客席ひとつ、恋ひとつ
「では、もう一席」
三笠さんはそう言って、座布団の上に座り直した。
私は教室の隅で、膝の上に両手を置く。客席は私ひとり。高座との距離は、教室の幅を半分にしたくらいしかない。
「ええと……何をやろうかな」
「時そば、じゃないんですか?」
「いや、さっきのでちょっと自信がついたから、別の噺も試してみたくて」
そう言って、三笠さんは扇子を顎に当てた。
さっきので自信がついた。
たったそれだけのことが、なんだか私までうれしかった。
「じゃあ、『寿限無』とか?」
「君、僕を何だと思ってるの」
「落語家さん?」
「落語家じゃなくて、落研の部長」
「たまごさんですよね」
「それは高座名!」
思わず吹き出した。
三笠さんは一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように笑った。
「……やっぱり、君がいると調子が狂うなあ」
「えっ。す、すみません」
「いや、悪い意味じゃなくて」
彼は慌てて手を振った。
「今まで、誰かに聞いてもらうときは、失敗しないようにってことばかり考えてたんだ。でも君が笑うと、失敗したかどうかより、ちゃんと届いたかどうかが気になる」
私は返事に困った。
そんなふうに言われたことは、今までなかったから。
笑い声が大きい。うるさい。びっくりする。
誰かが笑っているとき、私はその人を見て、楽しそうだなと思う。けれど、自分が笑うときには、いつも誰かの顔色をうかがってしまう。
それなのに、この人は。
「……じゃあ、いっぱい笑ってもいいですか?」
「もちろん」
三笠さんは、今度こそ迷わず答えた。
「むしろ、笑ってくれないと困る」
「責任重大ですね」
「うん。僕の落研の存続がかかってるから」
「そんな重大な役目を、今日会ったばかりの人に任せていいんですか?」
「君だから頼んだんだよ」
さらりと言われて、私は言葉を失った。
この人はきっと、こういうことを何の気なしに言う人なのだろう。
そう思うことにした。
そう思わないと、顔が熱くて仕方がない。
「……それで、次は何をやるんですか?」
「そうだなあ。君は、どんな噺が好き?」
「えっ、私、そんなに詳しくなくて。祖父がよく聞いてたのを、隣で聞いてただけなので」
「それで時そばが分かったんだ」
「はい。おじいちゃん、同じ噺を何回も聞くんです。私が小さいころからずっと」
「いいねえ」
三笠さんは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「同じ噺でも、演じる人によって違うんだ。聞く人によっても、笑うところが違う。だから、何回やっても飽きないんだよ」
「……三笠さんも、そうなんですか?」
「僕?」
「同じ噺を、何回も聞くんですか?」
彼はしばらく考えてから、頷いた。
「うん。何回も聞くし、何回も演じる。だけど、同じようにはできないんだ」
扇子の先で、膝を軽く叩く。
「昨日は笑えなかったところで、今日は笑えるかもしれない。昨日は気づかなかったことに、今日は気づくかもしれない。そういうのが、好きなんだ」
私は、その言葉を頭の中で繰り返した。
同じことを何度も繰り返しても、同じにはならない。
それは、少しだけ救いのある考え方だと思った。
私の笑い声だって、昔と今では違うのだろうか。
中学二年のあの日から、私は笑い方を変えた。口を押さえ、声を小さくし、誰かに迷惑をかけないようにしてきた。
でも、変わったのは笑い方だけなのだろうか。
「……三笠さん」
「ん?」
「私、明日も来ていいですか?」
口に出してから、急に恥ずかしくなった。
頼まれたのは私のほうなのに。こちらから通いたいと言うのは、なんだか変だ。
けれど三笠さんは、ぱっと顔を明るくした。
「もちろん! 来てくれるの?」
「はい。だって、学園祭までですよね」
「そうだけど……」
「それまで、私が客席にいます」
言ってしまった。
自分で言っておいて、胸の奥がむずむずする。
まるで、何か約束をしたみたいだった。
三笠さんは、膝の上の扇子を握り直した。
「ありがとう、志摩さん」
その声が、思ったよりも優しかった。
帰り道、私は何度も自分の口元に触れた。
今日、私はたくさん笑った。
それなのに、いつものように反省する気持ちが湧いてこなかった。
むしろ、もう一度笑いたいと思っている。
明日も。
明後日も。
あの人が、座布団の上で扇子を持って、私のほうを見てくれるなら。
……いや、違う。
落語が面白いからだ。
私はそう自分に言い聞かせて、夕暮れの道を歩いた。
旧棟の窓には、もう灯りがついていなかった。




