笑い声の、練習相手
日曜日の午前十時。
スマートフォンが震えた。
『いいよ! 何時にどこ集合?』
玲奈からの返信だった。
私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。もっと理由を聞かれると思っていた。どうして急に、なんて。けれど、玲奈は私の最後の一文を読んでも、何も尋ねてこなかった。
だからこそ、少しだけ怖くなった。
嘘を本当にしたい。
そう送った私が、もし本当に笑えなかったら。
『午後一時、駅前のカフェで』
返信を打って、送信する。
これで、もう逃げられない。
*
「で、何すればいいの?」
向かいに座った玲奈は、アイスコーヒーを一口飲んでから首を傾げた。
「……笑う練習?」
「うん。私が何か面白いことを言えばいい?」
「えっと……それは、ちょっと違うと思う」
「難しい注文だなあ」
玲奈は笑った。
いつもどおりの、自然な笑い方だった。
私はそれを見て、胸の奥が少し苦しくなった。
私だって、昔はあんなふうに笑っていたはずなのに。
「ひより」
「はいっ」
「まず、そんなに肩に力を入れない」
言われて、私は自分の肩が上がっていることに気づいた。
「笑うのって、そんなに難しいこと?」
「……難しいよ」
「そっか」
玲奈は、それ以上何も言わなかった。
励まされるより、ずっとありがたかった。
「じゃあ、何か見ようか。落語、だっけ?」
玲奈がスマートフォンを取り出す。私は頷き、祖父の部屋で聞いたテープのことを話した。
「おじいちゃんが昔、寄席で録ったものを持ってるの。昨日、それを聞いて……」
「なるほど。じゃあ、ひよりの先生はおじいちゃんなんだ」
「先生っていうか……」
「いいじゃん。師匠がいるなんて、落語家みたい」
玲奈は楽しそうに笑った。
その言い方がおかしくて、私は思わず口元を緩めた。
けれど、笑い声は出なかった。
気づいた途端、また口元に手を伸ばしかける。
止めた。
テーブルの下で、両手を握りしめる。
「……今の、ちょっと面白かった」
「え?」
「玲奈の言い方」
「ほんと?」
玲奈が嬉しそうに身を乗り出す。
私は小さく頷いた。
「でも、声が出ない」
「じゃあ、今日はそれでいいんじゃない?」
あまりにあっさりと言われて、私は顔を上げた。
「え?」
「面白いと思ったんでしょ? なら、まずはそこからでいいじゃん。声を出すのは、その次」
玲奈はストローの袋を細く折りながら言った。
「だって、ひよりが無理して笑ったって、三笠先輩は喜ばないんじゃない?」
私は返事ができなかった。
そうだ。
蓮は、私に笑ってほしいと言った。
けれど、私が笑わなければならないとは、一度も言わなかった。
それなのに私は、彼のためだと言いながら、また自分を追い詰めている。
「……玲奈って、たまに鋭いよね」
「たまに?」
「いつも、かな」
「よろしい」
玲奈が胸を張った。
今度は、喉の奥が少しだけ震えた。
声にはならなかったけれど、私は口元を隠さなかった。
*
月曜日。
旧棟へ向かう道には、昨日までの銀杏の葉がまだ残っていた。
階段を上り、いつもの教室の扉を開ける。
「こんにちは、三笠さん」
「志摩さん! こんにちは」
蓮は、いつもどおり座布団の上に座っていた。けれど、膝の上の扇子を握る手には、少し力が入っている。
学園祭まで、あと五日。
「……あの、三笠さん」
「うん?」
「今日、玲奈を呼んでもいいですか?」
蓮の目が、わずかに見開かれた。
「玲奈さんって、前に来てくれた……?」
「はい。私、昨日、お願いしたんです。笑う練習に付き合ってほしいって」
言いながら、心臓が早鐘を打ち始めた。
また誰かの前で笑えなくなったら。
また蓮の噺を止めてしまったら。
それでも、私は言葉を続けた。
「私、本番で笑えるようになりたいんです。……ううん。笑わなきゃいけないんじゃなくて、笑いたいんです」
蓮は、しばらく黙っていた。
やがて、扇子を膝に置く。
「……そっか」
それだけだった。
もっと何か言われると思っていた。頑張って、とか。ありがとう、とか。
けれど、蓮はいつものように笑った。
「じゃあ、僕も練習しないとね」
「え?」
「志摩さんが笑えるかどうかだけじゃなくて、僕がちゃんと噺を届けられるように。玲奈さんにも聞いてもらって、どこが伝わりにくいか教えてもらおう」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
私が蓮を支えなきゃいけないと思っていた。
でも、蓮もまた、自分の足で進もうとしている。
「……はい!」
返事をした、そのとき。
廊下から、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「ひよりー! お待たせ!」
玲奈が扉から顔を出す。
「こんにちは、三笠先輩。今日はよろしくお願いします!」
「こちらこそ。ええと……何から始めようか」
三笠さんが少し緊張した顔で扇子を持ち直す。
私は、二人を見つめた。
客席は、ひとつじゃない。
けれど、二つになったからといって、すべてがうまくいくわけでもない。
それでも。
今度は、ひとりで息を止めなくていい。
「三笠さん」
「うん?」
「今日は、『時そば』をお願いします」
蓮は頷いた。
「承知しました。それでは一席」
私は膝の上で、そっと両手を開いた。
笑えるかどうかは、まだわからない。
でも、笑いたいと思った自分の気持ちだけは、もう隠さないでいようと思った。




