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蕎麦の湯気と、熱いお茶

 翌日、講義が終わるやいなや、私は吸い寄せられるようにサークル棟の裏手へと向かっていた。

 十月末の風は思いのほか冷たく、薄手のジャケット越しに肌寒さが身にしみる。けれど、錆びついた非常階段を一段ずつのぼるにつれて、胸の奥だけがぽっと灯りでもともったように温かくなっていった。

 三階の突き当り。半分開いた扉の隙間から覗き込むと、昨日と同じく机と椅子が隅に寄せられたガラんとした部屋があった。

 部屋の中央、座布団の上にはすでに三笠蓮――三笠さんが正座していた。

 黒いカーディガンの袖を少し捲り上げ、膝の上で真剣な顔つきをして扇子を握りしめている。ブツブツと口の中で何やら呟いているその姿は、まるで出番直前の舞台袖のような緊張感を漂わせていた。

「……あ、三笠さん」

 声をかけると、三笠さんは跳ね起きるように顔を上げた。眼鏡の奥の目が一瞬丸くなり、それからほっと胸を撫で下ろすような笑顔に変わる。

「志摩さん! 来てくれたんだね。……よかった、本当に来てくれた」

「来ますよ、約束しましたし。……あの、これ」

 私は手に提げていたコンビニの袋を差し出した。中には、学食前の自販機で買ってきた温かい緑茶のペットボトルが二本入っている。

 三笠さんは「あ」と声を漏らし、なんだかとても申し訳なさそうな、けれど心底嬉しそうな顔をして袋を受け取った。

「あ、ありがとう。お代、出すって言ったのに僕が買っておくべきだったね」

「いいえ。昨日の『お代』です。あったかいのがいいって、私が言ったんですから」

「そうか……じゃあ、ありがたくご馳走になるよ」

 キャップをひねり、温かいお茶をごくりと飲み干した三笠さんが、ふうと白い息を吐く。

 部屋には暖房がない。夕方の冷気が少しずつ忍び込んできていたが、二人で温かいお茶を飲んでいるだけで、どこか特別な空間にいるような気がした。

「よし」と、三笠さんはお茶を床に置くと、再び座布団の上に正座し直した。「じゃあ、志摩さん。今日も『客席』へどうぞ」

 私は促されるまま、昨日と同じ教室の隅の椅子に腰を下ろした。

 たったひとりの客席。けれど今日は、昨日と違って自分からここへ座ったのだと思うと、なんだか背筋が伸びる思いがした。

「それじゃあ一席……と言いたいところなんだけど」

 三笠さんは扇子をトントンと膝で跳ねさせながら、少し困ったような苦笑いを浮かべた。

「実は今日も、やっぱり『時そば』をやらせてもらってもいいかな?」

「『時そば』ですか? もちろんいいですけど……」

「昨日、君が笑ってくれたおかげで『九つで』の前の間が少し掴めた気がしたんだ。でも、一人で復習してみると、どうしてもまたあの『間』で足が止まりそうになる。……僕の体が、まだあそこを怖がってるんだと思う」

 三笠さんは膝の上の扇子をぎゅっと握りしめた。

 人前に出ると頭が真っ白になる。誰も笑ってくれないんじゃないかという恐怖。

 その怯えは、私が「笑い声が大きい」と言われて口を押さえるようになったあの日の恐怖と、どこか似ている気がした。誰かに拒絶されるのが怖くて、自分の一番素直な感情を閉じ込めてしまう感覚。

「分かりました」私はしっかりと頷いた。「私、いくらでも聞きます。何回でも」

「ありがとう、志摩さん。……じゃあ、お聞きいただきましょう、『時そば』」

 三笠さんがパンと一音、扇子で膝を叩いた。

 その瞬間、彼の雰囲気ががらりと変わる。頼りなさげで気が小さそうな「三笠蓮」から、江戸の町を粋に歩く男の姿へと、すっと空気が切り替わったのだ。

「えー、お蕎麦屋さん。ひとつ、いただけますかな」

 すうっと耳に入ってくる声。ゆっくりで、間延びしていて、なのに不思議と芯があってよく通る声。

 昨日見たはずの動作なのに、また引き込まれてしまう。

 扇子が開かれ、すっと閉じられて割り箸になる。丼を持ち上げ、湯気をふうふうと吹き払い、ずずっと音を立てて蕎麦をすする。

(あ、本当に湯気や、出汁の匂いが見えるみたい……)

 三笠さんの演じる男は、実に美味しそうに蕎麦を食べるのだ。蕎麦の細さ、汁の温かさ、ネギの薬味の風味まで、そこには何もないはずなのに、彼の表情と仕草だけでその場にホカホカの屋台が立ち現れる。

