持ち時間は十五分
三笠さんの稽古に通いはじめて、十日が過ぎた。
講義が終わると、サークル棟の裏手を抜けて、錆びた階段をのぼる。三階の突き当たり、半分開いた扉。座布団の上で扇子を握った三笠さんが「いらっしゃい」と言う。それが、いつのまにか私の一日の区切りになっていた。
お茶は交代制になった。「昨日は志摩さんだったから」と、自販機の前で小銭を数えて待っている日もある。たまに間違えて、あったかいミルクティーを買ってくる。
噺も増えた。『時そば』のあとは『饅頭こわい』。怖いものを言い合っていた男たちの中で、ひとりが「饅頭がこわい」と言い出して布団をかぶる。ところが、饅頭を差し入れられたとたん、むしゃむしゃ食べはじめるのだ。
「こわいこわい、ああ、こわい」と言いながら、幸せそうに頬をふくらませる三笠さんを見て、私は椅子から落ちそうなほど笑った。
「志摩さん、笑いすぎ」
「だって、顔が、饅頭こわくない顔なんです」
「それは褒めてる?」
「最大限に褒めてます!」
声を押さえなくていい一日は、気持ちがいい。この十日で、私は喉の手前に置いていたふたを、どこかへ失くしてしまったようだった。
その日の稽古の終わりぎわ、半分開いた扉が、こんこんと鳴った。
立っていたのは、紺のパーカーを着た女の子だった。胸に「学園祭実行委員」の名札、手にはクリップボード。私と同じ二年生くらいだろうか。
「三笠先輩、演芸会の出演申込書、まだ出てません。締め切り、来週の金曜です」
三笠さんは正座のまま、背筋を伸ばした。
「あ、柏木さん。ごめん、すぐ書く」
「お願いします。当日は十一月の第二土曜、午後二時から第一体育館です。持ち時間は十五分。前がダンス部、後ろが軽音です」
彼女は事務的に言ってから、ちらりと私を見た。
「ええと、お客さんですか?」
「あ、いや、その」
「客です」と、私が答えた。「ただの客です」
自分で言っておいて、なぜか胸のあたりが小さくちくりとした。
柏木さんは「そうですか」とだけ言って、少し声を落とした。
「去年は客席が半分も埋まらなかったんですけど、今年は二百席、全部開けます。実行委員会の方針なので」
扉が閉まって、足音が遠ざかった。
静かになった教室で、三笠さんは申込書を膝に置いたまま、動かなかった。
「二百席」
ぽつりと、言った。
「ここは、客席がひとつだから」
「はい」
「二百人の顔は、さすがに、ちょっと」
冗談めかした声だった。けれど、扇子を握る指の関節が白くなっているのが見えた。
『時そば』は十二分。持ち時間には収まる。収まるけれど、収まるだけでは意味がない。あの「間」で、二百人が笑ってくれなければ、彼の噺は途中で落ちたままになる。
「……志摩さん」
「はい」
「頼みがあるんだけど。迷惑なら断って」
三笠さんは、申込書の端を指でそろえながら言った。
「客席を、もう少し増やして稽古したいんだ。ひとりだけの笑い声で言えても、本番とは違うから」
私は少し考えて、頷いた。
「ひとり、心当たりがあります」
翌日、私は同じ学科の玲奈を連れて旧棟の階段をのぼった。
「ひより、最近ぜんぜん飲みに来ないと思ったら、これか」
「飲みって、私たちお酒まだ」
「言い方よ、言い方」
玲奈は明るくて、よく笑う子だ。笑うときに、ちょうどいい大きさで、ちょうどいい長さで笑う。私にはずっと、それが上手にできなかった。
教室には、椅子がもう一脚増えていた。三笠さんが、どこかから借りてきたのだ。私が窓側、玲奈が隣。客席がふたつになった。
「落研部長の三笠です。今日は、ありがとう」
「玲奈です。ひよりの友だちです。……あの、三笠さんって、下の名前は?」
「蓮」
答えたのは、なぜか私だった。
「蓮さ……」
「え?」
「あ、いや、蓮、らしいです。三笠さんの」
玲奈の眉が、すうっと上がった。やめてほしい。
「では、一席」
三笠さんが扇子を鳴らして、空気が切り替わった。
「えー、お蕎麦屋さん。ひとつ、いただけますかな」
声は、いつもどおりだった。蕎麦をすする音も、割り箸をぱきんと割る手つきも、湯気を吹く唇も。玲奈が「おお」と小さく声を漏らした。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ……ときに、いま何刻でい」
来る、と思った。
私は笑う準備をしていた。いつもなら、喉の奥が勝手に熱くなって、気づけば声がこぼれている。
けれど、そのとき私の右隣には、玲奈がいた。
きちんと座って、じっと前を見ている。笑い声が大きい、と言われたあの教室の昼休みが、ふいに背中のほうから追いついてきた。
隣の人が、びっくりするかもしれない。
その考えが浮かんだ一瞬、私の手は、勝手に口をふさいでいた。
「……」
「間」が、そこにあった。
宙に浮いた、たっぷりした空白。誰も笑わない空白。三笠さんの目が、一度だけ、私のほうへ動いた。
玲奈が、遠慮がちに「ふふ」と小さく笑った。礼儀正しい、きれいな笑いだった。
それでも、三笠さんの口は、動かなかった。
「……ごめん」
扇子が、膝に置かれた。
「もう一回、頭から」
二回目も、三回目も同じだった。「いま何刻でい」の先で、彼の声は薄い膜に包まれたみたいに、途切れた。私は何度も笑おうとした。けれど、一度ふさいだ手は、なかなか口から離れてくれなかった。
「今日は、ここまでにしよう」
三笠さんは、笑ってそう言った。
「志摩さんのせいじゃない。僕の問題だから」
その言い方が、いつもよりずっと優しくて、私は余計にいたたまれなかった。
帰り道、玲奈は「面白かったよ、ほんとに」と何度も言った。それが嘘ではないことも、わかっていた。
「でもさ」と、別れ際に彼女は言った。「ひより、今日は一回も、笑ってなかったね」
私は、返事ができなかった。
二百席の客席より先に、私は、たったふたつの客席で、自分の笑い声を裏切った。
旧棟の三階では、まだ灯りがついていた。あの人は、ひとりで、座布団の上にいるのだろうか。
明日、私は、どうやって笑えばいいのだろう。




