因果応報
「隣の市まで行ってくる。昼過ぎには戻るよ」
十月十八日、日曜日の朝。父は玄関で靴を履きながら、ひびの入った眼鏡を指で押し上げた。
「新しいのができるまで一時間かかるらしい。ついでに、向こうで昼を食べてくる」
「いってらっしゃい」
母が手を振り、父は車のキーを鳴らして出ていった。エンジンの音が遠ざかるまで、耀司は廊下に立っていた。
(隣の市)
内側で、月代がつぶやいた。
(現金書留の消印と、同じ町)
(うん)
夜明けの境目に、月守は言っていた。今日は、字を運んだ道を追う日になる、と。昼の番を引き受けた照真は、窓辺で朝日を背にして、耀司の顔を見ていた。
「因果応報という言葉がある」
照真が言った。
「善い行いにも悪い行いにも、必ず報いが返ってくる。だが、報いは天から降ってくるのではない。人が自分で積んだものが、自分のところへ戻ってくるだけだ。今日は、それを確かめに行け」
「何を、確かめるの」
「二十八年前の夜、誰がどこからどこへ動いたのか。動いた者は、必ず跡を残す。車輪の跡か、靴の跡か、誰かの記憶の跡か」
居間の鳥かごの中で、ピー助が止まり木から身を乗り出していた。
「連れていけ」
ピー助が言った。いつものかすれた声だった。
「今日は、俺も行く。中のやつが、行きたがってる。俺も、行かなきゃいけない気がする」
玄関で靴を履いていると、二階から兄の慧が降りてきた。寝癖のついた頭をかきながら、冷蔵庫から牛乳を出して、パックのまま口をつける。
「慧兄さん、行儀悪い」
「休みの日くらいいいだろ」
慧は牛乳を戻し、ふと真顔になった。
「なあ、耀司。最近、親父、ピリピリしてないか」
「え?」
「夜中に、居間で一人で起きてるんだよ。電気もつけないで。俺、トイレに起きた時に二回見た。声かけたら、眠れなくてな、って笑ってたけど」
慧は、少しだけ言いよどんだ。
「おまえ、親父と何かあったか」
「……別に」
「そうか。ならいい。母さんには言うなよ。心配するから」
慧はそれだけ言って、二階へ戻っていった。耀司は、兄の背中を見送ることしかできなかった。
耀司は、衿子が保育園の日曜行事に出かけているのを確かめてから、鳥かごの扉を開けた。ピー助は迷わずパーカーのフードへ飛び込んだ。
野上モータースのシャッターは、日曜でも半分上がっていた。
「また来たのか」
野上は車の下から這い出し、油まみれの手をタオルで拭った。事務所の窓から、小さな娘が手を振っている。耀司が手を振り返すと、娘はうれしそうに引っ込んだ。
「今日は、何だ」
「平成十年の頃、この辺りを走っていたタクシーの運転手さんを探しているんです。事件の夜、倉庫街の近くで客を乗せた人がいないか」
野上は、少し考えてから言った。
「それなら、滝本さんだ。鏡ヶ浦交通で四十年ハンドルを握ってた人だよ。もう引退したが、自分の車の点検で、今もうちに来る。あの人なら、当時この辺りを夜中に流していたはずだ」
「会えますか」
「電話してやる。あの爺さん、話し好きだから、喜んで来るぞ」
三十分後、古い紺のセダンが工場の前に停まった。
降りてきたのは、白髪を短く刈り込んだ、背筋の伸びた老人だった。七十代の半ばくらい。運転手らしい、目尻の深い皺と、よく日に焼けた首筋。手には、輪ゴムで束ねた古い手帳を何冊も抱えていた。
「滝本与一。タクシーのことなら何でも聞いてくれ」
老人は、作業台の上に手帳の束をどさりと置いた。
野上の娘が事務所から飛び出してきて、「タキモトのおじいちゃん!」と老人の足に抱きついた。滝本は皺だらけの顔をほころばせ、ポケットから飴玉を一つ出して娘の手に握らせた。
「四十年分の乗務手帳だ。会社の日報とは別に、自分でつけてた。いつ、どこで、誰を乗せて、どこで降ろしたか。運賃と、天気と、客の様子。癖になってな。女房には、そんなもの何の役に立つんだって笑われたが」
滝本は、一番上の手帳の表紙を、皺だらけの指で撫でた。
「その女房も、八年前に逝った。手帳をつけるのは、もうやめた。運転もやめた。でも、捨てられなくてな。四十年、毎晩誰かを乗せて、誰かをどこかへ送り届けた。その全部が、ここに書いてある。俺が生きてた証みたいなもんだ」
照真が、作業台の手帳の束を見下ろした。
「これは、記録だ。記憶ではなく」
滝本は、平成十年の手帳を抜き出して、ページをめくった。
「平成十年の九月の終わり、倉庫街の近くで客を乗せたか、だったな」
「はい。二十七日の夜です」
「二十七日、二十七日……」
滝本は指で日付をなぞりながら、ふと顔を上げた。
「あの夜のことなら、覚えてるよ。手帳を見なくてもな。雨の土曜の夜だった。倉庫街の入口で、ずぶ濡れの若い男を乗せた」
耀司の手が、膝の上で強張った。
(土曜?)
