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殻の向こうの、ひとり

「……蓮さん」


 昨日、自分で呼んだ名前を、私は頭の中でもう一度繰り返していた。


 口に出した瞬間の、あの人の顔。


 眼鏡の奥の目を丸くして、耳まで赤くして。それから、もう一度呼んでほしいと頼んできた。


 思い出すだけで、頬が熱くなる。


 ……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。


 学園祭まで、あと二日。


 私は講義が終わるなり、旧棟へ向かった。


 扉を開けると、蓮は座布団の上で扇子を構えていた。


「お、志摩さん。こんにちは」


「こんにちは。……あの、今日は何を?」


「『時そば』をやろうと思って」


 いつもの返事だった。


 けれど、蓮はすぐに噺を始めなかった。扇子を膝に置き、少し迷うように視線を落とした。


「……志摩さん。ひとつ、お願いがあるんだけど」


「はい?」


「今日は、笑わなくてもいいから、最後まで聞いてくれる?」


 私は目を瞬いた。


「え……?」


「いや、いつも笑ってもらえるのは、すごくうれしいんだよ。でも、本番までに、一度くらい試しておきたくて」


 蓮は眼鏡の位置を直した。


「誰も笑ってくれなくても、最後までやれるかどうか」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 この人も、怖いのだ。


 あんなに楽しそうに噺をしていても、あの「九つで」の先に何が待っているのか、まだ怖いのだ。


「……分かりました」


 私は椅子に座り直した。


「最後まで聞きます」


「ありがとう」


 蓮は一度、深く息を吸った。


「それでは一席」


     *


 蕎麦屋の屋台が、教室の中に現れる。


 蓮の指が扇子を箸に見立て、見えない丼を持ち上げる。熱い蕎麦をすする音まで聞こえてきそうだった。


 私は、いつもの場面を待った。


 ひい、ふう、みい、よう。


 いつ、むう、なな、やあ。


「ときに、いま何刻でい」


 静寂。


 いつもなら、ここで私は息を吐く。


 けれど、今日は何もしない。


 口元が緩みそうになるのを、無理に押さえつける必要もなかった。ただ、蓮の動きを見つめていた。


 蓮は一瞬、私の方を見た。


 ほんのわずかに、指が止まる。


 それでも。


「へい、九つで」


 声が、続いた。


 蓮はそのまま、蕎麦屋の主人をだまし、勘定を済ませ、最後の一言まで演じ切った。


「……ありがとうございました」


 頭を下げた蓮は、しばらく顔を上げなかった。


 私は思わず立ち上がった。


「三笠さん!」


「……できた」


 顔を上げた蓮は、困ったように笑っていた。


「できたよ、志摩さん。笑ってもらえなくても、最後まで言えた」


「はい。……はい!」


 うれしかった。


 私が笑ったからではない。


 私が笑わなかったのに、蓮が最後まで演じ切ったからだ。


 そのことが、たまらなくうれしかった。


「すごいです、三笠さん」


「いや、まだ一人の前だからね。本番はもっと大変だと思う」


 蓮は扇子を閉じ、膝の上でそっと握った。


「でも、これで少し分かった気がする。笑ってもらえるのは、もちろんうれしい。でも、笑いが起きなかったら終わり、ってわけじゃないんだね」


「……はい」


「噺は、最後までやって初めて一席なんだ」


 その言葉を、私は心の中で繰り返した。


 私も、そうなのかもしれない。


 笑えたら、それで終わりじゃない。


 笑えない日があっても、誰かと一緒にいられる。声が出なくても、自分の気持ちまで消えたわけじゃない。


 蓮が教えてくれたことを、今度は私が覚えておかなければ。


「……ところで、志摩さん」


「はい?」


「さっき、三笠さんって呼んでくれたね」


 私は固まった。


「えっ。あ、はい。いつもそう呼んでますけど……」


「うん。そうだね」


 蓮は少しだけ首を傾げた。


「昨日は、蓮さんだったから」


 ……忘れてほしかった。


 いや、忘れないでほしいと思った気もする。


 どっちなのか、自分でも分からない。


「そ、それは……!」


「うん?」


「……一席につき、一回までです」


 私は顔を背けた。


 蓮は一瞬ぽかんとして、それから声を立てて笑った。


「そっか。じゃあ、次の一席を楽しみにしてるね」


 ずるい。


 本当に、ずるい人だ。


 私は口元を隠しかけて、やめた。


 代わりに、小さく笑った。


     *


 帰り際、蓮は扉のところまで見送ってくれた。


「志摩さん」


「はい」


「本番、怖い?」


 不意に聞かれて、私は少し考えた。


「……怖いです」


「そっか」


「でも、行きます。一番前の真ん中に」


 蓮は目を細めた。


「うん。僕も行くよ。高座に」


 当たり前のことなのに、胸がいっぱいになった。


 私が客席に座ることも、蓮が高座に上がることも、もう誰かに頼まれたからするのではない。


 二人とも、自分で決めたことだ。


「……蓮さん」


 今度は、ちゃんと目を見て呼んだ。


 蓮の頬が、また赤くなる。


「はい」


「本番、楽しみにしています」


「……うん。任せて」


 少し頼りない返事だった。


 けれど、その手には、もう扇子を握る力が戻っていた。


 階段を下りながら、私は思った。


 あの人が最後まで噺を続けられるなら。


 私も、最後まで客席にいよう。


 笑えるかどうかは、まだ分からない。


 それでも、約束した場所から逃げない。


 学園祭まで、あと二日。


 旧棟の三階から、誰もいない客席に向けた声が、夕暮れの廊下へ静かに響いていた。

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