ふたつの影と、一つの嘘
十一月に入り、校庭の銀杏が一気に色づき始めていた。
風が吹くたびに黄色い葉が舞い散り、旧棟へと続く道は絨毯を敷き詰めたようになっている。
「笑わなくてもいい」と言われてから三日。
私の足取りは、前よりもずっと軽くなっていた。
相変わらず大きな声で弾けるような笑いは出ない。けれど、三笠さんの演じる男が滑稽な動作をするたびに、口元が緩み、喉の奥で「くすっ」と小さな音が漏れる。
三笠さんはそのたびに、扇子の影で安心したように目元を和ませ、止まることなく噺を続けてくれた。
ただ、一つだけ心に引っかかっていることがあった。
学園祭まで、あと一週間。
演芸会申込書の締め切りは過ぎ、いよいよ本番が目前に迫っている。
けれど、あの「二百席」という現実と、二人以上の客席に向けた稽古は、あの玲奈が来た日以来、一度も行われていなかった。
「……三笠さん」
『初天神』の一席が終わり、冷めたお茶を口に含んだとき、私は思い切って切り出した。
「学園祭の稽古……ほかのお友達とか、部員集めのアピールとか、しなくていいんですか?」
三笠さんはペットボトルを持ったまま、少し気まずそうに目を泳がせた。
「うーん……そうだね。でも、志摩さんに無理をさせたくないし。僕も、今はこうして志摩さんに聞いてもらうだけで、噺の筋をしっかり身体に染み込ませられている気がするんだ」
「でも、本番は体育館で二百席ですよ」
私が言うと、三笠さんは困ったように苦笑いした。
「……うん。正直、めちゃくちゃ怖いよ。客席を見渡して、誰も笑ってくれなかったらどうしようって、夜も眠れないくらいだ。でもね」
三笠さんは指先でメガネのツルを押し上げた。
「志摩さんが教えてくれたんだ。笑い声が大きくたって、小さくたって、笑えなくたって、聞いてくれる人がそこにいるだけで、噺家は前に進めるんだって。だから、本番も……客席のどこかに志摩さんがいてくれれば、僕はきっと最後まで演じきれる」
まっすぐな言葉だった。
私を頼りにしてくれているのが、痛いほど伝わってきた。
胸の奥が温かくなると同時に、冷たい針で刺されたような痛みが走る。
(私……あの日のまま逃げているだけじゃないのかな)
あの日、玲奈が隣に座っただけで、私は他人の目を恐れて自分の口を塞いだ。そして三笠さんを途中で立ち止まらせてしまった。
三笠さんは私を傷つけないために「一人でいい」と言ってくれている。でも、私は彼の優しさに甘えて、彼を二百人の前に「たった一人の客席しか知らない状態」で送り出そうとしているのではないか。
その時、ドアがトントンとノックされ、隙間から顔が覗いた。
「三笠先輩、演芸会のプログラム順が決定しました」
実行委員の柏木さんだった。彼女はサッと教室を見渡し、私と三笠さんの間にある独特の空気を感じ取ったのか、少しだけ眉をひそめた。
「落研は予定通り、午後二時からです。持ち時間十五分。……あ、それと三笠先輩」
「なにかな、柏木さん」
「前枠のダンス部なんですけど、今年すごく人気があって。体育館、立ち見が出るくらい超満員になると思います。ダンスが終わったら一斉にお客さんが入れ替わるか、ゾロゾロ席を立つと思うので……最初のアタリは大きめの声で入ってくださいね。ざわつきに負けちゃいますから」
「……あ、うん。分かった。ありがとう」
柏木さんが去った後、教室には重い沈黙が落ちた。
超満員の体育館。ざわめく観客。席を立ちあがる人々の足音。
三笠さんの手が、膝の上でかすかに震えていた。
「……大丈夫ですよ、三笠さん」
私は、自分でも驚くほど自然な声で嘘をついていた。
「私、本番は一番前の真ん中の席に座りますから。どんなに周りがざわついてても、絶対に大きな声で笑います。三笠さんの『間』に合わせて、一番に笑ってみせます」
「志摩さん……」
「だから、大丈夫です。私に任せてください!」
胸を張って笑顔を作ってみせる。
三笠さんは一瞬間を置いてから、心底ほっとしたように、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう。志摩さんがそう言ってくれるなら、すごく心強いよ」
三笠さんの顔に安堵の彩りが戻ったのを見て、私は密かに安堵した。
……けれど、私の手は、スカートの生地をぎゅっと固く握りしめていた。
『一番前の真ん中で、大きな声で笑う』
言えるはずがない。
二人しかいない客席でさえ口を塞いでしまった私が、何百人もの学生がひしめく体育館の一番前で、自分ひとりの大きな笑い声を響かせるなんて。
けれど、今の私にできるのは、そうやって彼に勇気を与えることだけだった。
彼を安心させるための、小さな、けれど重たい嘘。
「じゃあ、三笠さん。最後にもう一回だけ、『時そば』を聞かせてください」
「うん! 任せて」
三笠さんは扇子を鳴らし、再び噺の世界へと入っていく。
蕎麦をすする音。湯気の立つ丼。
彼の演じる落語は、やっぱり世界で一番面白かった。
私は笑った。口元を手で隠しながら、声を出さずに、必死で微笑んだ。
窓の外では、夕暮れの橙色が深紫へと変わっていく。
刻一刻と近づく学園祭の日。
三笠さんの「トラウマ」は和らいでいるように見えて、実は私のついた一つの嘘の上に危うく乗っかっているだけだということに、私はまだ気づかない振りをしていた。




