第七話 名前だけが先に
昼休みの気配が残っていた館内は、鐘の音を境に再び仕事の雰囲気へと変わった。
それぞれの持ち場へ戻っていく人々の中で、レオもまた、午前中の査定記録を抱えて資料室へ向かっていた。
査定が終われば、それですべてが終わるわけではない。依頼者とのやり取りを細かく記録し、査定した感情の種類と状態を整理する。査定士が確認した内容、売却の意思、査定結果からエモリアまでの過程。
そのすべてに記録が必要なのだ。
査定記録には、査定士の感想を書いてはいけない。
可哀想だった、売却するべきではないと思った、この人に同情した。そうした感情は、記録として残すことを認められていない。
理由は単純。査定士の感情が、記録そのものの価値を変えてしまうからだ。感情を売却するかどうかを決めるのは、査定士ではない。どれほど強い感情を抱えていても、どれほど長い時間苦しんでいても、その感情を手放すのか。それとも、この先も自分の中に残して生きていくのか。最後に決めるのは、本人だ。
査定士が、この人は可哀想だから売却した方がいいと考えてしまえば、その判断には査定士自身の価値観が入り込む。反対に、この感情は手放すべきではないと感じれば、本来なら本人が選ぶ道へ、査定士の意思を押し付けることになる。
それは査定ではない。
だから、査定士は見たものと感じたものを分けなければならないのだ。
記録は査定士のためにあるものではない。担当した査定士がいなくなったあとも、クローディアンは残り続ける。別の査定士が確認することもある。何年経ってから、過去の査定について調査が行われることもある。だからこそ、そこに書かれる言葉には責任が伴う。
資料室へ向かう途中、前方から二人の女性職員が歩いてくるのが見えた。
「今日、正式に戻るのが決まったらしいね。」
「うん。朝からその話ばっかりだよ。」
レオは軽く会釈をし、二人の横を通り過ぎる。
「新人研修だっけ。結構長かったよね。」
「そうそう、本部に来るの久しぶりじゃない?」
「査定件数、また増えそうだよね。」
「たぶんね、だってあの人だよ?」
「それはそう。」
「仕事、早すぎるんだよね。私が一件終わらせる頃には、もう次の記録が出来上がってるし。」
「分かる。しかも、判断も早いんだよね。迷ってるところ見たことない。」
「あとさ。」
一人が声を少し落とす。
「……普通に顔良いよね。」
「それ、今言う?」
「だって本当のことじゃん。」
「まあ……それは否定できない。」
くすくすとした笑いがこぼれる。
「仕事できてあの顔でしょ?そりゃ人気でるよね。」
「本人が全然気にしてなさそうなのもまた……いいよね。」
「分かる。仕事のこと色々教えてもらえるし、頼りになるよね。」
「うん、早く帰ってこないかな。レイアスさん。」
二人はそのまま話しながら、廊下の向こうへと歩いていった。
レオはそんな会話を耳にしたまま資料室へ入っていく。紙と木の匂い。
棚にはこれまで査定された感情の記録が隙間なしに並んでいる。古いものには、今とは異なる管理番号が使われている。制度が完全に整えられる以前の記録には番号はなく、異国語なのか記号なのか分からないものもある。何十年も前に書かれた文字が、今も紙の上に残っている。当時の査定士が見たものから依頼者が選んだことまで。時間を越えてすべてここに残されている。
人は忘れる。記憶は薄れていく。けれど、紙に残されたものは違う。書かれた文字は、その人が確かにここに来たという事実を残し続けるのだ。
レオは手にしていた書類を一冊ずつ確認し、決められた場所へ収めていった。最後の一冊を棚へ置く。提出簿を開き、日付と管理番号、そして自分の名前を書き、万年筆を置いたところで背後から声がした。
「レオくん。お疲れ様。」
入口には年配の男性職員が立っていた。腰は曲がり、両手を後ろで組んでいる。
「お疲れ様です。」
「エドガーくんのところで頑張っているそうだね。」
「はい。」
「一人で査定もしているんだろう?」
「はい。ですが、まだ勉強中です。」
「焦る必要はないよ。」
男性職員はにこりと笑う。
「エドガーくんの下なら、嫌というほど力はつく。」
「確かにそうですね。」
エドガーの指導は厳しい。査定の手順を一つ取っても、少しでも曖昧な部分があれば、やり直しを命じられる。査定士の判断は、誰かの人生に関わる。だからこそ、曖昧であったり、中途半端なことは許されないのだ。
「そういえば、もうすぐレイアスくんとも会うことになるかな。」
また、その名前だった。
「あの、先ほど廊下ですれ違った方々も話していたんですが。そんなに有名な方なんですか。」
男性職員は言葉を探し、困ったように眉を下げる。
「んー……有名人というより。」
「印象に残る人かな。」
「印象に残る……。」
「仕事も……考え方もね。」
「まぁ会えばわかるさ。」
それだけ言うと資料室の外へと足を運んでいく。
「じゃあ、僕はもう行くからね。仕事、これからも頑張ってね。」
「はい。お疲れ様です。」
研修時代にも、何度か耳にしたことがある。
査定が正確、迷いがなく判断が早い。それほどまでに周囲の人間がその人物を語るということは、誰もが認める実力を持っているということだろう。
気にならないといえば嘘になる。けれど、わざわざ自分から調べるほどではない。そう思い直し、資料室を出る。
レイアスという人物が、どんな人間なのか。
その答えを知る日はもう少し先のこと。




