第二話 査定
青年は契約書へ視線を落とした。女性が記した二文字。
「まず最初に、一つ確認させてください。」
「この契約書は、ご本人の意思でお間違いありませんか。」
「……はい。」
「どなたかに無理矢理勧められたり、強制されたものではありませんか。」
「違います。」
「ありがとうございます。」
女性は膝の上で両手を重ね、しばらくその手を見つめていた。何かを尋ねようとしているのか、何度か口を開きかけては閉じる。
「あの……。」
「はい。」
「査定って……何をするんですか?」
女性の視線は落ち着かない。
「感情というものには、一つとして同じものがありません。」
「同じように見えても、生まれた理由も、抱えてきた時間も、人によって全て違います。」
「だから私たちは、その感情を知るところから始めます。」
女性は首を傾げる。
「知る?」
「はい。」
青年は右手の黒い手袋へ手をかけた。指先から布を外していく。手の甲が露わになった瞬間、そこへ銀色の紋様が浮かび上がった。幾つもの細い線が重なり合い、規則があるようでどこか生き物のようにも見える。
「その紋様は……。」
「査定に使います。」
手袋を机の端に置く。
「少しだけ、お手をお借りしてもよろしいでしょうか。」
女性は戸惑いながらも青年へ右手を差し出す。青年の指先が手の甲へ触れた。触れたと同時に、銀色の紋様が光った。思わず目を細めてしまう。それほどまでに、眩しい光だ。だが、女性には何も起こらなかった。
青年の前には彼女が抱えてきたものが姿を現していた。冷たい風が吹いている。出口の見えない暗闇でどこに向かえばいいのかがわからない。立っているだけで胸を締め付けるような息苦しさがある。
朝が来て時計の針が進む。起きなければ、動かなければと、頭ではわかっているが何もできない。そんなことを考えては時間だけが過ぎる。明日は変わろう、そう言って眠りにつくが次の日になっても変わりはない。
迷惑をかけている、早くしなければ。頑張らなきゃ。
何度も繰り返した言葉は、いつしか自分を責める言葉へと変わっていた。
どうして何もできないんだろう、このままでいいのだろうか、この先どうなるのだろうか。答えのない問いだけが残る。そして、最後に誰かへ向けるように呟く。
――ごめんなさい。
誰かへ謝り続ける感情だけが、何度も繰り返される。青年が見えるものは、景色ではない。その出来事によって残された感情だった。
悲しみ。
恐れ。
焦り。
孤独。
罪悪感。
それぞれ別の形をしていたものが、長い時間をかけて複雑に絡み合っている。それが、女性の抱える不安だった。
「ありがとうございます。」
何が起こったのかがわからず、困惑の表情を浮かべ、自分の手を見つめた。
「……今ので、何が分かったんですか?」
「全部は分かりません。」
「査定士に見えるのは、感情だけです。」
「何があったのか、誰に傷つけられたのか、どこで生まれた感情なのか。そこまでは分かりません。」
「だから、お聞きします。」
青年は女性をまっすぐと見つめた。
「あなたの不安は、いつからそこにありますか。」
その一言で、女性の表情は固まる。言おうか、言わまいか悩んでいるようだ。青年は急かさなかった。ただ、静かに待つ。長い沈黙の後、女性は細々と話し始めた。
「……一年くらい前。仕事を辞めてからです。」
「毎日、早く働かなきゃと思うんです。でも、朝になると体が動かなくて。」
「両親にも迷惑をかけてばかりで、この先どうしたらいいかわからなくて……。」
「怖いんです。何もできない自分が。」
青年は何も言わない。励ましも、慰めもしない。否定もしない。ただただ、言葉を受け止めていた。
「話していただいてありがとうございます。」
「今、お話いただいたこと。それがあなたの不安です。」
「査定とは、感情を量ることではありません。」
「その感情が、どんな人生の中で生まれたのかを知ることです。」
青年は査定で起きたこと、見えたものを全て記録していた。自分の感情が誰かの手によって言葉になっていく。それはなんとも言えない感覚だった。自分の中にあるものを見られているのに、不快ではない。むしろ、今まで形のなかったものが、初めて形を持ったようだった。
「いくつかお聞きすることがあります。」
「先ほど、仕事を辞めた頃から不安があるとお話されました。」
「辞める前のあなたは、どのような状態でしたか。」
「……頑張っていました。失敗しないように、迷惑をかけないように、怒られないように。」
「怒らせないように、ですか。」
「……あっ。」
口にするつもりはなかったのだろう。けれど、一度こぼれた言葉は戻らない。
「毎日のように思い出すんです。」
「何をですか。」
「声を。」
思い出しているのだろう。女性の顔から血の気が引いた。
忘れたつもりだった。もう一年も経っている。それなのに、嫌というほど今も耳の奥に残っている。
――どうしてこんなこともできないんだ。
――本当に向いてないよね。早くやめたらいいのに。
――何回教えても覚えられないの?逆にこっちが大変なんだよね。
――いるだけで迷惑。
「悔しかったです。でも、それ以上に悲しかった。」
「今まで頑張ってきた自分が、全部否定されたような気がして。」
「確かに自分は覚えるのが遅いし、要領は悪いです。でも、自分なりにメモして毎回確認しながら仕事していました。けど、教えられていないことやイレギュラーなことが起こると頭が真っ白になって分からなくなるんです。」
「だから、なんであんな言い方をされなきゃいけないんだって。ふざけるなって思いました。」
自分に呆れ、自分を嘲笑うような笑みだった。
「……でも、一番苦しいのはそこじゃないんです。」
「私は……もっと我慢できたんじゃないかって。もっと我慢していれば、そんなこと気にならないくらい強くなれたんじゃないかって思ったんです。」
「もし、自分がもう少しだけ強い人になれていたら、あんな言葉くらいで心が折れなかったかもしれない。辞めずに働き続けられたかもしれない。」
「両親は何も責めませんでした。」
「無理せず帰っておいでって。無事に帰ってきてくれて良かったって。そう言ってくれた。だからこそ、苦しかったです。」
「私のために、お金も時間もかけてくれて。新しい生活を始められるように沢山支えてくれたのに。私は一年も経たないうちに帰ってきてしまった。全部、無駄にしてしまって。期待を裏切ってしまったって。」
「それだけで心が折れてしまった自分が情けなくて。弱い自分が不甲斐なくて。」
涙を拭う。けれど、拭うそばからまた一粒、一粒と頬を濡らしていく。
「あなたは……ご自身が弱かったからこの結末になったと思っているのですね。」
「……はい。」
青年は査定記録へ目を落とした。そこには、先ほどまでとは違う言葉が並んでいる。
不安、怒り、恐怖、自己否定、罪悪感。
どれも最初からあったわけではない。一つの出来事をきっかけに生まれ、時間の中で重なり、いつしか一つの感情として女性の中に残ったのだろう。
「あなたは……。」
「あなたの大切な人が、あなたと同じ経験をしたら、その人を弱い人だと思いますか。」




