けんかばんちょー
或いは、巨人という方がその生物の容姿を表現するには適切かも知れません。
身長四メートルを誇り、長い足で二足歩行をしています。胴体は短い銀色の体毛に覆われ、森の薄暗い景色の中でも輪郭が浮かび上がっていました。腕も長くて、二メートル以上はありそうです。
そんな身体の巨大さに比べれば、随分と小さいのですが……頭部は人間よりも遥かに大きいです。顔付きは人間ではなくサル寄りですが、サルにしては人間寄りに見える、奇怪な顔立ちをしていました。
その奇怪な顔に満面の笑みを浮かべているのですから、人間的には酷く恐ろしい風体でしょう。
「ひっ……ひぃ!」
シャミルはすっかり怯えて、『彼女』の殻の裏に隠れます。
『彼女』は怯えません。その大きなサルの事を、彼女はよく知っています。何しろこの森に暮らしている、大型動物の一種なのですから。
サルの名はかつて――――五千年前の古代文明ではサイタンと呼ばれていました。
高い知能と優れた運動能力を持った存在で、「最強のサル」とまで呼ばれていました。食性は雑食性ですが、肉類を好む性質があり、自分より小さな生き物は積極的に狩ろうとします。人間だろうと例外にはなりません。
そしてサイタンは知能が高過ぎて、よく『遊び』をする傾向があります。具体的には獲物を生きたまま捕まえ、手足を引き千切るような事を好むのです。他には身体を半分だけ噛んだり、足を潰した後に逃がして追い駆け回したり。
それは人間の幼子が虫の足を千切って遊ぶようなもので、野生動物であるサイタンには悪意も残酷さもありません。ですがやられる側からすれば堪ったものではないのも事実です。
シャミルもこのサイタンに捕まれば、どんな拷問よりもおぞましい暴力の果てに命を落とすでしょう。
「……ウジュー」
しかし『彼女』にとっては、どうでも良い事です。シャミルの生死など、人間ではない『彼女』にとってはそこらにいる羽虫の生き死にぐらい興味がありません。
また、サイタン自体にも大した関心は持っていません。ディーエンデンもサイタンと同じ雑食性ですが、彼女達は主に落ち葉や植物、そこに含まれる菌類やキノコを好んで食べます。つまり植物食傾向の強い雑食性なのです。動物質も食べますが、主に骨や甲殻などを好み、肉類は基本的に摂取しません。
ですのでサイタンとはライバルと言える関係でもなく、精々通行人ぐらいの存在でした。キノコを食べ終えた『彼女』はのしのしと、この場を立ち去ろうとします。
「グブ、グブギブブブブ」
ところがどうした事でしょうか。サイタンは『彼女』の後を追ってくるではありませんか。
いえ、厳密には違います。サイタンが追っているのは、あくまでもシャミルです。
ところがそのシャミルが、『彼女』の傍から離れないでいました。サイタンが近付いてくると素早く動き、常に『彼女』の貝殻の後ろに隠れようとしていたのです。
本来ならば、これは無駄な抵抗です。一国の非力な姫様如きが、過酷な生存競争を生き抜いてきた巨大生物サイタンから逃れられる訳がありません。ですが先述した通り、サイタンは獲物で遊ぶ生き物です。シャミルの無様な抵抗が余程面白かったようで、右へ左へ、ニコニコしながら追い回していました。
「ひ、ひ、ひぃ、ひぃ……!」
追われたシャミルはすぐに疲れ、息を乱しています。
これもまた面白かったのでしょう。サイタンは大仰な、驚かすような動きでシャミルに迫りました。襲われる度にシャミルは死力を尽くして動き、けれどもすぐに疲れ果て、また脅かされて走る……これを延々繰り返します。
「グブィイヒヒヒヒヒヒ!」
気分が高揚したサイタンは笑い声を上げ、大きく両腕を上げながら跳ね回ります。それは遊んでいて楽しくなってきた犬や幼子が、無闇矢鱈に走り回るような微笑ましい感情です。遊ばれる相手が人間でなければ、ではありますが。
その高揚も長くは続きません。
シャミルの体力もいよいよ底を突き、脅されてもあまり素早く動けなくなってきたのですから。のろのろとした動きでは、サイタンを楽しませる事は出来ません。
