空いていた席
火曜も水曜も、玲奈は講義のあとに旧棟へ来てくれた。
客席がふたつの稽古は、もう当たり前になっていた。私が息を吐き、玲奈が笑い、三笠さんの『時そば』は一度も止まらなかった。「九つで」を越えるたびに、三笠さんは膝の上でこっそり拳を握る。私はそれを見るのが好きだった。
本番まで、あと三日。
水曜の夕方、私がひとりで階段をのぼっていくと、教室から知らない声がした。
「そこ、半拍早い。ずるいのは客をだます男であって、あんたじゃないんだから」
女の人の声だった。扉の隙間からのぞくと、座布団の前の椅子に、ショートカットの女性が脚を組んで座っていた。ベージュのトレンチコートに、黒い鞄。三笠さんは、いつもより少しだけ背中を丸めている。
「久世さん、来るなら言ってくださいよ」
「言ったら逃げるでしょ、あんた」
私に気づいた三笠さんが、ほっとした顔で手招きした。
「志摩さん、紹介するね。久世さん。去年卒業した、落研の先輩」
「三笠亭ざる、です」と、久世さんは言った。「蕎麦が好きなの。ちなみにこの子の『たまご』は私がつけた。入ってきたとき、殻から出てくる気配がぜんぜんなかったから」
「ひどいですよね」
「事実でしょ」
思わず吹き出すと、久世さんは私を見て、口の端をにっと上げた。
「あなたが、噂の志摩さん」
「噂、ですか?」
「この一週間、連絡のたびに『志摩さんが』『志摩さんが』。誰かと思った」
「久世さん!」
三笠さんの耳が、夕焼けみたいに赤くなった。
久世さんの前で、三笠さんは『時そば』を一席やった。私は椅子に座り、「いま何刻でい」の先で、いつもどおり息を吐いた。「へい、九つで」。噺はすべるように最後まで流れて、サゲのあと、久世さんは扇子でも持っているみたいに、ぱん、と膝を打った。
「いい。去年とは別人」
「ほんとですか」
「半拍早いのは直しなさい」
褒められたのか、叱られたのか分からない顔で、三笠さんは頭を下げた。それから「お茶、買ってきます」と言って、小銭を握って教室を出ていった。足音が階段の下へ遠ざかる。
教室に、久世さんと私が残った。
「去年の演芸会ね」
久世さんは、鞄のストラップを指でいじりながら言った。
「あの子、『時そば』で止まったの。聞いてる?」
「はい。少しだけ」
「私、前から二列目に座るって約束してたのよ。でも内定先の最終面接が、同じ日の午後でね。間に合うはずだったのに、電車が遅れて」
窓の外で、烏が鳴いた。
「体育館の扉をあけたとき、ちょうどあの子が高座に上がるところだった。そこから、見えたの。一番前の真ん中。空っぽの席」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「あの子ね、最初から最後まで、そこを見てたの。止まったのは、客が笑わなかったからじゃない。来るはずの人が、来なかったから」
久世さんは、小さく笑った。
「あの子は何も言わない子だから、私も何も言えなくて、そのまま卒業しちゃった」
私は、膝の上で両手を握った。
『客席のどこかに、志摩さんがいてくれれば』
『一番前の真ん中で、待ってますから』
どちらも私が言った言葉だ。最初は、嘘として。
いまは、それがどれだけ重いものか、やっと分かった。
「……私、座ります」
声が震えた。
「一番前の真ん中に、座ります。ちゃんと、笑います」
久世さんは、私の顔をじっと見た。それから、ふっと目を細めた。
「約束はね、言ったほうより、聞いたほうに重く残るの。あなたは、軽い気持ちじゃないと思うけど」
「はい」
「うん。なら、いい」
階段を上がってくる足音がした。久世さんは、立ち上がって鞄を肩にかけた。
「お茶はいらない、って言っておいて。あの子、きっと私のぶんも買ってるから」
「え、はい」
「本番、行くから。後ろの隅でね」
扉の前で、久世さんは振り返った。
「前の席は、もう埋まってるでしょ」
扉が閉まる直前、三笠さんとすれ違う気配がして、「たまご、そろそろ殻を割りな」という声が聞こえた。
教室に入ってきた三笠さんは、手にあたたかいお茶を三本持っていた。
「あれ、久世さんは?」
「帰りました。お茶は、いらないって」
「やっぱり。毎回、そうなんだ」
三笠さんは苦笑して、一本を私に差し出した。受け取ったペットボトルは、やけどしそうなほど熱かった。
「志摩さん」
「はい」
「去年のこと、聞いた?」
私はうなずいた。三笠さんは、座布団の上に腰をおろして、しばらくペットボトルを見つめていた。
「情けないよね。ひとつ席が空いてたくらいで、噺が止まるなんて」
「情けなくないです」
思ったより強い声が出た。
「その席に、誰かがいてほしかったんでしょう。それは、情けないことじゃないです」
三笠さんは顔を上げた。眼鏡の奥の目が、少しだけ揺れた。
「……志摩さんは、いつも、僕が言えないことを言ってくれるね」
「落語で、笑わせてもらってますから」
「それは、お互いさまだよ」
静かな時間が流れた。窓の向こうで、夕焼けが夜に変わっていく。
私は、手の中のお茶を握りしめて、口を開いた。
「……蓮さん」
三笠さんの動きが、止まった。
ペットボトルを持ったまま、座布団の上で、息も瞬きも止めている。『時そば』の、あの間みたいだった。
「い、今」
「えっと」
「今、なんて」
「……お茶、冷めますよ、蓮さん」
三笠さんの顔が、ゆっくりと、耳の先まで赤くなった。
「そ、そうだね。冷めちゃうね」
「はい」
「あの、もう一回、だめかな」
「一席につき、一回までです」
「そんな、寄席みたいなルール」
「落語、好きなので」
三笠さんは、はじめて見るくらい情けない顔で笑った。私も笑った。声を押さえなかった。
本番まで、あと三日。
一番前の真ん中の席は、まだ空いている。




