第三話 不安の奥にあるもの
女性は、すぐには答えを返せなかった。問いそのものは難しくない。
もし、自分ではなく大切な誰かが同じ場所に立っていたら。何度も眠れない夜を過ごし、朝を迎えることさえ怖くなって、それでも自分を責め続けていたら。
きっと、そんな人に弱いなどとは言わないだろう。よく頑張ったね、もう十分だよと伝えるだろう。
けれど、その言葉を自分自身へ向けることができなかった。
「……思いません。」
その声は、ひどく小さい。
「その人を、弱い人だなんて思いません。」
返事を聞いた青年は、すぐには言葉を口にしなかった。窓の外では、木の葉がふわふわと舞い落ちていく。
「査定結果をお伝えします。」
「あなたの抱えている不安は、一つの出来事だけから生まれたものではありません。」
「失敗することへの恐れ、未来への心配、周囲へ迷惑をかけてしまったことへの罪悪感と申し訳なさ、そしてご自身に向けた失望。それぞれが別々に生まれ、時間の中で重なっていった。それが、今のあなたの不安です。」
「ですが、その感情が間違いだったわけではありません。」
「不安には、自分を守る役割があります。危険を予測し、知らせてくれます。また、以前傷ついた場所や出来事を覚えておくこと。同じことが起きないよう、足を止めること。」
「あなたの中に残った不安も、そうして生まれたものなのでしょう。」
何度も消えてほしいと願っていた。何かを始めようとするたび、不安が過去を思い出させる。これさえなければもっと普通に生きられると思っていた。けれど、自分を壊すためだけに、そこにあったわけではない。
「……私を、守ろうとしていたんですか。」
「そう考えることもできます。」
女性は下唇を強く噛んだ。守る。そんな言葉を、自分の中にある感情とは結びつけたことは一度もなかった。考えたこともなかった。ずっと敵だったから。だからこそ、その見方はあまりにも意外だった。
今日まで苦しめられてきたことも、これから先に待つものも、何一つ変わってはいない。それでも、初めてその感情をただ憎むことができなくなった。
「感情を売却すると、その感情を二度と感じることはありません。再び抱くこともありません。それでも、あなたは、この不安を手放したいですか。」
その答えだけは自分で決めなければならない。この先をどう生きるのか。その選択をするのは自分自身だ。
なくなればきっと楽になる。そう思ってここに来たのだ。けれど、今はそれだけではなかった。
それがあったから自分が限界に近づいていることに気づけた。無理を続けてはいけないと心も身体も教えてくれていた。
それでも。
「……手放したいです。」
「でも、嫌いだからじゃありません。不安という感情に縛られずに……これからは、自分で歩いていきたいんです。」
「承知しました。それでは、感情売却の手続きを開始します。」
「まず、売却についての流れからご説明します。売却された感情は結晶化されます。」
「結晶化した感情はエモリアと呼ばれます。エモリアはクローディアンが責任を持って保管・管理します。」
「そして、査定された価値に応じて売却者へ報酬が支払われます。」
「……やっぱりお金になるんですね。」
「はい。ですが、国が買い取るのは感情そのものではありません。」
「その感情を抱えて生きてきた時間です。どれほど長く抱えていたのか、どれほど深く心へ残っていたのか、その感情と共にどのような時間を過ごしてきたのか。」
「査定するのは、そうしたものです。」
「そうなんですね……それなら。両親に返したいです。」
「本当なら、働いて返すべきなんです。そんなことするくらいなら、働けばいいって、馬鹿だって言われて、笑われるかもしれないです。」
「でも、この気持ちを手放せて、その時間まで誰かに認めてもらえるなら。それでいいのかなって。前に進むために、今私にできることは、それなのかなって。」
最初に顔を合わせたときとは違い、今は、何か吹っ切れたような笑顔を浮かべていた。
「わかりました。最後に、もう一度だけ確認します。」
「売却された感情はあなたの中から失われます。今後、再び不安という感情を抱くことはありません。ただし、記憶が消えるわけではありません。」
「今まで起きた出来事は残ります。誰に何を言われ、どこで働いていたのか。何を感じ、何を選んだのか。」
「残るのは記憶です。失われるのは、その記憶に結びついている感情です。」
今までのことを忘れるわけではない。ただ、その記憶を思い出したとき、同じ痛みを、不安を感じなくなる。
それが、怖くないと言えば、嘘になる。苦しかった時間でさえ、自分の人生だった。
「はい。それでも売却を希望します。お願いします。」
「承知しました。」
青年は万年筆を手に取り、契約書へ最後の確認事項を書き終えた。そして、印章を取り出す。銀色の紋章が刻まれたそれを契約書の所定の位置へ合わせる。
「これより、契約を成立させます。」
印章が紙へ触れる。刻まれた印影から、高く澄んだ音が響いた。
――契約成立。




