笑客にも、一席を
翌日、私は旧棟の階段の前で立ち止まっていた。
いつもなら、講義が終わると自然に足が向く。錆びた手すりに触れて、三階まで上がって、半分開いた扉を押す。
それだけのことが、今日はひどく難しかった。
昨日の玲奈の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
『ひより、今日は一回も、笑ってなかったね』
責められたわけじゃない。むしろ、心配してくれたのだと思う。
だからこそ、何も言い返せなかった。
私は自分の口元に手を当てた。昔から、笑うときにはこうしていた。ここ十日ほど、すっかり忘れていた癖だった。
手を下ろす。
また上げる。
何度か繰り返して、私はようやく階段を上り始めた。
三階の教室から、声が聞こえる。
「……ひい、ふう、みい、よう」
思わず足が止まった。
「いつ、むう、なな、やあ……」
少しの沈黙。
「ときに、いま何刻でい」
昨日と同じ場所で、声が途切れた。
私は扉の前に立ったまま、動けなかった。
昨日は、私が笑えなかったから。
そう考えた途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……志摩さん?」
扉の向こうから声がした。
しまった。気づかれてしまった。
私は逃げるように一歩下がりかけて、慌てて踏みとどまった。
「……います」
「入っておいでよ」
いつもと同じ声だった。
私は扉を押した。
教室の中央には座布団が一枚。三笠さんは扇子を膝に置いて、こちらを見ていた。
「こんにちは」
「こんにちは……」
「今日も来てくれたんだね」
「……はい」
返事が小さくなった。
三笠さんは何か言いかけて、やめた。それから、いつものように座布団の上に座り直した。
「お茶、買ってきたんだけど。飲む?」
床に置かれた袋から、温かい緑茶が二本のぞいていた。
「……いただきます」
受け取ったペットボトルは、手のひらに心地よかった。
二人でしばらくお茶を飲んだ。
何か話さなきゃ、と思う。昨日のことを謝らなきゃ。私が笑えなかったせいで、三笠さんまで噺ができなくなってしまったのだから。
でも、言葉が出てこない。
「志摩さん」
「はい」
「今日、何か聞きたい噺はある?」
「えっ?」
「昨日は『時そば』だったから。今日は別のでもいいし、同じのでもいいよ」
私はペットボトルを握りしめた。
「……私が笑えなくても、いいんですか」
言ってしまった。
三笠さんは、少しだけ目を見開いた。
「昨日、私が笑わなかったから、三笠さん、止まっちゃったんですよね」
「うん」
あっさり認められて、私は顔を上げた。
「でも、それは僕の問題だよ」
「……それでも」
「志摩さんが笑ってくれると、うれしい。これは本当」
三笠さんは、扇子を手の中でくるりと回した。
「でも、笑ってもらうために来てもらってるんじゃないから」
「……え?」
「いや、最初はそうだったのかもしれないけど」
彼は困ったように笑った。
「今は、君が来てくれること自体がうれしいんだ。だから、笑えない日があってもいいよ。帰りたくなったら帰ってもいい。僕は落語をやるから、聞いてくれるだけで十分」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
笑い声がいる、と言ってくれた人が。
笑えなくてもいい、と言ってくれた。
私はずっと、自分の笑い声が誰かにとって迷惑なものだと思っていた。だから、笑うことを我慢してきた。
けれど、今度は逆だった。
笑えないことを、申し訳なく思っている。
どちらにしても、私は誰かの顔色を気にしているのだ。
「……三笠さんって、ずるいですね」
「えっ。なんで?」
「そんなこと言われたら、帰れないじゃないですか」
「ええっ、帰っていいって言ったのに!」
思わず顔を上げた。
三笠さんは本気で慌てていた。扇子を落としかけ、慌てて拾い、なぜか私に向かって頭を下げた。
「ご、ごめん。そういうつもりじゃ……!」
その姿がおかしくて。
おかしくて、でも、いつものようには笑えなくて。
私は口元に手を当てた。
ほんの少し、息が漏れた。
「……ふっ」
三笠さんが、ぴたりと動きを止める。
「今の、笑った?」
「……ちょっとだけです」
「そっか」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
大げさに喜ぶことも、もっと笑ってほしいと頼むこともなかった。
ただ、扇子を膝に置き直して、いつもの顔に戻った。
「じゃあ、一席」
私は椅子に座った。
今日も、客席はひとつ。
でも昨日とは違う。
笑わなきゃいけないと思わなくていい。面白くなかったら、面白くないと思っていい。笑いたくなったら、笑えばいい。
そんな当たり前のことを、私は今になって教わっている。
「ええ、毎度ばかばかしいお笑いを……」
三笠さんの声が、静かな教室に響いた。
始まったのは、『饅頭こわい』だった。
男たちが怖いものを言い合う。蛇が怖い、幽霊が怖い、という声の中で、一人の男がぽつりと言う。
「……俺は、饅頭が怖い」
私はその先を知っている。
知っているのに、三笠さんが布団をかぶる仕草をすると、少しだけ口元が緩んだ。
饅頭を差し入れられて、男は怖がるどころか、むしゃむしゃと食べ始める。
「こわいこわい、ああ、こわい」
私は、ふっと息を吐いた。
大きな笑い声にはならなかった。
けれど、三笠さんは噺を止めなかった。
私も、口元を押さえなかった。
帰り際、扉の前で振り返ると、三笠さんはもう次の稽古を始めていた。
誰もいない客席に向かって、扇子を動かしている。
私はその姿を、しばらく見つめていた。
明日も来よう。
笑えるかどうかは、まだわからない。
それでも、あの人の噺を聞きたいと思った。
それだけは、今の私にも、はっきりわかった。




