第一話 あなたの不安お預かりいたします
人生で最も重い契約書は、不思議なことに書くべき言葉がほとんどない。
名前を書き、年齢を書き、そして最後に、たった一行だけ。
その一行を書くために、人は何日も、何ヶ月も、時には何年も悩み続ける。
たった一つの感情を手放すという覚悟は、それほどまでに重い。
だからこそ、その建物を訪れる者は、皆一度、足を止めるのだ。
王都エルメンの中央区。
街の中心にありながら、その建物だけは世界から切り離されたように静かだった。
白い外壁は朝日を受け輝き、いくつもの石柱が高い天井を支えていた。壁一面を飾るステンドグラスから、赤・緑・金色の光がこぼれ、白い床へ揺らぎながら溶けていた。
建物の外では、街が騒がしく活気づいていた。馬車が石畳を転がる音、焼き立てのパンの香り、子供たちの笑い声。
けれど、この建物の前まで来ると、街の音さえ厚い壁に遮られたように感じる。
正面の看板に刻まれた文字。この国で知らぬ者はいない。
――あなたの感情、お預かりいたします。
国立感情管理機関。
人々は敬意を込め、あるいは恐れを抱きながら、その名を口にする。
――感情商人。
この国では、人の感情は国によって管理されている。
強すぎる悲しみ、人生を縛りつける後悔、眠ることすら許さない恐怖。
感情は人を支える。けれど、人を壊す。
だから、この国には自ら感情を国へ預ける制度があった。
査定士が感情を査定し、その価値を測る。
売却を望んだ場合、感情は美しい結晶となり厳重に保管される。
そして国は、その価値に応じた報酬を支払う。
それは、感情へ値段を付けるためではない。
その感情を抱えて生き抜いてきた人生へ、敬意を払うためだった。
建物の前で、一人の女性が立ち尽くしていた。
二十代前半くらいだろうか。花柄のワンピースを着て、小さな鞄を抱えている。その指先は小刻みに震えていた。
何度も建物を見ては俯き、また見上げる。
扉へ伸ばした手が、何度も途中で止まり、胸元へ戻った。
帰ろう、まだ間に合う。今日じゃなくてもいい。そのたびに足は半歩だけ後ろへ下がる。
「大丈夫。」
誰かに聞かせるためではない。自分自身に言い聞かせるための言葉だった。女性は重い扉の取っ手に手をかけた。金具がかすかに鳴り、扉が開く。
白い大理石の床、高く吹き抜けた天井、太陽の光が柔らかく反射している。
黒い制服に身を包んだ職員たちは、慌てることなく歩いていた。誰も声を荒げない。走る者もいない。それは、客もまた然り。この場所は静けさそのものが規律であるようだった。
女性は受付へ歩み寄る。受付係は穏やかな笑みを浮かべ、一礼した。
「おはようございます。本日はどのようなご要件でしょうか。」
穏やかな声に胸が痛み、喉が乾く。練習していた言葉が、喉の奥でつかえた。それでも女性は、震える息と一緒にその言葉を口にする。
「……感情の売却をお願いします。」
「はい。かしこまりました。」
受付係はそう言って引き出しから、一枚の書類を取り出した。
厚みのある白い紙だった。女性の前へ、そっと差し出された。そこには端正な文字でこう記されていた。
――感情売却契約書。
「待合室でご記入ください。鐘が鳴り、番号が呼ばれましたら、第五査定室までお越しください。」
「……はい。」
女性は両手で契約書を受け取り、頭を下げた。
ただの紙一枚。それなのに、不思議と重かった。
待合室の壁紙には長椅子が並び、数人の来館者が腰を掛けている。
本を読んでいる老人、目を閉じたまま動かない男性、子供と一緒に絵本を読んでいる女性。
大人だけなのかと思っていた。だが、意外にも子供もいるようだ。
空いている席に腰を下ろし、契約書に目を落とす。記載されている項目は驚くほど少なかった。
年齢、性別、そしてその下。
《売却希望感情。》
空白はたった一行。
女性は万年筆を握った。指先へ力を込める。それでも、ペン先は紙に触れたまま動かなかった。書いてしまえば終わる。戻れなくなる。そう思ったのだ。
この一年、その言葉と共に生きてきた。眠れない夜も、何もできない自分を責め続けた時間も。
それでも、覚悟を決めて万年筆を走らせた。
「百七番のお客様。第五査定室へどうぞ。」
一歩進むたびに、鼓動が速く、大きくなっていった。廊下の最奥。第五査定室と記された扉があった。震える手を握りしめ、三度扉を叩いた。
「どうぞ。」
青年の声が聞こえた。意を決して扉を開ける。その中央で、一人の青年が立っていた。黒い制服、胸元には銀色の徽章。女性とそう変わらない年頃に見えた。整った顔立ちだった。けれど、その表情からは何も読み取れない。冷たい――そんな印象だけが残った。
青年は女性へ一礼した。
「お待ちしておりました。」
その所作には、一切の無駄がなかった。女性は勧められるままに椅子へ腰を下ろした。青年も腰を下ろし、差し出された契約書を受け取った。そして、記されていた二文字を読み上げた。
「売却希望感情。不安。」
女性は頷いた。青年は契約書から目を離し、女性をまっすぐ見て告げた。
「それでは。」
「査定を始めます。」




