第八十五話「川瀬さんが、照合を待っている」
川瀬奈緒の部屋に上がった。照合の件を、報告した。
「課長の承認が、必要なんです。折衝課の責任者なので」
「承認、してくれそうですか」
「難しいかもしれません。課長は、これまでPAIRの異常をずっと隠してきました。照合は、それを表に出す行為なので」
川瀬奈緒は、カップを持った。両手で包む、いつもの持ち方だった。
◇
「私、課長さんに一度、会っていますよね。介入継続の説明のとき。面白い人でした。何も言わないけど、全部知っている顔をしていて。あの人、たぶん私たちのこと、わかってますよね」
「わかっている、というのは」
「照合しなくても、答えを知っている顔でした。私が待合室で見た、あの人の顔。何かをずっと見てきた人の顔でした。たくさんのものを見て、たくさんのことを言わずにきた人の顔」
川瀬奈緒は、人を見る目があった。3年間、田村を見続けた人だ。一度会っただけの課長の顔から、彼女は何かを読み取っていた。
◇
課長は、照合しなくても答えを知っている。設立当初のERROR。課長だけが開ける領域。課長は、最初の100%を見ているのかもしれない。見ていて、ずっと、言わずにきたのかもしれない。
川瀬奈緒は、それを一度会っただけで感じ取った。俺は三年、同じ部署にいて、気づかなかった。毎日同じ部屋で督促を受けて、課長の顔を何百回も見てきたのに。近すぎると、見えないものがある。彼女は遠くから来たから、見えたのかもしれない。折られる側から見た折衝課が、俺の見ていた折衝課と、まるで違っていたように。
「もし、課長が承認しなかったら、照合はできません」と俺は言った。「年度末まで、あと約30日です。それを過ぎると、監査領域が閉じて、1年照合できなくなります」
「それと、本部監査部から照合の予定を確かめる照会が来ています。差出人は、榊という人です。課長は『本部には俺が答える』とだけ言いました」
「答えるって、承認するということですか」
「わかりません。断るとも、言いませんでした」
川瀬奈緒は、少し笑った。
「私も、行きます。課長さんに、もう一度会いに行きます。私からも、お願いします。照合してほしいって」
「川瀬さんが、ですか」
「はい。折衝さん一人に、背負わせたくないので。これは、二人のことなので」
二人のこと。その言葉を、川瀬奈緒はもう何度か使っていた。最初は、俺が一方的に折りに来る案件だった。担当者と対象者。一人と、もう一人。それが、いつのまにか「二人のこと」になっていた。照合も、課長への願いも、彼女は「二人で」と言う。背負うものを、半分こにしようとしていた。折られる側だった人が、いつのまにか、隣に立つ人になっていた。
◇
帰り道、駅のホームで、川瀬奈緒の言葉を思い出した。照合しなくても、答えを知っている顔。
俺は、その顔をまだ一度も、まっすぐ見たことがない気がした。課長はずっと答えを知る側にいて、俺はずっと、答えを知らない側にいた。立場が、似ていた。折る側と折られる側が似ていたように。鶴田が見る側で、俺が見られる側だったように。この制度の中で、人はいつも、知る者と知らない者に分かれていた。俺はずっと、知らない方にいた。明日からは、知る方へ行こうとしていた。電車が来た。今日も、一本、見送った。
次話「出た答えは、消せない」




