第八話 帰り道
午後の最後の査定を終える頃には、窓の外は夕暮れへ移り始めていた。空の高いところにはまだ薄い青色が残っている。だが、街並みには橙色の光が落ち、遠くの建物では夜を迎える灯りが少しずつ増えていた。
館内にも昼間にはなかった人の流れができていた。早く仕事を終えた職員から順に支度を済ませ、何人かはすでに正面玄関へと向かっている。廊下では「お疲れ様です」と声を掛け合う姿が増え、引き出しを閉める音や、鞄の金具が触れ合う音もあちらこちらから聞こえてくる。
レオも今日の仕事を終えていた。手元の書類を確認し終えると、帰る支度をするため執務室へ向かう。その少し先にリシアが見えた。どうやら、廊下に面した一室で誰かと話しているらしい。扉は開いたままになっている。
通り過ぎるついでに中を覗くと、部屋の中央には積み重なった書類箱が置かれ、リシアと若い職員がその前で書類を整理していた。
「これ、年度ごとに分ければいいんですよね?」
「うん。でも、これは去年のだから。」
リシアの手が止まる。
「あれ?……これ、どうしてこっちに入れたの?」
「えっと、多分今年の分かなって。」
「分からなかったら聞いてよ。」
リシアの声から、先ほどまでの柔らかさは消えた。
「間違ってても、あとから直せばいいって思うのかもしれないけど、こういう書類って一枚違うだけでも後で探すの大変なんだからね。」
「……すみません。」
「うん、次から分からなかったらすぐ聞いてね。」
リシアはそう言い、書類を正しい箱へ戻した。レオはそのまま執務室へ向かおうとした。
「あ、レオくん!」
リシアがこちらに気づいて声をかける。
「お疲れ様です。」
「お疲れ様!あのさ、レオくんも手伝ってくれないかな?」
「俺もですか。」
「うん、今日の仕事終わってないかな?」
「いえ、今日はすべて終わりました。」
「だったら、お願い。あと少しなの。手伝ってくれないかな?」
手を合わせながら、申し訳なさそうに笑う。
「……分かりました。」
若い職員が軽く頭を下げる。
「すみません。お仕事が終わったところなのに……。」
「いえ。」
「じゃあレオくんはこの箱お願い。番号順に並べてくれる?」
「分かりました。」
番号を確認しながら、一枚ずつ順番に並べていく。山積みになっていた箱はみるみるなくなっていく。
「レオくんってこういうの得意だよね。」
「番号を確認するだけなので。」
リシアは別の束を手に取り、一枚ずつ確認しながら箱へ分けていく。
「これは前年度のやつ。別のところに持っていく分だからここには入れないで。」
「はい。」
「これは、今年度分だからこっち。全部終わったら私が確認するから。分からなかったら、端に置いてて。」
「分かりました。」
若い職員も、教えられた通りに書類を分けていった。三人で進めたことにより想定時間よりも早く終わらせることができた。
「終わった……。」
若い職員は疲れ切っている。書類整理は想像していたよりも、体力を使うものだったようだ。
リシアが箱の中を確認し、蓋を閉じた。
「うん。これで大丈夫。」
「はい。疲れましたね。」
それきり、若い職員は黙っていた。その顔には書類整理による疲労が滲み出ており、今はそれしか考えられないようだった。
「あのさ……こういうときはちゃんと言わないと。」
「え……はい?」
「……?」
「お願いしますとかありがとうございますとか。」
「手伝ってもらう前にはお願いします。手伝ってもらったらありがとうございます。難しくないでしょ?あなたは、書類整理をしてるときから終わるまで、一回も言わなかったよ。」
「別に丁寧にとか堅苦しくってわけじゃない。ただ、何も言わないのは違うと思うよ。」
その声は強くはない。それでも、笑って曖昧に済ませるつもりがないことがわかる。
「こういうことって、一回だけならそんなに気にされないのかもしれない。人によるけどね。」
「仕事って一緒にやっていくものでしょ?だから、周りの人は意外とそういうところ見てるんだよ。その人を好きだろうが嫌いだろうが。」
「あの人はいつも誰かに頼ってるのに何も言わない、手伝ってもらって当たり前みたいになってる。そういうことが続いたら困ったときに、手伝おうかって声をかけてもらえなくなるかもしれない。」
「……それは。」
「もちろん、今日のことだけでこの人はこういう人だって決まるわけじゃないよ。」
「今日のことも。前のことも。これからのことも。毎日の小さな行動が少しずつ積み重なって、その人がどんな人なのかっていう印象になっていくの。」
若い職員は、ばつが悪そうに視線をさまよわせた。
「だから、いつか自分が誰かを頼りたくなったとき、そのときまでに自分が積み重ねてきたものが返ってくることもあるんだよ。」
「……はい。」
「助けてもらうことって、悪いことじゃないからね。誰にだって一人じゃできないことがあるし。」
「だから、ちゃんとお願いして。ちゃんとありがとうって言ってね。言葉にしなきゃ伝わらないからね。」
「……はい。ありがとうございました。」
「うん。どういたしまして。あと、レオくんにもしっかりお礼してね。急に手伝ってもらったから。」
「は、はい。ありがとうございました!」
勢いよく頭を下げる。あまりの勢いに、レオは思わず身を引いた。
「いえ。」
「じゃあ、その箱だけ第二倉庫にお願い。私たちはもう行くね。あと、それ運び終えたら帰っていいから!お疲れ様です。」
「はい、お疲れ様でした。ありがとうございました。」
「お疲れ様です。」
レオとリシアは執務室へ戻り、それぞれ帰る準備を整えた。レオは鞄を手に取る。リシアも上着を羽織り、鞄の中を確認した。
「レオくん、お菓子いる?」
「今日は手伝ってくれてありがとう。ってことでお菓子どうぞ。苦手じゃなければ。」
「ありがとうございます。いただきます。」
「どういたしまして。じゃあ、今度こそ帰ろうか。」
二人は正面玄関を抜けた。夜の街には昼とは違う活気が溢れている。
「また明日ね。」
「はい。お疲れ様です。」




