ふたつの席と、吐き出す息
三笠さんが膝の上でパンと一音、扇子を鳴らした。
「えー、お蕎麦屋さん。ひとつ、いただけますかな」
すうっと教室の空気が張り詰める。
私の隣には玲奈が座っている。背筋を伸ばし、真剣な眼差しで高座を見つめている玲奈の横顔が、視界の端に入った。
一瞬、あの日の冷たい恐怖が背筋をよぎる。
『笑うとびっくりするよね』
過去の記憶。他人の目。また声を飲み込みそうになり、右手が勝手に上がって口元を覆おうとした。
(――ううん、ちがう)
私はテーブルの下で両手を固く握りしめ、膝の上でそっと開いた。手を口元へ持っていくのを、必死で踏みとどまる。
おじいちゃんの言葉が、頭の中で鮮やかに響いていた。
『間は、噺家だけのものじゃない。客も一緒に、息を止めてるんだ。そうして止めた息は、いつか吐かなきゃ苦しい。あふれるのが、笑いだ』
見れば、三笠さんはもの凄い集中力で蕎麦をすする仕草をしていた。
お箸に見立てた扇子。熱々の汁を吹き払う唇。
彼が今、この空っぽの教室で作り出している「江戸の夜」に、私と玲奈の二人が引き込まれていく。
隣の玲奈もまた、息をのむようにして三笠さんの一挙手一投足を見つめていた。
息を止めているのは、私だけじゃない。
三笠さんも、玲奈も、この部屋にいる全員が、同じ物語の中で息を詰めて「その時」を待っているんだ。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ……ときに、いま何刻でい」
来た。
三笠さんの動作が止まる。
すっと息が途切れる。たっぷりとした空白。
静寂のなかで、三笠さんの胸が大きく上下し、その目がまっ直ぐに私を見た。
助けを求める目じゃない。怖がっている目でもない。
「一緒に来てくれ」と、私を信じて待ってくれている瞳だった。
胸の奥に溜まった息が、限界まで膨らんでいく。
苦しくて、愛おしくて、溢れ出しそうで――。
私は、口を押さえなかった。
溜め込んだ息を、全身で一気に吐き出した。
「……ふっ、あははははははっ!」
喉の奥のふたが、完全に弾け飛んだ。
自分の大きな笑い声が、教室の天井を突き破らんばかりに響き渡る。
「九つで!」
私が笑い声と一緒に言葉を投げつけると、三笠さんの顔がパッと弾けた。
「へい、九つで!」
滑らかに、完璧なテンポで言葉が繋がる。
「とお、じゅういち、じゅうに、じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろく! へい、ごちそうさま!」
畳みかけるような粋な掛け合いに、つられるようにして隣の玲奈も「あはははっ!」と弾けた大きな声で笑い出した。
ふたつの笑い声が、夕暮れの空っぽの教室を満たしていく。
三笠さんは見事にサゲを言い切ると、座布団の上で深々と頭を下げた。
「……できた」
三笠さんが顔を上げた。その目は少し潤んでいて、信じられないというように玲奈と私を交互に見つめていた。
「二人……二人いても、止まらなかった……!」
「すごいです三笠さん! すっごく面白かった!」
玲奈がパチパチと勢いよく拍手を送る。
「ひよりが言ってた通りですね! 三笠さんの蕎麦、本当に湯気見えましたもん! 私、落語って初めてちゃんと聞いたけど、こんなに面白いんだ!」
「ありがとう、玲奈さん……! 志摩さん、僕……僕、言えたよ!」
三笠さんは座布団から立ち上がり、思わずといった様子で私の方へ歩み寄ってきた。
その顔は、私がこれまで見た中で一番晴れやかで、眩しいほどの笑顔だった。
「志摩さんが……志摩さんが一番に息を吐いてくれたから。あの間が、ちゃんと落っこちたんだ」
「三笠さん……」
私の顔が、急激に熱くなった。
自分の大きな笑い声を、この人はまた肯定してくれた。それどころか、「一番に息を吐いてくれた」と、宝物のように受け止めてくれたのだ。
隣で玲奈が、ニヤニヤしながら私たちを交互に見ているのに気づき、私は慌てて俯いた。けれど、もう口元を隠す手は上がらなかった。
「……これなら、いけますね。学園祭の本番も」
私が小さく呟くと、三笠さんは力強く頷いた。
「うん。二百席だって、もう怖くない。……ううん、やっぱりちょっと怖いけどさ。でも、客席のどこに誰がいても、志摩さんが一番前で聞いててくれるなら、僕は絶対に投げ出さない」
『一番前にいてくれるなら』
その言葉に、胸の奥がキュッと甘く痛んだ。
あの時ついた小さな嘘。
でも、今はもう嘘じゃない。本当にしたいと心から願った、私の約束だ。
「はい。一番前の真ん中で、待ってますから」
私はまっすぐに三笠さんを見つめて、微笑んだ。
外の銀杏並木を吹く冷たい秋風も、今の二人にはまったく感じられないほど、教室の中はあたたかな熱気に包まれていた。
学園祭本番まで、あと四日。
客席ひとつから始まった私たちの物語は、確実に次のステップへと進み始めていた。