内側で、月代が鋭く反応した。
(事件は、日曜の夜だよ)
「土曜、ですか」
「ああ、土曜だ。間違いない。次の日の日曜は、朝から競馬場の客を送ったからな。土曜の夜に乗せた若いのが、えらく暗い顔をしていて、ああ、土曜の夜に振られたのかって思ったんだ」
耀司は、言葉を失った。
土曜なら、事件の前の晩だ。二人が殺された夜ではない。だとすれば、その若い男は、事件とは何の関係もないのかもしれない。
(耀司、待って)
月代の声が、落ち着いていた。
(覚えてることと、書いてあることは違うかもしれない。滝本さんは、手帳を見なくても覚えてるって言った。でも、手帳はそこにある)
耀司は、ゆっくりと口を開いた。
「滝本さん。手帳の方も、見ていただけますか」
「ん? ああ、いいとも」
滝本は老眼鏡をかけ、九月の終わりのページを開いた。
照真が、そのページに光を落とした。白い光の中で、鉛筆の細かい字が浮かび上がる。
――九月二十六日(土) 雨なし。夜は駅前待機。二十二時、上がり。
――九月二十七日(日) 朝、競馬場送迎二件。夕方より雨。二十三時五分、倉庫街入口→役場前。男一。千二百八十円。ずぶ濡れ。傘あり、差さず。首元をしきりに触る。
――九月二十八日(月) 朝から鏡座の解体業者の送迎。
滝本の指が、止まった。
「……日曜、だ」
老人の声が、かすれた。
「土曜は、雨が降ってない。競馬場の客を送ったのは、同じ日曜の朝だった。俺は、夜の客を乗せた次の朝に競馬場へ行ったんだと、ずっと逆さまに覚えてた。それで、頭の中で一日ずれてた」
照真が、静かに言った。
「人の記憶は、近くにある別の記憶に引っ張られて、少しずつずれる。二十八年もたてば、一日くらい、たやすくずれる。だから、記録が要る」
「二十三時五分」
耀司は、手帳の数字を声に出した。
「倉庫街の入口から、役場の前まで」
滝本は、手帳を閉じて、しばらく黙っていた。
「その客のことを、もう少し聞かせてください」
耀司が言うと、滝本は顔をしかめた。
「若い男だ。二十代の半ば。背広じゃなかったが、ちゃんとした身なりの、役場か銀行に勤めてそうな男だった。傘は持ってたのに、差してなかった。頭からつま先までずぶ濡れで、靴に泥がついてた。川の泥だ。においで分かる」
「首元を触っていた、というのは」
「ああ。乗ってから降りるまで、ずっと首のあたりを触ってた。ネクタイでも直すのかと思ったが、ネクタイはしてなかった。何かを探すみたいに、首の後ろを何度もさすってた。鎖か何かを、なくしたみたいにな」
フードの中で、ピー助が小さく爪を立てた。耀司は、首の後ろに小さな爪が食い込むのを感じた。
「役場の前で降りる時、そいつは千円札を二枚出して、釣りはいらないと言った。それから、こう言ったんだ」
滝本は、作業台の縁を指で叩いた。
「今夜、俺を乗せたことは、誰にも言わないでくれって。宿直を抜け出したのがばれたら、首になるから、と」
「宿直……」
「役場の宿直だよ。若い職員が交代で夜通し庁舎に詰める。それを抜け出して、女にでも会いに行ってたんだろうと思った。若いうちは、そういうこともあるさ。だから、黙っててやった」
