ぜんぶほしい
驚くほど静かな夜だった。
何も味がしない。
箱庭に来てから、ずっとだ。
あれほど煩かったものが、嘘みたいに消えている。
それなのに――
足りない。
今も体の奥は、あの甘さを求めていた。
くぅと、腹がなる。
けれど何かを食べたいわけではなかった。
寝台から足を下ろして、扉の前に立つ。
音を立てないように外に出た。
居間でただぼうっとする。
時間が煩わしい。
全てがノイズみたいだった。
ただ欲しい。
味が。
甘さが欲しい。
そのとき居間に面した、幾つかの扉のうち一つが開く。
ラドウィンが出てきた。
「眠れないか。」
ラドウィンは静かにそう言った。
ニバリスが座っているソファに腰を下ろして、彼を見つめる。
ニバリスの潤んだ黄色い瞳を見ると、何かを察したように近づいた。
「腹がすいたのか?」
優しい声色と共に、ニバリスの後頭部に手が回る。
そっと引き寄せられて、昼間と同じように額を押し付けられた。
じんわりと熱を持つ。
胸がポカポカとしてきた。
今すぐ溢れ出してはち切れそうなほど、暖かい。
クリームの中に放り込まれたように、深く満たされた感覚。
沈んでいく。
ニバリスは体を燻らせて、奥深くまで感じようとした。
「もっと。」
そんな言葉が出る。
自分でもわからない、甘えた声だった。
「もう駄目だ。」
額が離れる。
熱が遠のく。
「なんで……?」
無意識のうちにラドウィンの袖を引いていた。
「壊れるからだ。腹は満たされただろう。」
ラドウィンはそう言うと、ニバリスと距離を取る。
ニバリスは追いたくなるのを堪えた。
なぜこんなに甘えたい気持ちが出るのかわからない。
「……赤子というのは可愛いな。」
ラドウィンが少し微笑んだ。
ちょんと、ニバリスを小突く。
「足りてない……。」
ニバリスは喉の疼きが止まらなかった。
だから見上げるようにしてもう一度言う。
「さっきの……もっと。」
ラドウィンは眉を顰めた。
「欲しがるな。
それは飢えじゃない、崩れだ。」
ニバリスは理解できずに、ただ彼を見る。
「お前は混ざっている。
味で食うのも、削るのも、繋がるのも。
全部だ。」
優しい声だった。
「だから制御できない。」
ラドウィンは立ち上がって、ニバリスを見る。
「――選べ。」
ニバリスの耳にその言葉が残る。
急に選択を迫られて、理解が半歩遅れた。
「生き方を決めろ。
全部は壊れる。」
それはラドウィンの優しさだった。
だがニバリスには選べない。
何を決めればいいのかわからなかった。
難しいことを言われてる気になって、ふるふると唇が震えだす。
なぜか無性に泣きたくなった。
「わからない……。」
言葉が落ちる。
「……ぜんぶほしい。」
考えるよりも先に言葉が出てくる。
今ならどんな醜態も重ねられそうだった。
恥ずかしいなんて言葉はとうに無くなっている。
あるのは理不尽に対する、ちっぽけな悲しみと駄々をこねる心だけだ。
「だろうな。」
頭を軽く撫でられる。
それだけで少し楽になった。
「削るんだ。
要らないものを削ぎ落とす。」
ラドウィンが小さな声で語る。
まるで秘密を教えるかのように。
「明日教える。今は、寝ろ。」
コクリとニバリスは頷いた。
その様子に満足気にラドウィンは部屋へと戻っていく。
静寂がその場に落ちてゆく。
さっきまであった熱は、もう残っていなかった。
なのに。
喉だけが、焼けるように渇いている。
――足りない。
*
「ニバリスくん、ベッドで寝ないと駄目ですよぉ。」
鼻に息がかかった間延びした声で起こされる。
ニバリスはそのままソファで寝込んでいたらしい。
……まだ、残っている。
ルイックが心配そうに見つめていた。
「風邪ひいちゃいますよ。
ほーら、寒い寒い。」
ニバリスの頭を膝の上に乗っけると、ポンポンと撫でる。
こんな扱いをされたのは久方ぶりで、ニバリスは恥ずかしくなった。
「……ちょ。」
「いい子、いい子。よちよち。」
悪気がなさそうにルイックは頭を撫でた。
ニバリスは抵抗して腕をやるが、軽くいなされる。
ネイドが楽しそうに、その様子を見ていた。
「お兄様、赤ちゃん!」
きゃっきゃと、ウルツカとネイドが真似をして顔を撫でてくる。
揉みくちゃにされながらニバリスは朝を迎えた。
厨房からいい香りが漂ってくる。
「飯ッー!」
汗だくのアルセラが勢いよく玄関から入って来た。
驚く子どもたちにルイックが耳打ちする。
「アルセラは毎朝お稽古してるんですぅ。」
「セラ、汗臭いから水浴びしてこい。」
ラドウィンがタオルを渡すと、アルセラはそのまま外に行く。
程なくしてドボンと大きな音が聞こえて来た。
「風呂に入れって意味だったんだが、まあいいか。」
外の水場で済ませるとはラドウィンも思わなかったようで苦笑いをする。
全身びしょ濡れになったアルセラが、裸のまま家に入ろうとして止められていた。
慌ただしい朝もあっという間に過ぎていく。
朝食の準備ができて、メフィとイッシュが起きて来た。
全員揃って食事を終えた頃だ。
「ねえ、ニバリス。僕と散歩しない?」
イッシュが声をかけてきた。




