第十話 痛むものは
扉が閉まり、部屋に残るのはレオと男の子だけ。父親から聞いた話だけでは確認できないことが多い。さらに、真相を確認するために、聞くべきことがたくさんある。
「いくつか確認しますね。緊張せずに気楽に話していただいて大丈夫です。」
「……はい。」
「お父さんは、君が苦しんでいると言ってましたね。病院にも何度か連れて行ったと。最後に行ったのはいつか覚えてますか。」
「……分かりません。」
「病院の名前は覚えてますか。こんな名前だったかも、という程度でも大丈夫ですよ。」
「名前は覚えてないけど、包帯巻いてくれて、痛いのなくしてくれる薬もらいました。」
「そうなんですね。」
「痛みはいつ頃からありますか。」
「……ずっと。」
「毎日ですか。」
「……分かりません。」
答えるたびに男の子の声が小さくなっていく。
病院へ行ったことがある。けれど、病名はよく分からない。最後に受診した時期も曖昧で、病院の名前も把握していない。父親から聞いた話と比べれば妙な点はいくつもある。それでも、今の段階で何かを決めつけることはできない。
「この感情を売ったら、どうなると思っていますか。」
先ほどの質問には俯きながら答えていたが、この質問には顔を上げた。
「痛いのなくなって、苦しくなくなるんですよね。」
「売却をすれば、その感情はなくなります。」
「じゃあ……。」
男の子は少しだけ身を乗り出した。
「感情を売ったら、幸せになれるんですよね?」
「お金がもらえるって聞きました。」
「査定によって、対価が決まります。」
「あと、あとね……。」
少し微笑みながら答える。
「お母さんにも会えるって!」
「……お父さんからそう聞いたんですか。」
「はい!」
「他に何か聞いたことはありますか。小さいことでもいいですよ。」
男の子の視線は扉へ向く。父親が出ていった方向だ。しばらく扉を見てからレオへ向き直った。
「あの、あのね……。」
「はい。」
「僕……。」
何かを言おうとしてやめる。そしてもう一度、扉を見る。それから、意を決してレオに話し始めた。
「僕、お父さんが言ってたこと、聞いたことがあります。」
「この感情を売ったら、お金がもらえるって。」
「それでね……。」
「……痛いって言わなくなるから、もっと殴っても大丈夫になるって。」
レオの指が止まる。男の子はそんなことにも気づかず、話し続けた。
「えっとね……一石二鳥?になるって。」
幼い声だけが部屋に残る。男の子は、その言葉の意味をすべて理解しているわけではないのだろう。ただ、父親が言っていた。それを覚え、信じていた。
「みんな、子供は痛い思いしてるんですよね。」
「お父さんから殴られるのは普通で、学校の友達もみんな殴られてるって言ってました。」
「でも、それを話すのは恥ずかしいことだから誰にも話すなって言われてたんだ。でも、初めてお兄ちゃんに言っちゃった。」
男の子は笑いながら、頬に手を当てている。その行動は、恥ずかしさを隠すように見えた。
「でも、感情を売ったら僕だけ痛くなくなるんだって思って……。」
「だったら、友達にも教えてあげようと思ってます。」
「さっきは言えなくてごめんなさい……恥ずかしくて言えなかったんです。」
その言葉を最後に男の子は口を閉ざす。自分が信じていたことが本当に正しいのか。もう分からなくなっているのだろう。
「……それも本当にお父さんから言われたのですか。」
「はい!」
父親は、子供が殴られることを普通だと教えていた。学校の友達も同じだと伝え、自分が受けていることに疑問を持たないようにし、話すことは恥ずかしいことだと思い込ませ、他人に知られることを隠そうとした。それだけではない。感情を売れば、痛いと言わなくなる。そう教えたうえで、父親は自分の都合を、あたかも子供のためであるかのように教え込んでいた。
子供の世界は大人が思うよりずっと狭い。生まれてから長い時間を過ごす家と、そこで暮らす家族。その中で交わされる言葉や教えが、その子にとっての普通になっていく。
外の世界を知らなければ、それが正しいのか間違っているのかを比べることもできない。
とりわけ親という存在は、子供にとってはあまりにも大きい。良くも悪くも、親は世界を測る物差しになってしまう。何気なく口にした言葉も、無意識にしている行動や態度も、子供は知らないうちに拾っていく。それが何度も積み重なれば、やがてその子の考え方になり、物事の見方になり、何を正しいと思うのかを決める基準になっていく。親にとっては何でもない一言だったとしても、子供にとってはそれが初めて知る世界の形なのかもしれない。
けれど、親というものは、あまりにも身勝手な存在でもある。子供を望む者もいれば、望まない者もいる。心から愛する者もいれば、愛せない者もいる。自分が嫌だと思えば遠ざけ、いらないと思えば手放す。
親にとっては自分の人生の一部にすぎない選択でも、その先にいる子供には、自分ではどうすることもできない人生そのものが待っているのだ。
子供は生まれる場所も、誰のもとに生まれるのかも選べない。それなのに、生まれた日から親の言葉を聞き、親の背中を見て、親の都合の中で生きていかなければならない。
愛されることも、拒まれることも。
守られることも、傷つけられることも。
そのすべてを子供は選ぶことができない。あまりにも非情なことだ。
男の子が暴力を異常なものとして認識できなかったのは、何も知らなかったこともあるだろう。だが、一番は父親からそう信じるように意図的に教え込まれたからだ。
皮肉にも、男の子はそれを信じたまま、自分だけではなく友達のことまでその考えから救おうとしていた。




