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拳を握りしめ、側を通り過ぎる台車に積まれていた料理のなかから、バスケットに載せられたパンをひょいと一つ掴んで口の中に放り込む。
「あっ、ちょっと‥‥‥」
呆気に取られていたら、半分ほど食いちぎったそれをわたしにも押し付けてきた。
「見てよ、リシェル。誰も気づいてない」
「え‥‥‥」
言われて、わたしは周りを見渡した。
みんな、食事や会話に夢中になっていて、台車からパンが消えたことを、それを押して運んでいる給仕ですら気づいていない。
「ほら、誰も私たちを認識していません。異質な、空気のようなものですよ、リシェル。人は空気を読むけれど、私たちは読まれていない」
「そう、ね。ちょっと、押し付けないで」
「いいから、食べて」
口にパンを詰め込まれて、わたしはむぐっと言葉に詰まった。
思いあぐねていた考えが強制的に終わりを告げると、それまで聞こえてこなかった食堂車のざわめきが耳の奥に殺到する。
当たり前にあった音すら聞こえないくらい悩みに囚われていたのだ。
口の中でパンを咀嚼すると、はあ、と大きなため息が漏れた。
いまさら、後悔しても遅いじゃない。もう始めたんだから。
二度目? それとも三度目? 考えすぎはわたしの悪い癖だ。目を瞑り、侍女の尻尾をつかんで友人が側にいてくれることに感謝する。
「痛い‥‥‥」
「パンのつまみ食いの共犯にした罰よ」
「リシェルだって食べたじゃないの。まったく‥‥‥それで、落ち着いた? 大丈夫」
「任せて。大丈夫」
わたしたちが襲撃されたあとだというのに、夫人がそこにいて歓談している。
その相手は、あの老紳士と、それから数人の男女が彼女と同じ卓にいた。
「どう思う」
「どうって‥‥‥ここではないのじゃないかな、と。あの紋章を目当てにして失敗したことはすでに分かっているだろうし。夫人目当てなら、ですけれど。そうなると夫人の部屋がどこかは分かりませんが、多分、奥でしょうね」
「そうね。上級層の部屋があるのは、最後尾とかその辺りだったはず」
もし、夫人を襲撃するとなると、犯人たちが選ぶのはそこだろうと思われた。
ならば、やることは一つだけ。
ここより奥で待機しているだろうその連中を、無力化するのみ。
スウェイはいままでよりもより強く、剣の柄を握りしめていて、わたしもあらかじめ拳に魔力を込めるのを忘れなかった。
車掌さんに、給仕に、乗客たちに。
何よりも、夫人の周囲から少し離れたテーブルに座る誰かが怪しい気もする。
獣人らしく俊敏なスウェイは、辺りの雰囲気をうまく読み取って、誰にもぶつかることなくわたしを扇動してくれる。
「スウェイ、その左のテーブル! 二十代の男」
「はいっ!」
指摘すると、その返事には嬉々とした何かが含まれている。
スウェイはこのあぶり出しを狩りか何かと勘違いして、祖先の獣の血が騒ぎだしているのかもしなかった。
見るからにおっとりとした眼鏡の男性が、そこには座っている。
長身、猫背で、しかしそのジャケットの内側には短剣を帯びていて、彼の心の中には冷ややかな無機質めいた感情が座っていた。
殺意、標的を仕留めるときに狩人がする独特の息を潜めた何かが、宿っている。
スウェイは鞘の剣先で、彼の胸の中央、人体の急所にそれを打ちこんだ。
もちろん、彼の痛みは次の駅に着く手前で発生することになる。
「右奥、髪を撫でつけた紳士!」
「はいはいっ!」
今度はシルクハットを目深にかぶった、コーヒーとパンの軽食を口にしていた人物。その視線は猛禽類のようにするどく、夫人に向けられていた。袖口に機械式に打ち出す、鋭利な針を仕込んでいる。
こちらは両方の腕をへし折るくらい、勢いをつけて打ち据えるスウェイ。
三人目は、驚いたことに初めて顔を見る車掌だった。
四十代、食堂車の向こう側から扉が開いて顔を覗かせる。
彼はあちらの車両で待機している刺客たちとの連絡役のようで、スウェイは腹部を殴打していたけれど、その頭の中にはいろんな計画が記憶されていた。
この次の駅――トンネルを抜けた先にある駅についての情報だ。
岩山を越えた向こうからも王国へと戻る路線があるらしい。
夫人はそちらから王都に向かう予定だと彼は知っていた。その方が、直線で向かうよりも移動時間が短くなるのだということ。その旅程の合間に彼女を殺そうと狙う殺し屋があと二名いること。その両名がどの列車のどこに待機しているかも詳細に分かった。
そして、夫人が狙われることの理由。その端的な内容も――わたしの頭の中に流れ込んできた。
「全部で八人もいるなんて」
「えっと? あれ以外に?」
と、呻くように言うわたしの声に、スウェイは首を傾げた。
これまでしばいてきた人々は二十を下らない。
それを越えてもまだ、この列車には救われない愚かな人殺しを目論む奴がいるの、と彼女も顔に呆れを浮かべていた。
「そうねー‥‥‥。あのエントス夫人、やっぱり大した人物みたい」
「どういう存在なのか、知りたくはありますけれど」
「聞かない方がいいわよ。それに次の駅までの関係みたいだし」
「実家に戻るって言われていましたが、王都方面に戻るのでしょうか」
「あの岩山の手前にも王国の領土はあるし。そこまでは関わりたくないかな」
これから王国を去ろうというわたしたちが、あとまで続きそうな王国や神殿の揉め事に関わる意味が見いだせない。
あくまでこの蛮行も、こちらが危険に晒されている可能性があるからやっているだけ。
「そうですね。ところで」
「え?」
「やっぱり光の神殿絡みなの、これって」
多分、とわたしは頷く。
その会話の間にも一人、追加でスウェイは剣を振るい、わたしたちは後部車両に移動していた。




