息を止める場所
土曜日の朝、私は布団の中で天井を見ていた。
学園祭まで、あと六日。
『一番前の真ん中で、大きな声で笑います』
昨日の自分の声が、耳の奥に残っている。嘘をつくときの声は、思ったよりなめらかだった。いちばんいけなかったのは、三笠さんがそれを信じてくれたことだ。心強いよ、と、あの人は言った。
旧棟は週末、施錠される。取り壊し前の決まりだそうで、稽古は月曜までお休みだった。いつもなら少し寂しい休みが、今日は少しだけありがたかった。
昼過ぎ、台所で麦茶を飲んでいたら、廊下の奥から音が聞こえてきた。ざわざわとした拍手と、聞き覚えのある声。
『ひい、ふう、みい、よう……』
祖父の部屋だ。
襖を開けると、祖父は座椅子にもたれて、古いラジカセの前で目を閉じていた。七十八歳。耳が遠くなってからも、ボリュームだけは決して上げない人だ。
「ひより、入れ」
「聞こえてた?」
「お前、台所で『ときに、いま何刻でい』と言ってたぞ」
顔が熱くなった。無意識だった。
「最近、いい顔をしてる。落語でも聞きに行ってるのか」
「……まあ、そんなところ」
私は畳に座った。ラジカセから流れているのは、祖父がずっと大事にしているテープだった。ざらついた音の向こうに、広い空間のざわめきがある。寄席で録ったものらしい。噺家は蕎麦をすすり、勘定を数えはじめる。
『ときに、いま何刻でい』
その瞬間、スピーカーの中の世界が静まり返った。
何百人もの人が、一斉に息を止めたような静けさ。咳ひとつ、聞こえない。
『へい、九つで』
爆発するような笑いが起きた。そして、その波の上を突き抜けるように、ひときわ大きな声が響いた。
「あっはっはっはっは!」
あまりに豪快で、私は思わず吹き出した。
「何、この人。うるさい」
「それ、わしだ」
「え?」
「三十年も前だがな。お前の笑い声は、わしの血だ」
私は祖父の顔を見た。祖父は、満足そうにテープの音に耳を傾けている。
「寄席ではな、ああいう客は宝なんだ。噺家が、客席のどこかで笑ってくれる人がいると思うだけで、ずいぶん楽になる。わしの笑い声は、いつも前座さんに礼を言われた」
笑い声が大きいと言われて、私はずっと、それが欠点だと思っていた。
でも、欠点じゃなかった人が、すぐそこにいた。
それから、気づけば私は、話していた。大学の旧棟のこと。ひとりきりで落語をやる先輩のこと。あの人が、あの場面でどうしても止まってしまうこと。学園祭の二百席。それから、ついた嘘のこと。
祖父は、何も言わずに最後まで聞いてくれた。
テープを巻き戻して、再生ボタンを押す。もう一度、あの場面。
『ときに、いま何刻でい』
静寂。
「ここを聞け」
祖父が言った。
静寂は、三秒ほど続いた。目を凝らすように聞くと、その静けさの中に、かすかな息づかいがあった。咳を飲み込む音。座布団がきしむ音。何百人もの客が、息を詰めて、次の一言を待っている。
「間は、噺家だけのものじゃない。客も一緒に、息を止めてるんだ。そうして止めた息は、いつか吐かなきゃ苦しい。あふれるのが、笑いだ」
『へい、九つで』
また、笑いが爆発した。
「だから、付き合いで笑う客は、噺家にはすぐ分かる。息が漏れてるだけで、間がゆるむ。逆に言えば、一緒に息を止めてくれる客がひとりいれば、その噺は落ちる」
「……私は、止めたまま、吐かなかった」
私は、ぽつりとつぶやいた。
「あの日、口をふさいだの。息を止めたまま、吐き出さなかった。だから、三笠さんの間は、落ちないままになった」
祖父は、少しだけ笑った。
「落語に出てくる嘘つきはな、たいてい最後に、自分で落ちるんだ」
「……私は、どうしたらいい?」
「嘘はな、本当にするか、白状するか、二つに一つだ」
祖父は、ラジカセの停止ボタンを押した。
「ひより。お前は、どっちがしたい?」
答えは、考えるまでもなかった。
『一番前の真ん中で、大きな声で笑います』
あの人に言った言葉を、嘘のままにしておきたくなかった。本当にしたかった。本当にして、あの人が止まったその先で、一番に息を吐く人になりたかった。
「……本当にしたい」
「なら、練習だな。笑うのにも、稽古がいる」
祖父は目を細めた。
「ほら、もう一度聞け。今度は、ちゃんとお前も笑え」
テープが回りはじめた。
蕎麦をすする音。勘定を数える声。
私は、膝の上の両手を、ぎゅっと握った。口に当てそうになる手を、必死で下に押さえつけた。
『ときに、いま何刻でい』
息を止める。
静寂の中で、私は祖父の顔を見た。祖父も、私を見ていた。
『へい、九つで』
「……っあはは! あはははは!」
声が、出た。
昔みたいに、いや、昔よりも大きく。祖父の部屋の天井に、私の笑い声が跳ね返る。口を押さえなかった。誰の顔色も、見なかった。
隣で、祖父も「あっはっは」と笑った。祖父と私の笑い声が、テープの中の三十年前の笑い声に重なって、部屋が壊れそうなくらい揺れた。
「うるさいわよ、ふたりとも」
襖の向こうから母の声がして、私たちはもう一度、顔を見合わせて笑った。
夜、自分の部屋に戻ると、私はスマートフォンを手に取った。
あと六日。
私ひとりでは、足りない。人の前で、大きな声で笑う練習。笑う客を前にして、口をふさがない稽古。
画面に、玲奈の名前を呼び出す。
『お願いがあるの。笑う練習に、付き合ってくれない?』
少し迷って、もう一行足した。
『嘘を、本当にしたいから』
送信ボタンを押す指は、思ったより震えなかった。




