第五話 残された問い
第五査定室を出ると、廊下には午前の終わりを告げるような眩しい光が差し込んでいた。窓の外では、陽が少しずつ高くなってきている。
青年は保管箱を抱え、廊下を歩いていた。その中には、先ほど女性から売却されたエモリアが納められている。
午前の査定はこれで終わりだ。この箱を保管庫へ置けば昼休憩に入る。査定士にとって何度も繰り返してきた日常の一つだ。
廊下を進むにつれ、人の気配が少なくなっていく。残ったのは、自分の足音だけだ。一定の間隔で響く足音を聞きながら、前を向いて歩き続ける。やがて、廊下の奥に重厚な鉄の扉が現れる。
保管庫。
クローディアンで保管されたエモリアは、定められた手続きを経て、この場所へ納められる。国の管理下に置かれた感情を守るための場所だ。
青年は懐から鍵を取り出した。錠へ差し込む。重い金属音が二度響き、その奥で幾つもの機構が噛み合った。最後の音が止み、扉を押し開けた。廊下とはまるで違う温度だった。
保管庫は広い。天井近くまで伸びた棚が幾列にも連なり、保管箱が配置されている。
どの箱も形はほとんど変わらない。違いを示すのは、側面に刻まれた識別紋と管理番号だけ。箱の内部を外から窺うことはできない。それは単なる遮蔽物ではないのだ。保管されたエモリアを外部の干渉から隔て、内部の状態を保つため、特別に作られたものだ。一度閉じられた保管箱へ、外側から触れることはできない。中にあるエモリアがどのような姿をしているのか、それを知ることはできない。ここにあるのは、数え切れないほどの黒い箱だけ。けれど、一つひとつに誰かが手放した感情が眠っている。悲しみ、恐怖、怒り、後悔など。数え切れないほどの、誰かが生きてきた時間がある。
青年は足を止めることなく奥の方へ進んでいく。幾つもある管理番号を追い、目的の場所を探す。やがて、一つの標識に目が留まった。手元の記録と照らし合わせる。間違いない。青年は黒い箱を、その場所へ運んだ。箱の底が棚へ触れる。かすかな金属音が保管庫へ落ちる。その瞬間だった。箱の側面に刻まれた識別紋が浮かび上がる。箱の内部から低い振動が伝わり、箱を囲うように細い光が走った。ほんの数秒。それが消えると同時に、箱は棚の奥へ固定された。
何にも触れられない状態になったことを示すように、最後の音が鳴った。これで保管は完了だ。
「レオ、終わったか。」
背後から低く、厚みのある声がした。
入口に、一人の男が立っていた。身長は高く、体格もいい。
「お疲れ様です。エドガーさん。」
クローディアンで長く査定士を務める男であり、レオの直属の上司にあたる。
エドガーは返事の代わりに棚へ目を向ける。視線が止まったのは、今しがた保管されたばかりの箱であった。
「今回の査定記録は見た。特に問題はない。」
「ありがとうございます。」
「レオ、今回の査定でお前は何を見た。」
予想していなかった問いだった。エドガーとは仕事についての会話はあったものの、私情を挟むような質問はあまりなかったからだ。
「記録のとおりです。売却意思を確認し、査定を行い、エモリア化しました。」
エドガーはレオを見る。咎めるような色はなかった。かといって、納得した様子でもない。ただ、何かを探るような目だった。
しばらくして、エドガーが息を吐く。
「それだけか。」
すぐに答えられなかった。何を問われているのか分からない。査定記録には、必要なことすべて記した。女性が何を抱えていたのか、どのような経緯でその感情が生まれたのか。売却意思は本人のものだったか。どれも欠けてはいないはずだ。
「はい。それ以上はありません。」
「レオ。感情を扱うのなら、自分の感情から逃げるな。」
そう言い残し、エドガーは保管庫を去った。
査定士は自分の感情で判断してはならない。それは、この仕事に就いたときから教えられてきたことだった。
誰かの苦しみに同情しすぎない。
嫌悪を抱かない。
哀れみで査定を変えない。
自分の価値観を、相手の人生へ持ち込まない。
感情に飲まれれば、正確な査定はできなくなる。相手を理解しようとするあまり、自分の考えで解釈してしまうこともある。だから、一定の距離を保ってきた。
感情を扱う者ほど、自分の感情を切り離す必要がある。そう信じていた。それが査定士に求められることで、正しい在り方なのだと。
だからこそ、自分の感情から逃げるなという言葉がどこへ繋がるのか分からなかった。
黒い箱は、何も語らない。内部で何が起きているのかを、外から知ることはできない。
エドガーの言葉が頭から離れず、しばらく箱を見つめていた。見たところで何かが分かるわけでもない。昼を知らせる鐘が遠くで鳴った。休憩の時間だった。
レオは扉へと向かう。背後には、無数の感情が残されている。そのどれもが、もう持ち主の元へ戻ることはない。
ただ一つ。
まだ名前のつかないものが残っていた。




