共鳴
「あれ……動かない。」
母が買い物に出掛けて数時間後、ニバリスは家でコピー機を使おうとしたら止まってしまった。
インク切れかと思い中を覗いてみたがインクはまだある。
「困ったな……この資料、明日中に先方に送らなきゃいけないのに。」
今時なのだからメールで済ませてくれよ、とニバリスは思う。
外はまだ明るく、昼にもなっていないが人通りはない。
皆、報道を受けて家で大人しくしてるのだろう。
コンビニならコピー機はあるだろうか?
「この自粛中に出たくないが……結局送るときにポストに行かなきゃだし。」
ニバリスは諦めると、荷物を持って玄関へ向かう。
空気の変化を察知した双子が、しがみついてきた。
よくもここまで懐かれたものだなとニバリスは苦笑した。
「行ったらダメぇ!」
「大丈夫、すぐ戻ってくるし何もないよ。」
ニバリスはネイドの頭を撫でるとドアを開けて外へと出た。
夏の日差しが眩しい。
いつもは交通量の多い向かいの道路も車が少なかった。
「……帰りにアイスでも買ってくか。」
ウルツカとネイドの喜ぶ顔を思い浮かべる。
コンビニは結論から言うとやっていた。
着くなりすぐさまコピー機を使って、その場で封筒にまとめて郵便に入れる。
アイスと少しのおやつを買ってコンビニを出た。
帰る途中、炎天下で歪んだ道路の先に今朝の猫がいる。
猫が路地裏に入っていった。
ニバリスは無視しようと思ったがこの暑さだ。
アレクロミシアが出てる外に放置するのもと思い、後を追いかけた。
猫は路地裏で待っていた。
こちらに気づくとにゃーんと鳴いてすり寄ってくる。
これは家猫かもなと思った。
ニバリスが屈んで猫を抱き抱えたとき、背後に気配を感じる。
知らない男が立っていた。
思わず肩を跳ねて、後ろへ飛ぶ。
猫がシャアと言ったような気がした。
逃げようと暴れ出す。
「あ、こら。」
猫を大人しくさせる間に、男は近づいてきていた。
不審に思ったニバリスが一歩後ずさると、男もまた近づく。
「ぁ……。」
男が何か喋った。
ニバリスの耳が動く。
目前まで男は迫ってきた。
もう呼吸音も感じ取れるはずなのに、一向にその音がしない。
ニバリスの背に嫌な汗が流れる。
男の目は焦点が合わない。
こちらを見ているのに遠くを眺めている。
吸い込まれるほど、黒い。
ぬるん、と男の顔が溶けた。
いや、消えたというべきか。
男の顔があった部分に穴が空いて、体が黒い粘体へと変化していく。
猫はもう暴れなかった。
代わりにブルブルと震えてニバリスにしがみつくばかりだ。
「#*^+=♪」
――歌が聞こえた。
甘やかなか細い声。
脳が震えるような溶ける歌。
猫の震えが止まる。
体がニバリスから離れて、そちらへ向かおうとしていた。
ニバリスの喉がゴクリとなる。
絶対絶滅のピンチの時に、喉の奥に何かがつかえる。
それは迫り上がってきて、絞るように捻り出された。
「――」
声にもならない悲鳴だった。
悲鳴と言っていいのかもわからない。
ただ、甲高い声が溢れる。
それは一定の音の高さを保って、歌のように流れた。
男の奇怪な歌声と混じり合って、不思議な音色を奏でる。
ニバリスは口を閉じれない。
身動きも取れなく、いや取ろうとすら思わなかった。
段々と声を出すのが気持ちよくなってくる。
不思議と目の前の何かも、穏やかであることが伝わってきた。
男が動こうとしたそのとき。
「ニバリス!」
背後から声が掛かった。
腕を引かれると同時に、男のようなものが殴り飛ばされる。
振り向くと、テスがいた。
「ニバリス、大丈夫ですか?」
ニバリスは我に返る。
「母さん!」
「走りますよ。」
二人は家まで一直線に走った。
幸い、アレは追って来なかったが、ニバリスは夢でも見たかのように熱に浮かされていた。
玄関について、置物のようになった猫を下ろす。
「アレクロミシアに遭うとは、いやはや運がいいのか悪いのか。」
テスはそう言いながら、ハンカチを取り出すと汗を拭った。
「体に異変は?気分は?」
「なんとも……。」
嘘だった。
ぐるぐると世界が回るような感覚だ。
溶けたアイスがタプタプと音を奏でてるのがわかる。
気持ち悪いくらいに、光が眩しい。
母に続きの言葉を言う前に、グルリと世界が回転する。
それから視界が真っ暗になって、口から息が漏れた。




