第四話 アルシアが導くもの
女性の胸元に、淡い光が浮かび上がった。それは、衣服を透かして見えるほど強いものではなかった。ただ、そこに何かが灯ったと分かる程度の光だった。
光はしばらく留まっていたが、ゆっくりと形を変え始める。一つの線が伸び、それに沿うように別の線が重なる。円を描き、その内側へと線が幾重にも組み込まれていく。そして、中央に一つの鍵穴を作った。
「……これは。」
女性の声は驚きにかすれていた。青年は答える代わりに、制服の内側へ手を入れた。
そこから取り出したのは一本の鍵だった。銀色の細工が施された細身の鍵。
鍵の持ち手には紋様が刻まれていた。青年の手の甲に現れていたものとよく似ている。
「アルシアです。」
「査定士一人につき、一本だけ授けられる心鍵です。」
「心鍵ですか?」
「はい。アルシアは持ち主の心にのみ反応します。そのため、他者が扱うことはできません。」
ただの鍵ならばもっと単純な形をしていてもいい。けれど、これは違った。持ち主のためだけに作られた特別なものなのだと言葉にされなくても分かる。
「査定士として任命された日に国から授与され、役目を終えた時には国へ返還されます。」
「それじゃあ、もし失ったりしたら……。」
「査定士として、この仕事を続けることはできません。」
その短い言葉の中に、この鍵が査定士にとってどれほど重要なものなのかが込められていた。
「あの……この鍵穴は何ですか。」
「感情を本人の心から切り離すためのものです。」
「今からこのアルシアを鍵穴に差し込みます。アルシアを通じて、査定された感情のみが離され、結晶化されます。痛みはありませんので安心してください。」
「はい……お願いします。」
鍵穴へアルシアを近づける。先端が光へ触れたとき、鍵穴が一度だけ明滅する。
アルシアを差し込み、ゆっくりと回す。
――カチリ。
かすかな音だった。その瞬間、女性の胸の奥から、一筋の光が生まれた。
「……っ。」
思わず息を止めてしまう。出てくる光は糸よりも細かった。けれど、確かにゆっくりと胸の奥から身体の外へ伸びていた。痛みはなく、引きずられているような感覚もなかった。
ただ、自分の中にあった何かが解けていく。長い間、固く結ばれていたものが少しずつ形を失っていくようだった。
光は机の上へ向かう。そこには透明な結晶瓶が置かれていた。細い光が瓶の口へ吸い込まれていく。一本、また一本と。光が瓶の中で渦を巻き、器の内側を満たしていく。やがて、その中心に小さな光の塊が生まれる。輪郭ができ、角が生まれる。そして、透明な結晶へと姿を変えていった。
青色の結晶。内部には消えきらない光が残り、呼吸をするように微かに明滅している。
「これが……。」
「これがあなたの不安です。」
結晶の表面を一筋の光が走った。それは一度だけでは終わらず、細い線が次々と浮かび上がり、複雑な形を描いていく。
「これは感情紋です。」
「この感情が、誰の人生から生まれたものなのかを証明します。」
「私だけってことですか。」
「はい。同じものは一つもありません。なので、偽造もすり替えもできません。」
そう言って青年は結晶瓶を手に取り、そのまま奥にある保管箱へ向かった。
保管箱は結晶瓶よりもさらに厳重だ。
四角く整えられた胴体に、わずかに丸みを帯びた肩。ただの黒い四角の箱に見えるが、どこか違う雰囲気が漂っている。光をほとんど返さない深い色合いの素材で作られ、四つの角には金属とも石ともつかない部材が埋め込まれている。
容器の上部には、蓋と本体の境目すらわからないほど精密に作られた閉鎖部があった。
青年が上部へ手を添える。すると、四隅に埋め込まれた部材が光った。そして、容器から低い音が響い、蓋がわずかに浮かび上がった。持ち上がったそれは途中で止まり、内部を覗かせる。中は深い暗闇だった。外から差し込んでいる光さえ、途中で吸い込まれてしまいそうだった。
結晶瓶をその中へ収める。瓶の底は容器へ触れることはなかった。見えない何かに支えられているように、内部の中央で静止している。それを確認すると、青年は容器の蓋へと手をかける。ゆっくりと蓋は下がっていく。結晶瓶は完全に見えなくなった。蓋が閉じる直前、内部から青い光が一度だけ漏れた。だが、それもすぐに途絶える。完全に閉じきった容器には開閉部らしき線などは残っていなかった。
青年はまた、上部へと触れる。淡い光が円を描いた。それは、一周すると四隅に向かって走っていく。四つの光が同時に灯った。そして、低い音が響き渡る。その音を合図に、容器に刻まれた文字や線が一瞬浮かび上がるが、次の瞬間には、何事もなかったかのように消えた。封じられたのだ。中にあるエモリアも、外から触れるものも。すべて隔てるように。
「保管はこれで完了です。」
「……ずっとここにあるんですか?」
「いいえ、クローディアンで保管されたエモリアは、定められた手続きを経て国へ納められます。」
万年筆を査定記録へと走らせる。一文字ずつ確認するように。
――不安。
――本人意思による売却。
――報酬支払い対象。
――エモリア化完了。
「以上で査定は終了です。」
その言葉を聞いて、ほんの少しだけ身体の力が抜けた。もう一度、保管箱へと目を向ける。
あの中に、自分が抱えていた感情があるのだと。過ごしてきた時間まで消えるわけではない。ただ、その一部が別の場所へ移ったのだと。
「ありがとうございました。」
青年は一礼する。
「こちらこそ……どうか、今夜はよく眠れますように。」
一瞬だけ、その言葉の意味を確かめるように青年を見る。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……はい。」
足取りはここへ来たときよりも軽かった。廊下へ差し込んだ光の中へ、姿が消えていく。
深い色の四角い容器は何の音も立てず、そこに佇んでいる。
ようやく、その役目を終えたように。




