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6/19

笑客にも、一席を

 翌日、私は旧棟の階段の前で立ち止まっていた。


 いつもなら、講義が終わると自然に足が向く。錆びた手すりに触れて、三階まで上がって、半分開いた扉を押す。


 それだけのことが、今日はひどく難しかった。


 昨日の玲奈の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


『ひより、今日は一回も、笑ってなかったね』


 責められたわけじゃない。むしろ、心配してくれたのだと思う。


 だからこそ、何も言い返せなかった。


 私は自分の口元に手を当てた。昔から、笑うときにはこうしていた。ここ十日ほど、すっかり忘れていた癖だった。


 手を下ろす。


 また上げる。


 何度か繰り返して、私はようやく階段を上り始めた。


 三階の教室から、声が聞こえる。


「……ひい、ふう、みい、よう」


 思わず足が止まった。


「いつ、むう、なな、やあ……」


 少しの沈黙。


「ときに、いま何刻でい」


 昨日と同じ場所で、声が途切れた。


 私は扉の前に立ったまま、動けなかった。


 昨日は、私が笑えなかったから。


 そう考えた途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「……志摩さん?」


 扉の向こうから声がした。


 しまった。気づかれてしまった。


 私は逃げるように一歩下がりかけて、慌てて踏みとどまった。


「……います」


「入っておいでよ」


 いつもと同じ声だった。


 私は扉を押した。


 教室の中央には座布団が一枚。三笠さんは扇子を膝に置いて、こちらを見ていた。


「こんにちは」


「こんにちは……」


「今日も来てくれたんだね」


「……はい」


 返事が小さくなった。


 三笠さんは何か言いかけて、やめた。それから、いつものように座布団の上に座り直した。


「お茶、買ってきたんだけど。飲む?」


 床に置かれた袋から、温かい緑茶が二本のぞいていた。


「……いただきます」


 受け取ったペットボトルは、手のひらに心地よかった。


 二人でしばらくお茶を飲んだ。


 何か話さなきゃ、と思う。昨日のことを謝らなきゃ。私が笑えなかったせいで、三笠さんまで噺ができなくなってしまったのだから。


 でも、言葉が出てこない。


「志摩さん」


「はい」


「今日、何か聞きたい噺はある?」


「えっ?」


「昨日は『時そば』だったから。今日は別のでもいいし、同じのでもいいよ」


 私はペットボトルを握りしめた。


「……私が笑えなくても、いいんですか」


 言ってしまった。


 三笠さんは、少しだけ目を見開いた。


「昨日、私が笑わなかったから、三笠さん、止まっちゃったんですよね」


「うん」


 あっさり認められて、私は顔を上げた。


「でも、それは僕の問題だよ」


「……それでも」


「志摩さんが笑ってくれると、うれしい。これは本当」


 三笠さんは、扇子を手の中でくるりと回した。


「でも、笑ってもらうために来てもらってるんじゃないから」


「……え?」


「いや、最初はそうだったのかもしれないけど」


 彼は困ったように笑った。


「今は、君が来てくれること自体がうれしいんだ。だから、笑えない日があってもいいよ。帰りたくなったら帰ってもいい。僕は落語をやるから、聞いてくれるだけで十分」


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。


 笑い声がいる、と言ってくれた人が。


 笑えなくてもいい、と言ってくれた。


 私はずっと、自分の笑い声が誰かにとって迷惑なものだと思っていた。だから、笑うことを我慢してきた。


 けれど、今度は逆だった。


 笑えないことを、申し訳なく思っている。


 どちらにしても、私は誰かの顔色を気にしているのだ。


「……三笠さんって、ずるいですね」


「えっ。なんで?」


「そんなこと言われたら、帰れないじゃないですか」


「ええっ、帰っていいって言ったのに!」


 思わず顔を上げた。


 三笠さんは本気で慌てていた。扇子を落としかけ、慌てて拾い、なぜか私に向かって頭を下げた。


「ご、ごめん。そういうつもりじゃ……!」


 その姿がおかしくて。


 おかしくて、でも、いつものようには笑えなくて。


 私は口元に手を当てた。


 ほんの少し、息が漏れた。


「……ふっ」


 三笠さんが、ぴたりと動きを止める。


「今の、笑った?」


「……ちょっとだけです」


「そっか」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 大げさに喜ぶことも、もっと笑ってほしいと頼むこともなかった。


 ただ、扇子を膝に置き直して、いつもの顔に戻った。


「じゃあ、一席」


 私は椅子に座った。


 今日も、客席はひとつ。


 でも昨日とは違う。


 笑わなきゃいけないと思わなくていい。面白くなかったら、面白くないと思っていい。笑いたくなったら、笑えばいい。


 そんな当たり前のことを、私は今になって教わっている。


「ええ、毎度ばかばかしいお笑いを……」


 三笠さんの声が、静かな教室に響いた。


 始まったのは、『饅頭こわい』だった。


 男たちが怖いものを言い合う。蛇が怖い、幽霊が怖い、という声の中で、一人の男がぽつりと言う。


「……俺は、饅頭が怖い」


 私はその先を知っている。


 知っているのに、三笠さんが布団をかぶる仕草をすると、少しだけ口元が緩んだ。


 饅頭を差し入れられて、男は怖がるどころか、むしゃむしゃと食べ始める。


「こわいこわい、ああ、こわい」


 私は、ふっと息を吐いた。


 大きな笑い声にはならなかった。


 けれど、三笠さんは噺を止めなかった。


 私も、口元を押さえなかった。


 帰り際、扉の前で振り返ると、三笠さんはもう次の稽古を始めていた。


 誰もいない客席に向かって、扇子を動かしている。


 私はその姿を、しばらく見つめていた。


 明日も来よう。


 笑えるかどうかは、まだわからない。


 それでも、あの人の噺を聞きたいと思った。


 それだけは、今の私にも、はっきりわかった。

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