「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ……ときに、いま何刻でい」

 来た、と思った。

 物語の佳境。男が屋台の主人を巧みに乗せ、勘定をごまかすあの瞬間。

 三笠さんの動きが止まる。

 扇子を握った手が、かすかに震えているのが見えた。

 彼の目が、チラリとこちらを見た。恐怖と、戸惑いと、縋るような光が交錯する瞳。

『客席を見ると、頭が真っ白になる』

 昨日彼が言っていた言葉が、頭をよぎる。

 彼は今、宙に浮いた「間」の中で、一人で戦っているのだ。誰も笑わないかもしれないという暗闇と。

 喉の奥が、ぎゅっと熱くなった。

 我慢しなくていいんだ。ここでは、声を小さくしなくていい。口を押さえなくていい。この人は、私の笑い声を待ってくれている。

「……ふふっ」

 我慢をやめた途端、喉の奥から解き放たれた笑い声が、静かな教室に響き渡った。

「あははは! 三笠さん、主人の顔! 主人がすっかり信じ切ってる顔になってます!」

 私が弾けたように笑うと、三笠さんの肩からふっと力が抜けた。

 震えていた手がピタリと止まり、その目にパッと光が宿る。

「へい、九つで」

 屋台の主人の声が、滑らかに彼の口から飛び出した。

「とお、じゅういち、じゅうに、じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろく! へい、ごちそうさま!」

「あははははっ! やった、騙せた!」

 私はお腹を抱えて笑った。

 すらすらと、見事なリズムで一文ごまかし切った男の抜け目なさと、それを完璧に演じ切った三笠さんの鮮やかさに、心の底からおかしくて、嬉しくて、笑いが止まらなかった。

 教室の壁に、私の笑い声が大きく反響する。昔なら「うるさい」と眉をひそめられたであろうその大きな声が、今は夕暮れの空っぽの部屋を満たしていく。

「……ふぅーっ!」

 噺を終えた三笠さんは、扇子を置くと、座布団の上で大きく肩を上下させて息を吐いた。

 額にはかすかに汗が浮かんでいる。そして、信じられないものを見るような顔で、私を見つめていた。

「言えた……」

「言えましたね! すごいです、すごくスムーズでした!」

「言えたよ……志摩さん、僕、止まらずに『九つで』を越えられた……!」

 三笠さんは座布団から膝立ちになり、勢いよく私の方へ身を乗り出した。眼鏡の奥の目をキラキラと輝かせている。

「君が笑ってくれた瞬間、すっと霧が晴れたみたいになったんだ。『ああ、主人は今、勘定を数えるのに夢中で、時間を聞かれて何も疑わずに九つって答えるんだ』って、情景がはっきり見えたんだよ!」

「本当ですか!? 私、ただおかしくて笑っちゃっただけなのに……」

「それがいいんだよ! 君の笑い声が、僕に『ここに客がいる』ってことを教えてくれる。暗闇の中で、灯りを点けてくれるみたいに」

 灯り。

 私の、大きくて嫌いだった笑い声が、この人にとっての灯りになっている。

 胸の奥がギュッと締め付けられるように熱くなった。顔が火照っていくのが自分でも分かる。夕焼けのせいにしたかったけれど、きっとそれだけじゃない。

「……あ」

 熱くなった顔を隠すように俯くと、床に置いたお茶のペットボトルに目がいった。

 冷えた空気に触れて、ペットボトルの表面には小さな水滴がつき始めている。

「三笠さん」

「ん? どうしたの、志摩さん」

「お茶、冷めちゃいますよ」

 私が言うと、三笠さんは一瞬ぽかんとして、それから「あはは」と声を上げて笑った。

 噺の中の男の粋な笑いではなく、少し頼りなくて、あたたかい、二十一歳の三笠蓮の笑い声。

「そうだね。せっかく志摩さんが買ってきてくれたのにね」

 三笠さんは座布団の上に座り直し、ペットボトルを持ち上げて一口飲んだ。

「……うん、まだ少し温かい」

「良かったです」

「明日も……来てくれる?」

 問いかける三笠さんの声は、少しだけ小さくて、どこか自信なさげだった。

 でも、その瞳はまっすぐに私を見つめている。

「はい。学園祭まで、毎日来ます」

 私は口元を押さえるのをやめて、思い切り笑顔を見せた。

「今度は、別の噺も聞かせてくださいね。三笠亭たまごさん」

「……うん! 任せてよ」

 照れくさそうに高座名を呼ばれて笑う彼を見て、私の胸の中にあった小さな蕾のような気持ちが、ほんの少しだけ膨らんだ気がした。

 外の夕暮れはすっかり深まり、旧棟の窓の外には一番星が輝き始めていた。

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