そろそろ飽きてきたのと、空腹を自覚したところで、サイタンはいよいよ遊びから狩りへと移ります。
「グヒュウィ!」
サイタンは力強く跳躍。『彼女』の貝殻を跳び越えようとしました。そして這々の体で反対側に逃げ込んだシャミルを、大きな足で踏み潰すそうとしたのです。
これが止めになりました。
――――ただしシャミルの命に対して、ではありません。
『彼女』の堪忍袋の緒に対して、です。
「ウ、ジュウウウウアアアアアア!」
『彼女』は激しい、森の木々が震えるほどの咆哮を上げました。
もしもディーエンデンがただのカタツムリであったなら、サイタンの動きに怒りなど覚えなかったでしょう。カタツムリの単純な、思考とも呼べない神経回路では、サイタンの行動を理解出来ないのですから。
ですがディーエンデンは違います。ディーエンデンは身体を大型化させるのと同時に、神経細胞を全身に張り巡らせる進化を遂げました。それは本来、運動能力を強化するための進化でしたが……人間のような哺乳動物と比べ、軟体動物であるディーエンデンの神経系は未分化に近く、それ故に脳細胞の真似事が出来たのです。
勿論それは特定機能に特化してない事を意味しており、ディーエンデンの神経細胞は、脳細胞としては些か低品質です。人間の脳と同じ量を集めても、人間には遠く及ばない知能にしかなりません。しかしディーエンデンは性能の低さを、数で補いました。全身の細胞が思考する事で、野生動物としては卓越した知能を会得したのです。それこそ『賢王』の異名が名前負けしないぐらいの知能を。
優れた知能を持つからこそ、周りを飛び跳ねていただけのサイタンを「鬱陶しい」と思った訳ですが。
サイタンは『彼女』をおちょくる気などありません。ですがシャミルの周りを跳ね回る動きは、結果的に『彼女』の周りをちょこまかと動き回る事になりました。
『彼女』含めてディーエンデンは大人しい生き物です。積極的に動物を襲う事もなく、どちらかと言えば争いは避けようとします。
しかし決して優しくはありません。邪魔だと判断すれば、容赦なく排除します。そしてそのための選択肢から、暴力が除外される事はありません。
「ウジャアッ!」
怒り狂った『彼女』は身体を仰け反らせます。
身体の動きに合わせ、背負う貝殻も大きく動きます。その動きはサイタンの胴体を直撃。サイタンの身体に打撃を与えました。
「ギャボッ!? ゴ、ウゴッ!?」
「きゃあっ!? へ、えっ!?」
打撃によってバランスを崩したサイタンは、シャミルの真上を通り過ぎ、反対側へと落ちます。シャミルは驚き、戸惑うばかりです。
今この瞬間、サイタンがシャミルに手を伸ばせば、あっさり捕まえる事が出来たでしょう。ですがそうはなりません。
「グ、グォオボアアアアアッ!」
今度はサイタンが怒り狂ったのですから。
先に(その気はなかったとはいえ)ちょっかいを出したのはサイタンの方。人間ならば誰しも抱く理性的な指摘は、この野生の地では無意味です。己の感情・主観こそが正しく、相手の立場などこれっぽっちも考えません。
『彼女』もサイタンと同じく自分の感情に従います。
「ウジュァアアア!」
「グボォオオ!」
互いに向き合い、咆哮をぶつけ合います。どちらも一歩も引きません。
サイタンは兎も角、カタツムリである『彼女』は何処から咆哮を出しているのでしょう? それは肺へと繋がる穴……背負っている殻の近くにある気管です。筒のようなそれの入口を狭くしつつ、大きく息を吐き出す事で吼えています。
二体の巨大生物の威嚇合戦の間に、シャミルはわたふたしながら離れます。サイタンからすれば獲物が逃げている状況ですが、最早どうでも良くなっていました。『彼女』は端からシャミルの事など気にしていません。
そんな二体の気持ちは今、全く同じです。
この鬱陶しい邪魔者をぶちのめしたい、と考えていました。
「ウジュゥアアアアッ!」
そして真っ先に襲い掛かったのは、賢王ディーエンデンこと『彼女』の方でした。
賢さどころか野蛮さを剥き出しにした『彼女』は、体当たりを繰り出します。