滝本は、目を伏せた。
「事件のあと、警察がタクシー会社を回ってきた。あの夜、倉庫街の近くで客を乗せなかったか、と。俺は、乗せてないって答えた。あの若いのとの約束を守ったつもりだった。土曜の夜の話だと思い込んでたからな。事件の夜の話とは、思わなかった」
老人は、両手で顔を覆った。
「二十八年、土曜だと思ってた。手帳を見れば、すぐ分かったのに。見なかった。見る必要がないと思ってた」
野上が、作業台の隅で黙って滝本の肩に手を置いた。
耀司は、手帳のページを見つめた。
黙っていた運転手。思い込みでずれた一日。そのずれが、二十八年、誰かの夜を守り続けてきた。
(役場か、銀行に勤めてそうな、二十代半ばの男)
月代の声が、耀司の意識の底で冷たく響いた。
(決めつけないで、って、私が言う番だね)
(うん。分かってる)
分かっていた。分かっていても、心臓の音は、耀司の言うことを聞かなかった。
「その若い男の人の名前は」
「知らん。乗せたのは、その一度きりだ。顔も、もうはっきりとは覚えてない。眼鏡は……かけてなかったと思う。雨で、外してポケットにしまってたのかもしれんが」
照真が、耀司の耳元で言った。
「顔の記憶は崩れる。だが、二十三時五分、倉庫街の入口、役場の前、宿直、首元を探る手。これは崩れない」
「乗ってみるか」
手帳を閉じたあと、滝本が言った。
「同じ道を、同じ時間で走ってやる。日が暮れたら、あの夜に少しは近くなるだろう」
夕方、滝本の紺のセダンが、倉庫街の入口に停まった。
川沿いの道が、錆びたトタン屋根の倉庫街へ折れていく角。古い街灯が一本、まだ点かずに立っている。三番倉庫は、ここから歩いて二分ほど奥だった。
耀司は助手席に乗り込んだ。照真が、後部座席の扉の前に立ち、耀司の背に手を伸ばす。
「月代を出せ。あの男が座っていた席に」
耀司の影がシートの影と重なり、そこから月代が立ち上がって、後部座席に腰を下ろした。霊体の月代は、窓の外の倉庫街をじっと見つめていた。
車を出す前に、耀司は窓から倉庫街の奥を指さした。
「滝本さん。二人が見つかったのは、どの倉庫ですか」
「七番だ。この入口から、すぐ手前の、あの白い壁の倉庫。三番は、もっと奥」
照真が、倉庫街の地面に光の線を引いた。入口の街灯。すぐ手前の七番倉庫。そこから奥へ、歩いて二分の三番倉庫。
「二人は入口のすぐそばで見つかった。三番倉庫は、奥の暗いところにある。同じ夜、同じ倉庫街の、近い場所と遠い場所」
月代が、後部座席から倉庫街の奥を見つめていた。
(近い方は、見つかってもいいと思った。遠い方は、見つかってはいけないと思った)
(そう考えるのは、まだ早いよ)
(分かってる。でも、二つの場所の違いが、そう言ってる)
「出すぞ」
滝本がメーターを倒す仕草をして、車を出した。
倉庫街を抜け、川沿いの道を南へ。駅裏の駐車場の脇を通り、劇場の跡地の前を過ぎ、商店街を横切って、町役場の前へ。
滝本は、時計を見ながら、ゆっくりと車を走らせた。
「雨の夜なら、八分ってところだ」
後部座席で、月代が目を閉じていた。
(耀司)
(何か、分かる?)
