77
ごくりっと喉が鳴る。
子供たちに会わせたくない。顔を見せたくもない。そう思った。
どういう意図でやってきたのか分からないけれど、何となく心で警報が鳴った。
母親の勘、というやつかもしれない。子供たちを全力で守るべきは今だと、そう自覚した。
「先生‥‥‥どうしてあの人を! 裏切った男なのに」
「かもしれませんが、あちらはあちらで話があるようですよ、リシェル。嫌ならここで連れ帰ります。どうしますか」
元夫婦。今は赤の他人。しかし、互いに子供に関しては親であるわたしたち……。いま追い返しても、もしかしたら光の神殿の関係などで、また余計なちょっかいをされないとも限らない。ここは――嫌でも話しておくべきだと思った。
「いいえ、話があるというなら――、はい……」
「屋敷で待っていますね。車内なら、声も漏れないでしょう」
「感謝いたします‥‥‥あの、子供たちを」
「彼以外がやってきても、私が守りましょう。あなたこそ、何かあったらスキルを使いなさい、リシェル」
先生が子供たちを守ってくれる。そこにはなぜか全幅の信頼を寄せることができた。
それなら安心だ、と感じれた。
こくりと肯くと、わたしは馬車に向かう。
列車のなかで襲われたときでも、こんなに足は震えなかったのに。
ただ元の夫に会うと思うだけで、それは止まることを知らない。
唇を噛み、何を言うべきか。どうすればいいのかと脳裏で何度も何度も繰り返して、『隠匿者』を発動させる。
できるだけ、穏便に済ませよう。声を荒げることないように終わらせよう。
親同士がいがみ合う光景ほど、子供にとって悪影響を及ぼすものはないはずだから。
あの男がここまで来るのだから、その理由はだいたい察しが付いた。
光の神殿関係で妹と疎遠になったか、それともわたしを持ちだして行う何かがあるのか。その二つだ。
どんな話になったとしても、最悪、彼を殺したとしても――子供だけは守り抜いて見せる。
震える足で御者が開いてくれたドアをくぐる。
たった三段の引き出し式の階段が、永遠に続くような感覚を覚えた。
車内にいる彼の顔を見て、わたしはその変わりように思わず喉を鳴らした。
それまでの怒りと焦りが急速に音を立てて、心のどこかに消えていく。
エドワードの外観はそれほどまでに、変わっていた。
「あなた‥‥‥」
かつての精悍な顔つきをしていた彼の面影はなく、記憶にあるような騎士としての威厳のかけらすらも見当たらない。髪は抜け落ち、顔面には無数の皺が刻まれ、目にはこれから死刑を執行される罪人のような怯えが見て取れた。人生に疲れ果てやさぐれたどこかの見知らぬ誰かがそこにいた。
わたしの声に、彼は俯いていた顔をもちあげると、罪を告白するように謝罪を口にする。
「リシェル‥‥‥すまん。ここまで来てしまった……」
「何を謝罪して貰っても、もう遅いわ。どうして戻ってきたの、エドワード」
「違うんだ、俺は、俺は……」
座席に座ると、御者が扉を閉じようとする。それを拒んだ。
逃げ場がなくなれば、彼はどうするか大体の判断ができていたから。
密室でわたしが彼の提案を拒絶すれば、問答無用で暴力をふるうのは目に見えていた。
人目を気にしてまともに生きることのできない愚か者。それが元夫、エドワードだったからだ。
「閉めませんと」
「開けておいて」
「ですが――」
「いいから従いなさい!」
うしろを振り向かず、腰を浮かせたままでそう叫ぶと御者はなんなんだよ、と吐き捨てて前の御者席に戻っていった。
「リシェル!」
「触らないで! わたしはもうあなたのモノじゃない!」
「お前ッ、誰にものを言って‥‥‥」
呻くように、蟲が這いまわるような怖気のする声で、エドワードは絶句する。
何かを叫ぼうとして、わたしに拒絶されるのを恐れたのか、彼は視線を逸らした。
追い返すには今しかない、と感じたわたしは、彼に命じる。
「帰りなさいよ! 子供たちもあなたには必要がないでしょ。わたしだって、あなたを必要としていない」
「俺は、お前が。お前がいるんだ、お前たちが必要なんだ……カミーナのやつはもうだめだ、あれじゃもう‥‥‥伯爵家は。このままじゃ、何もかもが終わってしまう。家が廃嫡されてしまう!」
「そんなものは知りません! 離縁され国外追放された時点で、あなたとの縁は切れています! わたしはもう王国貴族じゃない……この国に流れ着いたただの移民だわ。お門違いよ」
「お前っ! ならいっそ、丁度いいじゃないか! どうして貴族の生活に戻りたくないんだ? 子供たちだって貴族になれば、こんな辺境で暮らすことなくもっと贅沢をさせてやれるのに! それでもお前は母親か」
勢いに任せて彼は席を立つと、天井に頭をぶつけながら迫ってくる。
その両手が自分の肩にかかろうとした時、恐怖を感じてスキルを使った。
エドワードの全身が、なにか見えない手で叩かれたように吹っ飛び、馬車の角にぶつかって彼は床に崩れ落ちる。
そんなに強い衝撃ではなかったはずなのに、それでも立ち上がれずに呻いている彼を見ると、なんだから哀れな虫を見ている気分になった。
鳥やクモの巣に囚われて逃げる力も失い、ただただ死に至る運命だけを受け入れることができずに、もがき続ける虫のような存在。
そう思うと、もう何も恐れる者はここには無い気がした。
床に這いつくばるエドワードの胸倉をつかみ上げると、その全身は思ったよりも軽くかった。
目の前に引き寄せてから彼と視線を同じにする。
わたしのスキルを打ち消せる彼のスキル『斜陽』が、『隠匿者』の効果を打ち消すかと思って恐れていたのだけれど、それは無用の心配だった。
今の元夫には、スキルを使うような気力すらも失われていたのだから。