カタツムリの体当たりなんて……と見くびったものは、次の瞬間死に至るでしょう。ディーエンデンは一般的なカタツムリと違い、身体の側面部分を足のように使って歩く事が出来ます。即ち三メートルもある身体の大部分が体重を支えられる、発達した筋肉となっているのです。
その筋肉を最大限活用した時、重さ一・二トンを優に超える巨体を、体長と同じ距離だけ跳ばす事など造作もありません。
「ゴフッ!?」
サイタンの巨体が、『彼女』の突進を受けて突き飛ばされます。サイタンも体重九百キロを超える巨大生物なのですが、『彼女』の重さからすれば軽量級の相手に過ぎません。
近くに倒れていた朽ち木が粉々に砕けるほどの勢いでサイタンは地面を転がります。片手で巨木の根を掴み、勢いを止めなければ二十メートルは軽く転がっていたでしょう。
「グゥウウ!」
そしてすぐに立ち上がります。
何時までも寝転がっていたら追撃を受ける。この森で長く生きてきたサイタンは、戦いの基礎を理解しているのです。
ところが、同じくこの森で長く生きてきた『彼女』は追撃に出ません。しかもサイタンが立ち上がるのを警戒した様子もなく、体当たりを食らわせた場所で身体をもたげていました。
「ウジュジュジュゥ〜」
続いて警戒心も敵意もない、気の抜けた声を出しました。ディーエンデンに言葉はありませんが、感情的に意味するところとしては「悔しかったら反撃してみな〜」でしょうか。
カタツムリを凌駕する知能は、ムカつく相手を小馬鹿にする事も出来るのです。
「ギ、ギギィイアアアアアアア!」
勿論聡明なサイタンは馬鹿にされた事を理解し、だからこそ激しく怒ります。怒りの感情のまま『彼女』目掛けて駆け出し、握り締めた拳を振り上げました。
『彼女』はそれを前にしても動きません。
見えてはいます。ディーエンデンの目は普通のカタツムリと違い、解像度も動体視力も優秀です。サイタンの振るう拳が如何に速くとも、『彼女』の目はそれを追い、危険ならば頭を引っ込める事も可能です。
つまり『彼女』は動かなかったというよりも、避けなかったのです。
「ボギャアッ!」
サイタンは力いっぱい、『彼女』の頭を殴りました。
殴った衝撃は凄まじく、爆発にも似た音が響きます。離れた位置に隠れていたシャミルが、驚いてひっくり返るほどの大音量でした。人間がこの拳を受けたなら、もしかすると衝撃で手足がもげたかも知れません。
『彼女』にとっては、身動ぎすら必要ない程度の一撃でしたが。
「……!? ホ、ホォアッ!」
手応えのおかしさを感じたのでしょう。サイタンは一瞬身を強張らせた後、もう一発の攻撃をお見舞いします。
その攻撃はまた『彼女』の頭付近を打ちました。『彼女』は動いていないため、サイタンにとって大体狙い通りの位置に打ち込めています。
ところが『彼女』の身体は揺らぎません。
精々風でも通り過ぎたかと言わんばかりに、涼し気な様子です。それが強がりでない事は、殴ったサイタン自身がよく理解しているようでした。サイタンは唖然としながら、一歩、また一歩と後退りします。
ディーエンデン相手に殴り合いなど、無謀としか言いようがありません。
ディーエンデンの体組織は極めて柔軟性に富んでおり、物理的な衝撃を一時的に吸収、その後拡散させる性質があるのです。このため非常に強力な、同程度の体格の生物ならば十分殺せる威力の打撃にさえも難なく耐えられます。
攻撃をするなら『刺す』などの方が効果的です。尤も、サルの仲間であるサイタンの身体でそれが出来るのは、爪か歯ぐらいしかないのですが。
「ウジュゥアアッ!」
今度はこちらの番だとばかりに、『彼女』はもたげた身体を振るいます。
またも体当たりです。手足を持たないディーエンデンにパンチやキックは放てず、これが基本的な攻撃になります。とはいえ自身の体組織は衝撃を分散して無効化し、相手にだけ打撃を与えられるのですから、一方的な攻撃です。
「ブォッ!? オッ……!」
体当たりによって突き飛ばされたサイタンですが、今度はしっかりと踏ん張ります。そして少し間合いを開けた状態で立ち止まりました。
