第九話 売られる痛み
翌日。クローディアンはいつもの朝を迎えていた。けれど、昨日までとは違い、普段なら聞こえてこないような話し声が、あちらこちらから熱を帯びていることがわかる。
「本当に今日から戻ってくるんだな。」
「でも、この階にはまだ来ないって聞いたけど?」
「えー本部には帰ってくるけど、まだ会えないってことか。」
「そうなんだ。会えるの楽しみだな。」
その中心にある名前はやはり昨日と同じ。
――レイアス。
レオは行き交う職員たちの間を抜け、執務室へ向かう。
「おはようございます。」
「おはよう。」
エドガーはいつもと変わらず、朝早くから机に向かい、書類を確認している。
レオも自分の席につき、今日の予定を確認する。査定件数は二件。午前と午後に一つずつ。いつもより件数が少ない。
「昨日、騒がしかったな。今日もだが。」
「レイアスさんのことですか。」
「ああ。」
「エドガーさんも、やはり知っているんですね。」
「長年勤めてるんだ。あいつを知らない方がおかしい。」
「同じ第一級ですよね。」
「ああ。」
「レイアスさんはどういう方なんですか。」
「……実際に会えばわかる。」
昨日も聞いた言葉だった。噂ではなく、自分の目で確かめる。それが一番正確なのだろう。
「エドガーさんは、レイアスのことをどうお考えですか。」
一瞬だけ、エドガーの手が止まった気がした。
「優秀な査定士だ。」
「……それだけですか。」
「ああ。」
迷いのない答え。余計な評価を加えることもない。ただ、見たままを口にしただけのようだった。
やがて午前の査定が始まり、レオはいつものように仕事を進めた。査定をし、記録をまとめる。
それを繰り返しているうちに時間は過ぎ、レイアスの名前が時折聞こえる以外は、普段と変わらない一日だった。午後の査定を終え、最後の記録を確認する。
必要な箇所に署名を入れ、書類も資料室へと収めた。
今日の仕事はこれで終わりだ。帰ろうとしたところで、受付の職員から声をかけられる。
「レオさんすみません!第五査定室にもう一件できますか?」
「今日の予定はすべて終わったのでは。」
「はい。通常の査定は終わっています。ただ、先ほど親子のお客様がいらして。」
「どうしても今日じゃないとだめだと……。」
「分かりました。」
再び第五査定室へと戻る。扉を開けると、二人の影があった。一人は三十代前後の男だった。身につけている服はどれも質素で、高価なものには見えない。それでも、襟元はきちんと整えられ、髪にも普段より手をかけた跡があった。クローディアンへ来るために、できる限り身なりを整えてきたのだろう。その隣には、十歳ほどの男の子が座っていた。こちらも簡素な服装だ。
父親らしい男は、レオを見るとすぐに立ち上がった。
「よろしくお願いします!急に来たうえに、今日お願いしたいなんて、わがままを言ってしまってすみません。」
「構いません。こちらへどうぞ。」
二人を椅子へ案内する。男は子供の背中へと手を添えた。
「ほら。ちゃんと挨拶しなさい。」
男の子は父親の顔を見てから、レオへ向き直った。
「……こんにちは。」
「こんにちは。」
人見知りなのだろうか。視線が交わらない。
「それでは。査定を始めます。」
「本日の売却希望感情は苦痛ですね。」
「はい。」
「この子、昔から体が弱くて。よく痛がるんです。」
「痛み、ですか。」
「……苦しんでいるんです。痛いと声を上げて。」
「病院には?」
「何度か連れて行っています。けれど、検査では異常がなく、はっきりした原因がわからないと。」
「最後に受診したのはいつですか。」
「ええと……半年くらい前だったかな。」
「病院名は。」
「……すみません。今すぐには。診察券を見たら分かるんですけど。」
「では、診察券やお薬手帳など、病院に関するものは何かお持ちですか。」
「今日は持ってきていません。必要ないと思ったので……。」
「では、君は病院名など分かりますか。」
「……え、僕ですか?」
「はい。自分が通ってる病院名とかは分かりますか。名前が分からなければ、どこら辺にあるのか、先生の名前など、分かることが少しでもあれば教えてください。」
「えっと……。」
男の子は一度、父親の方へ視線を向けた。だが、すぐに俯いた。
「……わ、わからないです。」
「大丈夫です。では、いくつか確認させていただきます。」
「この感情を売却しようと考えたのは、どなたですか。」
「私です。」
父親が迷いなく答えた。
「この子がずっと苦しんでいるので……。見ているこっちも辛くて。」
そう言って、男の子の頭を撫でている。男の子は黙って俯いたままだ。
「本人には説明しましたか。」
「はい!もちろんです。」
「どう説明しましたか。」
「この感情を売れば、もう痛くないし、苦しまなくて済むって。」
「この子も、それならいいって。」
「君もそう思っていますか。」
男の子を見つめる。唇は開くが、言葉は出てこない。隣に座る父親が、男の子の背中を軽く二度叩いた。背筋が伸びる。
「大丈夫だぞ。ちゃんと話していいからな。」
「……うん。」
ここに来てから一度も目が合わない。レオは男の子から父親へと視線を戻す。
「本人の意思については、少し時間をおいてから再度確認させていただきます。」
「ええ、もちろん。少しは緊張が取れるといいんですが。」
父親は笑った。その返事を聞き、レオは記録を続ける。
未成年者の感情を売却する場合、査定前に本人と保護者を分ける。これは、クローディアンの職員誰もが知っている手続きだ。本人が保護者の言葉に引きずられず、自分の意思で、自分のために売却を選んでいるのか。それを確かめるためのものだ。
具体的な確認方法までは依頼者へ説明されることはない。事前に知られてしまえば、子供に答えを教えたり、口裏を合わせたりすることができるからだ。
今回も、父親には単なる手続き上の確認として伝えることになる。やがて、扉から職員の声が聞こえた。
「失礼いたします。申し訳ありません。お父様、手続きに関しまして確認したいことがありますので、こちらへお願いします。」
「私がですか?」
「はい。恐れ入りますが、こちらへお願いいたします。」
父親は立ち上がり、男の子のそばへ体を寄せる。肩に手を置き、抱きしめる。
「すぐ戻ってくるからな。」
「……うん。」
「まだ緊張してるのか。もっと力抜いて大丈夫だぞ。無理して話さなくてもいいからな。」
頭を撫でながら笑顔で告げる。男の子が頷いたのを確認してから職員とともに部屋を出ていった。




