高座の向こう、灯る場所
学園祭前日。金曜日のキャンパスは、お祭り前夜の独特な熱気と浮き足立った空気に包まれていた。
校庭には出店のテントが立ち並び、吹奏楽部の練習する音がどこか遠くから聞こえてくる。
私は講義が終わると、いつものように旧棟の階段を上った。
三階の突き当たり。明日取り壊しの決まっているこのサークル棟で稽古をするのも、今日が最後だ。
扉を押し開けると、そこにはいつもと違う光景があった。
机と椅子が端へ追いやられたガラんとした部屋の真ん中に、小さな赤い毛氈が敷かれ、その上に座布団がひとつ。
そして、その傍らには組み立て式の小さな見台と膝隠しが置かれていた。
「……三笠さん? あ、蓮さん」
呼び直すと、正座していた蓮さんがクルリと振り向いた。
黒いカーディガンの袖をまくり、額に汗を浮かべた彼は、少し照れくさそうに笑った。
「あ、志摩さん。これね、演芸会の実行委員会から今日借りてきたんだ。本番と同じ高座のセット。やっぱり、一回は本物と同じ高さで稽古しておきたくて」
「高座……」
赤い毛氈の上にある座布団は、床に直に敷かれていた昨日までとは違い、わずかに視線が高い。
そこに座る蓮さんの姿は、いつもよりずっと凛としていて、本当の落語家さんのように見えた。
「志摩さん、客席へどうぞ」
蓮さんに促され、私はいつもと同じように、部屋の隅に置かれた一脚の椅子に座った。
明日は第一体育館。二百席のパイプ椅子が並び、前枠のダンス部を観に来たたくさんの生徒たちでごった返すはずだ。
ざわめく大歓声と、そこから一転して生まれる静けさ。
その真ん中で、蓮さんはこの赤い毛氈の上に一人で立ち、高座に上がる。
「蓮さん」
「ん?」
「怖くないですか? 明日」
問いかけると、蓮さんは扇子を持った手を膝の上に置き、ふっと息を吐いた。
「……正直、逃げ出したいよ。今でも心臓がバクバク言ってるし、明日、体育館の扉を開けるのが怖い。失敗したらどうしようって、頭の中で何度も嫌なイメージが湧いてくる」
蓮さんは自分の手のひらをじっと見つめた。
「でもね、志摩さん。不思議なんだ。怖いんだけど……それ以上に、楽しみなんだよ」
「楽しみ、ですか?」
「うん。去年の僕は、誰もいない恐怖から逃げることばかり考えてた。でも今は違う。僕の噺を聞いてくれる志摩さんがいて、玲奈さんがいて、久世先輩がいて……。明日、あの二百席のどこかに、僕の噺を待っててくれる人がいるんだって思えるから」
蓮さんは眼鏡の奥の瞳を、まっすぐに私に向けた。その眼差しには、もうあの日見た迷いや怯えはなかった。卵の殻を自分の力で破り破りかけた、一人の表現者の顔だった。
「だから僕、明日は全力で『時そば』をやる。志摩さんからもらったこの声と、間を、体育館の一番後ろまで届くように演じるよ」
「……はい!」
胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、私は力強く頷いた。
笑い声が大きいと蔑まれ、自分を偽って飲み込んできた私の声。それが、この人の背中を押す力になれている。
それだけで、私が生きてきた二十年間のすべてが報われたような気がした。
「じゃあ……最後の稽古、いこうか」
「はい。一席、お願いします」
蓮さんは深々と頭を下げ、それからすっと顔を上げた。
ポンと膝を叩く扇子の音が、静かな教室に清涼に響く。
「えー、お蕎麦屋さん。ひとつ、いただけますかな」
始まった。
もう何十回と聞いたはずの『時そば』。
けれど、今日の蓮さんの演じる男は、どこか今までと違っていた。
声に一層の張りがあり、扇子を使った仕草一つひとつに、江戸の粋とユーモアが溢れている。
男が勘定をごまかす佳境。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ……ときに、いま何刻でい」
「間」が訪れる。
たっぷりとした、静謐な沈黙。
私は、口を押さえなかった。逃げなかった。
胸いっぱいに溜め込んだ息を、言葉と一緒に解き放つ。
「九つで!」
「へい、九つで!」
蓮さんの声が跳ねる。
「とお、じゅういち、じゅうに、じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろく! へい、ごちそうさま!」
教室いっぱいに、私の笑い声と蓮さんの掛け合いが弾けた。
その瞬間、二人だけの教室が、まるで何百人もの観客で満たされた大寄席に化けたかのような錯覚を覚えた。
素晴らしい「間」と「落ち」。
サゲを言い終えた蓮さんは、満足そうにフッと息を吐き、扇子を置いて頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「パチパチパチ!」
私は立ち上がって、思い切り拍手を送った。
一人の客席からの、溢れんばかりの拍手。
蓮さんは照れくさそうに頭をかきながら、高座の上から私を見下ろして笑った。
「志摩さん」
「はい」
「明日……一番前の真ん中で、待ってるからね」
「はい! 私、絶対に一番前で、誰よりも大きな声で笑います!」
二人で顔を見合わせて笑い合った。
旧棟の窓の外では、最後の夕暮れの光が二人と赤い毛氈を橙色に染め上げていた。
明日、いよいよ運命の本番が始まる。