『彼女』からあまり離れていない、けれども体当たりは当たらず、自分の拳は届く距離で戦おうという魂胆のようです。これなら一方的に攻撃できます。いくら『彼女』に殆ど打撃が通じなくても、全くのノーダメージでない以上、有利な立ち位置から一方的に叩けば何時かは勝てる……確かにその通りです。
しかし甘い見積もりでした。手足を持たない『彼女』ですが、中距離を攻撃するための方法は持ち合わせています。
それは突如として身体の左側から飛び出した、半透明な突起物です。
突起物は一気に長さ一メートル近く伸びます。極めて鋭い先端は、まるで人殺しのための武具である槍のよう。それが高速でサイタンの方へと迫り、肩に命中しました。
サイタンの身体は分厚い毛皮で覆われており、弓矢程度であればろくに通しません。ところが『彼女』の繰り出した透明な槍は、サイタンの皮を切り裂き、肉を貫きます。
「ヒホアアアアッ!?」
これにはサイタンも驚き、痛みから悲鳴を上げました。突き刺された肩の傷口を手で抑え、血のぬめりを感じて動揺した表情を浮かべます。
『彼女』は繰り出した槍を体内に引っ込め、何食わぬ顔(表情筋などありませんが)をしていました。
この槍の正体はなんでしょうか?
答えは恋矢と呼ばれる、カタツムリの生殖器です。一般的にカタツムリはこの恋矢を相手の身体に突き刺す事で、互いに精子を送り合って交配します。カタツムリはとても生命力の強い生物なので、身体に穴が空いたぐらいでは死にません。精子を送り込まれた後に再生し、問題なく産卵を行えます。
ディーエンデンも同様の繁殖方法で次世代を作るのですが、何しろ三メートルもの巨体、そして強靭な筋肉で覆われた肉体です。生半可な恋矢では刺さるどころか表面で折れてしまいます。必然交配が行えたのは、より丈夫な恋矢を持つ個体でした。
恋矢は世代を重ねる毎に頑強さを増し、今では普通の武器として使えるようになったのです。ちなみにディーエンデンの恋矢は折れてもしばらくすれば再生するため、多少乱暴に扱っても大きな問題にはなりません。尤も、サイタン相手なら折れる心配はまずいらないでしょう。
「ウジュジュゥゥィィ〜」
「ホ、ホ、ホァ、ホォ……!?」
悠々と『彼女』が歩み寄れば、サイタンは怯えを露わにします。どうやら怪我を負った事で、すっかり弱気になってしまったようです。
人間には情けない姿に見えるかも知れませんが、野生動物からすれば合理的な判断です。今回は肩だから大したダメージではありませんが、もしも目や胸を貫かれていたらどうなっていたでしょうか? 最悪致命傷となったかも知れません。
今までの認識を改め、危険な相手だと判断したのです。そして助かるためには、動物であるサイタンはなんだってします。助けてくれ、見逃してくれと言わんばかりのジェスチャーでの命乞いも、心から、躊躇いなくやってのけます。
しかし残念ながらディーエンデンには言葉なんて概念はありません。『彼女』はサイタンの顔面近くまで接近し、
「ウジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
渾身の雄叫びを浴びせました。
「ホァアァアアァァ!?」
大声を浴びせられて、サイタンは大慌てで逃げ出しました。即座に背を向け、二度三度転びそうになりながら、走っていきます。
「ウジャジュ〜」
『彼女』はその後ろ姿を見て、ご満悦です。
ディーエンデンは植物食傾向の強い雑食性であり、大型動物を好んで殺そうとはしません。先の戦いも相手の生意気さが癪に障ったのが開戦理由であり、サイタンが分を弁えたならそれで良いのです。
自分が勝者である確信を得られたなら、あのサイタンをどうこうする気はありませんでした。
「ウジュゥゥ」
そしてサイタンをやっつけた事で、『彼女』は日常へと戻ります。何時ものように落ち葉や草葉を食べ、天敵もなくのんびり暮らす日々を送ります。
そう。普段ならばそうなるのです。
しかし今日は少し事情が異なります。
「ま、待って!」
何故なら此処には『彼女』よりもずっと賢い、この星の知的生命体・人間がいるのですから。




