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長めのまくら

第一体育館の扉は、思っていたよりずっと重かった。

土曜日の午後一時半。ステージの前に、二百脚のパイプ椅子が並んでいる。まだ半分も埋まっていないのに、話し声が天井に跳ね返って、耳の奥がじんと鳴った。

「ひより、顔が白い」

隣で玲奈が言った。

「紙みたい。蓮さんには会ったの?」

「……まだ」

「行ってきな。席は私が取っておく。一番前の真ん中、ふたつ並びでね」

玲奈は指を二本立てて、私の背中を押した。

ステージ袖の控室は、パーテーションで囲っただけの狭い場所だった。藍色の着物を着た蓮さんが、パイプ椅子に座って扇子を握っている。去年、久世さんが置いていったものだという。

「志摩さん」

知らない人みたいだった。襟元のせいで、背筋がいつもより高く見える。それなのに、扇子を握る指だけは、あの教室の座布団の上と同じ形をしていた。

「蓮さん。言わなきゃいけないことがあります」

「うん」

「一週間前、私、嘘をつきました。一番前の真ん中で、大きな声で笑うって」

声が震えた。

「本当は、自信がなかったんです。二人の前でさえ口をふさいだのに、体育館なんて、できるはずないって。それでも、蓮さんが安心するなら、って」

蓮さんは黙って聞いていた。扇子の房が、かすかに揺れている。

「……知ってた」

「え」

「手。スカートの生地を、ぎゅっと握ってたでしょう。顔は笑ってたのに」

頭が真っ白になった。あの日、見られていたのか。

「じゃあ、どうして」

「うれしかったから。嘘でも、僕のために言ってくれたことが」

蓮さんは、扇子を膝に置いた。

「落語の嘘つきはね、たいてい最後に痛い目を見るんだ。でも志摩さんは、嘘のままにしなかった。玲奈さんに頼んで、おじいさんのテープで稽古して、本当にしようとしてくれた。そういう嘘なら、僕は騙されたままでよかったと思う」

喉の奥が、ぎゅっと熱くなった。

「……泣かせないでください、本番前に」

「ごめん。でも僕も泣きそうだから、おあいこ」

パーテーションの向こうから、柏木さんの声がした。

「三笠先輩、ダンス部、あと五分で終わります! スタンバイお願いします!」

蓮さんは深く息を吸って、立ち上がった。

「じゃあ、客席で」

「はい。一番前の真ん中で」

     *

席に戻ると、体育館は満員になっていた。

ダンス部のステージは、腹の底に響くビートと、悲鳴みたいな歓声でできていた。立ち上がって手を振る人たちの背中。私と玲奈の後ろには、数えきれない人がいる。

背中が、ちくちくした。

『笑うとびっくりするよね』

あの昼休みが、また追いついてくる。

(……ちがう)

私は膝の上に両手を置いて、そっと開いた。

最後のポーズに大歓声が上がり、幕が下りた。柏木さんの言ったとおり、観客の半分が一斉に立ち上がって、ぞろぞろと出口へ向かいはじめる。ざわめき、足音、椅子のきしむ音。

「続きまして、落語研究会、三笠亭たまご」

アナウンスは、ざわめきの中にほとんど溶けた。

幕が上がる。赤い毛氈の上に、座布団と見台。そこへ、藍色の着物の蓮さんが、ゆっくり歩いてきた。

深く一礼して、顔を上げる。

客席を見渡す目が、一瞬、止まった。

私を見つけた目だった。

蓮さんは、小さく息を吸った。

「えー、毎度ばかばかしいお笑いを!」

声が、体育館を突き抜けた。大きくて、まっすぐな声だった。出口へ向かっていた何人かが、思わず振り返った。

「お運びいただきまして、ありがとうございます。落語には『まくら』というものがございまして、本題に入る前の、お客様の心をほぐす小話でございます」

蓮さんは、にこりと笑った。

「あたしは本題が怖いので、今日は、まくらを、長めにやらせていただきます」

客席に、くすっと笑いが走った。

出口の手前で、足を止める人たちがいた。空いた椅子に、すとんと座る人もいた。

「去年のことでございますが、この体育館で、あたしは噺を止めてしまいまして」

笑いが、ふっと引いた。

「お客様が笑わなかったからではございません。前の席に待っていてくださる方がいないと、あたしが勝手に思い込んでしまったのでございます」

蓮さんの目が、前列の真ん中に降りてきた。

「今年は、いらっしゃいます。ですから、もしあたしが止まりましても、どうか息を止めて、お待ちください。間も、噺のうちでございますから」

拍手がぱらぱらと起きて、やがて波になった。

戻ってきた人たちも合わせて、体育館はいつのまにか埋まっていた。後ろの隅で、トレンチコートの人影が腕を組んでいる。久世さんだ。

「では、一席。『時そば』でございます」

扇子が鳴った。

     *

蕎麦をすする音が、体育館に広がった。

湯気が見える。教室の隅の椅子で何十回も見た湯気が、今日は高い天井まで立ちのぼっていく。隣で玲奈が、息をのんだ。

「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ……ときに、いま何刻でい」

来た。

蓮さんが、止まった。

静寂。

体育館じゅうが、ひと呼吸ぶん、しんと静まり返った。二百人が、一斉に息を止めた音がした。

祖父のテープと同じだった。咳ひとつ、椅子のきしみひとつ聞こえない。高座の上の人も、客席の私たちも、同じ間の中で、同じ息を溜めている。

一秒。二秒。

蓮さんが、わざと間を引き延ばしているのが分かった。眼鏡の奥の目が、私を見て、ほんの少しだけ、いたずらっぽく笑う。

三秒。

胸の奥で膨らんだ息が、もう限界だった。

私は、口を押さえなかった。

「あっはっはっは!」

笑い声が、体育館の天井まで突き抜けた。

その声に押されるように、背後で、どっと爆発が起きた。

二百人の笑い声。椅子が鳴り、拍手が混じる。玲奈が私の肩を叩きながら笑っている。後ろの隅では、久世さんが膝を叩いている。

「へい、九つで」

笑いの波の上に、蓮さんの声が乗った。

最後のサゲまで、蓮さんは一度も止まらなかった。

深く頭を下げたとき、拍手は、まだ鳴りやんでいなかった。顔を上げた蓮さんは、まっすぐ私を見て、声を出さずに口を動かした。

ありがとう。

そう言ったのが、分かった。

幕が下りたあと、柏木さんが人波をかきわけて、私の前に来た。

「志摩さん。三笠先輩から」

折りたたんだ紙だった。

『旧棟、三階。最後に、もう一席だけ。 三笠』

私は、紙を握りしめた。笑いすぎたせいなのか、そうでないのか、頬が濡れていた。

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