんが、ボクに悪意を持ってそんなことするように思う?」

 そう言われてしまうと確かに、リアが茉莉に懐いているのが演技とは考え難い、故に、悪意や害意で魔法を使用するなど、可能性としてはほぼ無いに等しい…そう考えるのが妥当だ。

「…うむ…あまり思わぬが…。」

 消極的ではあるにせよ、納得せざるを得ない。

 エルの言葉に安堵したように、茉莉は続ける。

「じゃあそういうことなんだよ。だから今回は大目に見て欲しいんだ。もうやっちゃいけないよ、って教えてあげて、反省したら許してあげて。それで今回はお終い…じゃダメかな?」

「しかし…。」

「間違いは誰にだってあるものだし…間違いを犯して、反省して、人は成長してくんだからね。勿論、間違ったままなら、叱ってあげないとダメだけど。」

 エルを諭しながら、その台詞は茉莉自身の傷口を抉るものでもあった。

 胸中にあるのは、リアに自身の秘密を明かさないのが、今自分が犯している間違いなんじゃないか、という思い。

 自分が間違っているのなら、それをエルに正して欲しい、という願い。

 しかしそれは、この場で求める物ではない。

 だから、そういう気持ちは押し隠す。

 茉莉の心中に気付く様子はなく、エルは素直に言葉だけを受け取っていた。

「リアに甘いな、茉莉は。」

 これ以上反論はない、自分の負けだ…と言う様に、エルは息を吐く。

「まぁその…ボクにとっても妹が出来たみたいなもので、甘やかしちゃうし、甘えちゃうのも、仕方ないことだよね…?」

 同意を求めてしまうのは、不安だから。

 リアが慕ってくれるのに甘えて自分の本当の姿を伝えられなかったことを、肯定して欲しいから。

 無意識ではあるが、そういった感情が駆け巡った故に、茉莉は肯定を求めた。

「うむ。それに我が口を挟む理由などない。茉莉の好きなようにすると良い。」

「えへへ、魔王くんだってボクに甘いよね。」

 思わず笑顔になる茉莉。

 肯定されたのは、決して茉莉が心に秘めた部分ではない。

 茉莉自身にそんな気はなくとも、胸の内まで全てを肯定されたように錯覚し、自然と許された気持ちになってしまう。

「なっ…!そ、そんなことはない!我は誰に対しても平等な目線でだな───」

 そもそも甘いということは贔屓ひいきしているということであり、王としてはすべての民を平等に扱う義務が…等と、その後も照れ隠しのように、矢継ぎ早に言葉を放つエルが少し可笑しかった。

 エルが一通り言い訳を述べ終わり、これ以上続ける様子がないことを確認した後、

「じゃあ、ボクにしてくれるように、ちゃんとリアちゃんにも平等にね。優しく接してあげるんだよ、魔王くん。」

 と、茉莉はこの日一番の笑顔で、エルの愛称を口にした。

「わ、分かっておる…。」

 自分の言い方に便乗されたのが余程恥ずかしかったらしく、エルはそっぽ向く。

 苦笑しながら、茉莉はリアとエルの間から退く。

 リアはというと、不安そうに二人のやり取りをじっと見ていた。

 だからだろう、エルがぶっきらぼうに『リア!』と彼女の名を呼ぶと、びくっと肩を震わせる。

『な、なに…?』

 リアには、これから怒られるのだろう、という覚悟は、一応出来ていた。

 エルは、ゆっくり立ち上がり、目の前で怯える黒髪にポンと優しく手を置くと、

『もうこんなこと、するでないぞ。』

 と、一言だけ発する。

『そ、それだけ…?』

 あれだけ怒っていたのに…と呆気に取られるリア。

 その姿が滑稽だったのか、エルは少しだけからかうようなおどけた口調で、リアに言葉を投げる。

『何だ不満なのか?叱られたいというならば、ちゃんと叱ってやっても良いのだぞ?』

『ば、馬鹿っ!そんなこと思う訳ないじゃん…!』

 リアの声は心なしか震えていた。

 泣き出しそうなのを堪えているのだろう。

 あれほど本気で怒った兄を見たことはなかった。だから自分が、してはいけないことをしてしまったんだ、とリアは十二分に理解していた。

 そんな妹の姿を見たら、再度からかおうなどという気持ちは湧くはずもない。

『悪いことをしたと反省しているのならそれで良い。』

 出来るだけ優しいイントネーションで、エルは真摯に妹と向き合った。

 それに応えるようにリアは、

『ん…ごめん…なさい…。』

 途切れ途切れで絞り出すような小声ではあるが、しおらしく謝罪を述べる。

『謝るのなら我にではない。茉莉にだ。』

『そう、だよね…。』

 エルに言われるまま、リアは茉莉に向き直り、頭を下げる。

『茉莉姉ぇ、ごめんなさい…。』

「うん。リアちゃんはちゃんと反省したんだから、怒ってないよ。」

 茉莉は笑顔でそう言うと、彼女を優しく抱擁した。

 堰が切れたように、リアは声を抑えながら泣く。

 この時ばかりは、エルは翻訳に口を挟むなどといった無粋な真似はしない。

 そんなことをしなくとも、互いに相手の言いたいことを理解しているように見えたからだ。

 そして、そんな光景を見たエルは、リアが茉莉に懐いていた理由がようやく分かった。

 茉莉の雰囲気がどことなく、自分達の母親に似ているのだ…と。

 エルに見守られながら、リアが泣き止むまでの短くない時間、茉莉はリアを優しく抱き締め続けた。




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