最後の一席、君の声
学園祭の喧騒が遠ざかっても、耳の奥には、まだ拍手が残っていた。
蓮さんの『時そば』。二百人の笑い声。高座の上から向けられた、あの目。
ありがとう。
声にはならなかった言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
私は、折りたたまれた紙を握り直した。
『旧棟、三階。最後に、もう一席だけ。 三笠』
最後に、もう一席。
その言葉を見た途端、胸の奥が少しだけ痛んだ。
旧棟は、明日には取り壊される。
ここで蓮さんの噺を聞くことも、いつもの椅子に座ることも、もうできなくなる。
階段を上る足が、自然と速くなった。
錆びた手すり。薄暗い踊り場。三階の突き当たり。
何度も通った道なのに、今日だけは、一段ごとに終わりへ近づいている気がした。
扉を開ける。
「……遅かったね、志摩さん」
部屋の真ん中に、蓮さんがいた。
藍色の着物はもう着ていない。いつものカーディガンに、いつもの眼鏡。床には座布団がひとつ置かれていて、その向かいには、私が使っていた椅子があった。
「すみません。ちょっと、余韻に浸ってました」
「そっか。僕もまだ、夢みたいだよ」
蓮さんは照れくさそうに笑った。
「二百人だよ、二百人。途中で止まらなかったんだ。最後まで、ちゃんと」
「はい。知ってます。私、ずっと見てましたから」
「うん。……見つけたよ」
蓮さんが私を見る。
「一番前の真ん中。約束どおり、いてくれた」
「……約束、しましたから」
そう答えたら、蓮さんは小さく首を振った。
「約束だから、だけじゃないでしょう?」
言葉に詰まった。
ずるい。
そんなふうに聞かれたら、私だって、ちゃんと答えたくなってしまう。
「……そうですね」
私は椅子に座らず、蓮さんの前に立った。
「約束したから、行きました。でも……蓮さんの噺が聞きたかったから、最後まで見ていたかったから、あそこにいたかったんです」
蓮さんは、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと頬を緩めた。
「ありがとう」
「……今日、何回目ですか、それ」
「え?」
「蓮さんの『ありがとう』。今日だけで、もう三回くらい聞いた気がします」
「じゃあ、あと一回くらい言ってもいい?」
「だめです。ありがたみが薄れます」
そう言うと、蓮さんは声を立てて笑った。
私も笑った。
いつもの教室で、いつものように。
けれど、もうすぐ、この場所はなくなる。
笑い終えた私は、部屋を見回した。
「……本当に、最後なんですね」
「うん」
「明日には、ここもなくなっちゃう」
「そうだね」
「だったら、最後の一席って……何をやるんですか?」
蓮さんは、床に置かれた座布団へ目を落とした。
「『時そば』でもいいかなって思ったんだけど」
「またですか?」
「だって、僕にとっては始まりの噺だから」
蓮さんは座布団に座り、膝の上で扇子を転がした。
「でも今日は、やめておこうかな」
「どうして?」
「今日は、志摩さんに笑ってもらうためだけに、噺をしたいわけじゃないから」
胸が、どくんと鳴った。
蓮さんは扇子を置き、私を見上げた。
「僕が、もう一度ここで噺をしたいんだ。志摩さんに、聞いてほしいんだよ」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
初めてこの部屋に来た日、蓮さんは言った。
君の笑い声がいる、と。
あの日の私は、自分の声を嫌っていた。誰かに必要とされることが、こんなにうれしいなんて知らなかった。
でも今は、少し違う。
蓮さんの役に立つから、ここにいたいんじゃない。
蓮さんが笑ってくれるから、それだけでもない。
私は、蓮さんの噺が好きだ。
噺をしている蓮さんが好きだ。
怖くても高座に上がるところも、失敗を恐れて何度もやり直すところも、私が笑えないときに、笑えなくてもいいと言ってくれたところも。
そして何より。
こうして、私の目を見て話してくれる蓮さんが。
「……はい」
返事をしたら、声が少しだけ震えた。
「一席、お願いします」
蓮さんは、いつものように深く頭を下げた。
「では、一席」
扇子が、ぽん、と膝を打つ。
噺が始まった。
それは、いつも聞いていた『時そば』だった。
男の調子のいい声。蕎麦をすする仕草。勘定をごまかそうとする、あの間の抜けたやり取り。
何十回も聞いたはずなのに、今日はひとつひとつの言葉が、いつもより近くに聞こえた。
そして、あの場面。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ……ときに、いま何刻でい」
蓮さんが止まる。
私は、息を吸った。
でも、すぐには笑わなかった。
蓮さんも、急かさなかった。
ほんの一瞬、二人の間に静けさが降りる。
私はその静けさを、もう怖いとは思わなかった。
蓮さんの目が、少しだけ細くなる。
私は、思いきり息を吐いた。
「あはははっ!」
「へい、九つで!」
蓮さんの声が弾む。
私の笑い声に重なって、噺が進んでいく。
最後のサゲを言い終えると、蓮さんは深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました」
私は拍手をした。
たった一人の客席から、精いっぱいの拍手を。
蓮さんが顔を上げる。
「どうだった?」
「最高でした」
「そっか」
「はい。……でも」
「でも?」
私は、少しだけ笑った。
「明日からも、聞きたいです」
蓮さんの表情が止まった。
「……え?」
「蓮さんの噺。『時そば』も、ほかの噺も。今日みたいに、何度でも」
言いながら、顔が熱くなる。
何を言っているんだろう、私は。
明日から、ここはなくなるのに。
もう、いつものようには会えないかもしれないのに。
それでも、言わずにはいられなかった。
「この部屋がなくなっても……私、蓮さんの噺を聞きたいです」
蓮さんは扇子を握り直した。
それから、困ったように笑った。
「……それ、すごくうれしいな」
「本当ですか?」
「うん。でも、ひとつだけ、お願いしてもいい?」
「何ですか?」
「次に会うときは、落語を聞きに来たって理由がなくても、来てくれる?」
心臓が、跳ねた。
蓮さんは、冗談を言っているようには見えなかった。
私が答えるのを、静かに待っていた。
だから、私もちゃんと答えたかった。
「……考えておきます」
「ええっ、そこは即答してよ」
「だって、センパイのお願いって、たまにずるいんですもん」
いつもの呼び方が、口からこぼれた。
蓮さんは一瞬驚いて、それから、うれしそうに笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥がくすぐったくなった。
私は、もう一度、部屋を見回した。
ここで初めて笑った。
ここで、何度も笑った。
ここで、自分の声を好きになれた。
そして、ここで。
私は、蓮さんのことを、もっと知りたいと思うようになった。
「……蓮さん」
「ん?」
「また、会いましょうね」
蓮さんは、少しだけ目を見開いた。
それから、いつもの仏頂面とは違う、やわらかな顔で頷いた。
「うん。絶対に」
窓の外では、夕暮れが最後の光を落としていた。
明日、この部屋はなくなる。
けれど、なくなるのは、この場所だけだ。
私は、扉へ向かう前に、もう一度だけ振り返った。
座布団の上にいる蓮さんと、目が合う。
何かを言いたくて、でも、まだ言葉にならなくて。
私は笑った。
蓮さんも笑った。
最後の一席は、これでおしまい。
でも、私たちの話は。
まだ、終わらない。




