のんびりだいぼうけん
シャミルに呼び止められた『彼女』は、しかしその言葉を完全に無視しました。
理由は簡単。ディーエンデンに言葉なんてものはなく、全ての音は雑音に過ぎないからです。仲間同士のコミュニケーションでさえ、ディーエンデンはフェロモンなどの化学的反応を用いて行います。音で呼び止められる、という発想すらありません。
このため『彼女』はその場を離れる動きを止めず、落ち葉を食べながら前進していたのですが……シャミルは『彼女』の前までやってきて、その行く手を遮るように立ちました。
「待って! 止まって!」
そして『彼女』の正面から殻に抱き着き、踏ん張って止めようとします。
尤も、一・二トンもの巨体に、お姫様の細腕が歯向かえる訳もありません。『彼女』の動きは寸分も遅くならず、そのまま前進し続けます。
「お、お願い! 一緒に来て!」
それでもシャミルは『彼女』を止めようとし、更にその理由も告げてきました。
どうやらシャミルは『彼女』に付いてきてほしいようです。
シャミル個人にとっては、それはどうしても頼みたい事でしょう。この森が如何に危険であるかは、サイタンの存在が証明しています。そのサイタンを軽々と打ち倒した『彼女』が傍にいれば、安全に森の中を進めると考えたとしても不思議はありません。
しかし『彼女』にとって、そんなのはどうでも良い事です。一国の姫君が野垂れ死のうと、獣に八つ裂きにされようと、『彼女』には関係ありません。何より言葉が分からないので「マッテ」だの「オネガイ」だの言われても、なんの事だがさっぱりです。
むしろちょっと鬱陶しくなってきたので、軽く突き飛ばしてやろうかと考え始めていました。『彼女』にとっては軽くでも、人間にとっては内臓破裂程度の威力はあるでしょう。
頭をシャミルの方に向け、さぁ一発……と少し身体を縮めた、その時です。
『彼女』の触角が、ある臭いを感じ取りました。
「……ウジュ、ジュゥー?」
「きゃっ!? え、な、何?」
『彼女』は頭を伸ばし、シャミルの身体のあちこちに口許の触角を伸ばします。触角でさわさわと触れられ、シャミルは驚いていましたが、『彼女』がある部分を集中的に探っているとハッとしたような顔をします。
「え、えと、た、食べます……?」
それからドレスを弄り、あるものを取り出しました。
出てきたものは、ビスケットです。
どうやらこのお姫様はお菓子を持ってきていたようです。『彼女』が感じ取った匂いはビスケットからのもので、『彼女』は力強く頭を伸ばします。その仕草に驚いたようで、シャミルはビスケットを地面に落としてしまいます。
この反応は、色々な意味で正解でした。
ディーエンデンはカタツムリの仲間であり、貝類の一種です。そのため彼女達の口はカタツムリと同じく、歯舌と呼ばれる器官を持ちます。歯舌は細かな歯が無数に並んだヤスリ状の舌で、カタツムリはこれで食べ物を削ぐようにして食べます。カタツムリの這った跡を見ると、綺麗に苔が削ぎ落とされた痕跡を確認出来るでしょう。
ディーエンデンも歯舌で食べ物を削ぎ取って摂取します。しかも彼女達の歯舌は非常に頑強かつ鋭く、小さな木ぐらいなら平然と粉砕出来ます。もしもシャミルがビスケットを持ったままなら、『彼女』はビスケットと一緒にシャミルの手の皮を削ぎ取って食べたでしょう。
「ウシャ、ウシャシャ」
そして野生動物であるディーエンデンは、落ちたものを食べる事に嫌悪なんてありません。僅かな躊躇いもする事なく、ビスケットを口に入れました。
「ウジュ、ジュゥ!?」
直後、衝撃を受けます。
ビスケットがとても甘かったのです。
シャミルが持っていたビスケットは、ごく普通のものです。確かに保存技術が未発達な今の人類において、砂糖は保存料としての非常に重要なもの。多めに入れて、保存性を高めるぐらいはしています。とはいえこのビスケットは旅の携行品ではなく、王族であるシャミルのおやつ。一日腐らないようにする程度なので、ちょっと甘味の強いビスケットぐらいの味付けです。
ですが自然界に、砂糖で味付けした菓子などありません。