(ここに座っていた人は、ずっと窓の外を見てた。川の方を。何度も振り返って)
月代の声が、震えていた。
(それから、ずっと首の後ろに手をやってた。何かがなくなったことに、気づいてた。でも、戻れなかった)
フードの中で、ピー助が低く言った。
「戻れるわけがねえ。戻ったら、あそこに俺がいる」
年上の、乾いた声だった。耀司の背筋が凍った。
「あいつは、十一時ちょっと前に、シャッターを下ろした。重たい音だった。それから、走っていく足音。雨の音。遠くで、車のドアが閉まる音。それきり、誰も来なかった。何年も、何年も」
「ピー助」
耀司が小声で呼ぶと、フードの中の気配が、ふっと軽くなった。
「……今のは、中のやつだ。俺じゃねえ」
いつもの、かすれた声に戻っていた。
「でも、中のやつの言うことが、全部嘘とは限らねえ。音だけは、嘘をつかねえからな」
車が、町役場の前に停まった。
時計は、倉庫街の入口を出てから、ちょうど七分を指していた。
夕陽が、庁舎の窓を赤く染めていた。照真の輪郭が赤い光に溶け、庁舎の通用口の影から、月守が立ち上がる。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
月守は、通用口の影に手をかざした。
(ここの影は、毎晩、宿直の人を出入りさせてきた。でも、一晩だけ、出ていったのに、なかなか戻らなかった人がいる)
影の中に、ぼんやりと人の形が浮かんだ。ずぶ濡れの若い男の影が、通用口の前で立ち止まり、首の後ろに手をやり、それから中へ入っていく。
顔は、見えなかった。
(その夜、宿直室の明かりは、九時から十一時過ぎまで、誰もいないまま点いていた)
月守の声が、静かに告げた。
(灯りだけが、人の代わりに宿直をしていた)
滝本に家の近くまで送ってもらい、礼を言って別れた。
別れ際、滝本は窓を下ろして言った。
「あんた、いい目をしてるな。俺みたいに、思い込みで二十八年を無駄にするなよ」
紺のセダンのテールランプが角を曲がって見えなくなるまで、耀司はその場に立っていた。夕暮れの町に、どこかの家の夕飯の匂いが漂っていた。
家までの短い道を歩きながら、耀司はフードの中に話しかけた。
「ピー助。車の中で、中のやつが言ってたこと」
「ああ」
「シャッターを下ろす音。走っていく足音。車のドア」
「中のやつが、二十八年、暗いところで聞いてた音だ。俺が拾われる前の、十五年分も」
ピー助の声は、いつもより小さかった。
「俺には、それしか分からねえ。誰の足音かなんて、中のやつは言わねえ。言わねえっていうより、たぶん、見てねえんだ。暗かったから」
「見てない……」
「だから、おまえらが見つけるしかねえんだよ。音じゃなくて、紙に書いてあるものを」
家に帰ると、父がもう戻っていた。
居間のソファで、新しい眼鏡をかけて新聞を読んでいる。銀縁の、前とほとんど同じ形の眼鏡だった。
「おかえり。どうだ、似合うか」
「うん。前と同じに見える」
「同じにしてもらったんだ。若い頃から、ずっとこの形でね」
父は笑って、新聞をめくった。
夕食の席で、耀司は箸を運びながら、なるべく何気ない声で言った。
「父さん。役場の宿直って、何時から何時まで?」
「宿直か。今はもう警備会社に任せてるが、父さんが若い頃は、夕方五時から翌朝の八時半までだった。一晩じゅう、庁舎から一歩も出られない。電話番と見回りでね。眠いのなんの」
「一歩も?」
「一歩もさ。出たら大問題だ。火事でも起きたら、町じゅうの責任になる」
父は、懐かしそうに笑った。
「どうして、そんなことを聞く」
「課題で、町の役場の昔の仕事を調べてて」
「そうか。熱心だな」
父はそう言って、味噌汁をすすった。
「そういえば」
母が、ふと思い出したように箸を止めた。
「あなた、宿直の夜は、いつも夜中に一回、うちの実家に電話をくれたわよね。付き合い始めの頃。見回りが終わったって。律儀な人だなって思ってた」
「そうだったかな」
「一度だけ、かかってこない夜があったのよ。朝になってから、ごめん、寝ちゃったって。あれ、いつだったかしら。秋の、雨の夜だった気がする」
父の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。