ディーエンデンは植物食傾向の強い雑食性の生物。殆どの食べ物は植物由来と言ってもよいでしょう。そして植物は光合成により糖を作り出します。このためディーエンデンは糖類……炭水化物の類を『食べ物』と認識する傾向があり、積極的に摂取するためこれを好むという生理的特徴があります。要するに彼女達は甘いものが好きなのです。
とはいえ自然界に生える植物は、種にもよりますが、そこまで甘いものではありません。果実でさえほんのり甘い程度が殆どです。何故なら植物が糖を作るのは、あくまでも自分の成長のため。果実でさえ、種子散布のため動物を呼び寄せるのが目的であり、決して動物達の腹を満たすためではありません。光合成で作った糖類はさっさと消費して成長し、果実に含まれる糖分は限界まで削減するのが合理的でしょう。
つまり自然の植物は、そんなに甘くないのです。長年森の中で生きてきた『彼女』もほんのり甘い果実しか食べた事がなく、こんなにも甘い菓子は生まれて初めての味でした。
更に付け加えると、ビスケットの味自体が『彼女』にとって好みでした。焼いた小麦粉の香り、甘さを引き立てる塩気、乳製品由来の脂質……全てがドンピシャです。
「ウジュ、ウジュジュー」
もっと食べたい。もっと寄越せ。そんな気持ちで、『彼女』はシャミルに迫ります。
「き、気に入ったのでしょうか? そ、その、なら、一緒に来て、くれます……?」
シャミルは恐る恐る言いながら、『彼女』から離れるように歩き出します。
すると『彼女』はシャミルの後を追い始めました。
勿論、『彼女』はシャミルが何を言ったかなど、未だこれっぽっちも理解していません。ですが『彼女』はとても賢い生き物であるため、一つの名案を閃いたのです。
それはシャミルの後を追跡し、住処を突き止めるというもの。
『彼女』はシャミルが持ってきたビスケットを、もっと食べたいと考えています。そしてシャミルがそれを持っていた事も、『彼女』はちゃんと覚えています。ですから『彼女』は、シャミルがビスケットを何処かで手に入れた筈だと理解していました。
ならばシャミルの後を追えば、ビスケットのある場所に辿り着く筈。
『彼女』の気持ちを人間風に言うなら、「ビスケットがある場所に案内しろ」でした。そしてビスケットに辿り着き次第、シャミルから全部奪い取る算段です。守るどころか強奪しようと企んでいるのですが、『彼女』の認識は大した問題ではありません。
要は、受け取る側がどう感じるかが問題なのです。
「あ、ありがとうございます!」
シャミルは深々と頭を下げました。それが感謝の印だとは、感謝なんて行為の概念を持たない『彼女』にはどうでもよい事です。
「え、えっと、一緒に来てくれるなら、何か名前が必要ですよね。その、な、名前を付けても、よいでしょうか……?」
更にシャミルは『彼女』に名を与えようとしてきました。
これもまた『彼女』にとっては興味もありません。名前なんてものを知らない彼女にとって、どう呼ばれても構わない事です。
しかし『彼女』はとても賢く、聡明な生物です。名前なんてものが分からずとも、様々な経験を積めば「この音は自分を呼ぶものだ」と理解します。
故に、この時決まったのです。
「で、でんでん、というのはどうでしょう? その、とても可愛い名前だと思うので!」
これから長い事呼ばれる事となる『彼女』の名、でんでんという言葉は。
ちなみにでんでんという言葉は、シャミルが即興かつフィーリングで付けたものです。特に由来もなく、本当に「可愛いから」という理由で与えられました。
勿論でんでんはそんな事など知る由もありませんし、そもそもまだ「でんでん」が自分の名前だと分かっていません。何よりそんな事はどうでも良いのです。
「ウジュジュジュ〜」
そんな事よりも早くビスケットが食べたいでんでんは、シャミルにゆっくりと迫ります。返事なんてしたつもりもありません。
しかしウジュウジュという音を、シャミルは肯定的な返事と受け取りました。
「! よ、よろしくお願いします! では、その、あっちに行きましょう!」
深々とお辞儀をしたシャミルは、早速森を歩き出します。でんでんはその後を追います。
こうして何一つ噛み合わないまま、でんでんとシャミルの旅は始まりました。
そしてこれが、この世界に長らく語り継がれる伝説の始まりとなったのです。