「そんなこともあったかもしれないな。何しろ、若かったから」
父は笑い、母も「そうね」と笑った。母は何も知らない。ただ、昔の小さな思い出を、懐かしそうに話しただけだった。
けれど耀司には、その笑い声が、ひどく遠く聞こえた。
耀司は、箸を持つ手に力を込めた。内側で、月代も同じように息を詰めている。
一歩も出られない宿直の夜。三週間前の夕食で、父は言った。最終公演の翌日の日曜は、一日じゅう庁舎に詰めていた、と。
その夜の二十三時五分、役場の若い職員が、ずぶ濡れで倉庫街の入口からタクシーに乗った。宿直を抜け出したことを、誰にも言うなと口止めして。
父の言葉が、父自身のところへ返っていく。照真の言った因果応報の意味が、ようやく分かった気がした。報いは天から降ってくるのではない。自分の口から出た言葉が、二十八年の時を越えて、自分の足元へ戻ってくるのだ。
その夜、月代は手鏡に問いかけて身体を受け取り、机に向かった。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
少女の手が、ノートに一本の線を引いていく。時間の線だった。
午後八時四十分、終演。九時前、劇場の路地の入口で、茉莉と聡が篤志と話す。九時過ぎ、傘を差した大人の男が来る。芦原が地下で、裏口の外の言い争う声を聞く。九時から十一時、二人の死亡推定時刻。十一時ちょっと前、三番倉庫のシャッターが下りる音。二十三時五分、倉庫街の入口で、ずぶ濡れの若い男がタクシーに乗る。二十三時十二分、役場の前で降り、通用口から宿直室へ。
「線が、つながっていく」
月代が言った。
「つながらないでほしいところまで」
月守の力で、耀司が月代の影から立ち上がり、ノートをのぞき込んだ。
「まだ、つながってないところがある」
耀司が言った。
「二人が見つかったのは、三番倉庫じゃなくて、少し離れた別の空き倉庫の前だった。どうして、二人だけ、隠されなかったのか」
「時間がなかったから?」
「それとも、隠す必要がないと思ったのか」
二人は顔を見合わせた。どちらの答えも、口にするには重すぎた。
「お母さんの話」
月代が、ノートの線の終わりに、小さく書き足した。二十三時過ぎ、宿直室から実家への電話、なし。
「お母さんは、何も知らないで話してた。それが、いちばん苦しい」
「うん」
月守が、二人の後ろから言った。
「因果は、一本の線ではない。網のように、いろいろな人の暮らしに絡まっている。一つの糸を引けば、思ってもいない人のところが揺れる。あなたたちが引いている糸は、お母さんにも、お姉さんにも、お兄さんにもつながっている」
「それでも、引くの?」
月代が、月守を見上げた。
「それを決めるのは、わたしではない」
月守は、静かに首を振った。
「でも、一つだけ言える。糸を引かずに放っておいても、絡まったものはほどけない。二十八年、誰も引かなかったから、あの倉庫の奥は、ずっと暗いまま」
その時、居間の固定電話が鳴った。
階下で母が出て、すぐに二階へ声をかけてきた。
「耀司、滝本さんっていう方から電話よ」
月代は急いで身体を耀司に返し、階段を駆け下りた。
「すまんな、夜分に」
受話器の向こうで、滝本の声が少し上ずっていた。
「家に帰って、もう一度あの夜のことを思い出してたんだ。一つ、思い出した。あの若いの、役場の前で降りる時、ポケットから千円札を出したら、一緒に小さな物が落ちかけてな。慌てて拾ってた」
「小さな物?」
「鍵だ。真鍮の、新しい鍵。札が下がってた。字までは見えなかったが、普通の家の鍵じゃない。古い建物の、通用口なんかの鍵だ」
耀司の手の中で、受話器がわずかに震えた。
芦原の物置の鍵束にあった、色の違う一本。裏口・複製。貸出簿から消された一行と、十月一日の返却。
「ありがとうございます、滝本さん」
「礼なんかいい。二十八年分の借りを、ちょっとでも返せたらな」
電話が切れた。
(鍵)
月代の声が、耀司の内側で静かに言った。
(貸出簿の消された一行。十月一日、返却済。あの鍵を、事件の夜、その人はポケットに入れていた)
(まだ、その人が誰なのかは)
(うん。まだ、書かれていない)
居間の窓辺で、鳥かごの中のピー助が、じっと耀司を見ていた。目の奥に、ほんの一瞬、赤い濁りが揺れて、すぐに消えた。
(第9話 了)




