鏡花水月
夜明けの境目に、月守は窓辺で町の方角を見ていた。
「今朝は、町じゅうの花が、少しだけ匂いを強くしている」
「花が?」
耀司が布団から身を起こすと、月守は振り返らずに言った。
「秋の花は、散る前に匂いを強くする。覚えておいてほしい。散る前のものほど、美しく見える。美しく見えるものほど、すくい上げると崩れる」
朝日が差し込み、月守の輪郭がほどけていく。入れ替わりに現れた照真は、ひと言も言わずに窓の外の空を見上げていた。雲一つない、高い秋の空だった。
「どこも悪くないって」
衿子は、動物病院の小さな紙袋を居間のテーブルに置いた。
十月十七日、土曜日の朝。四日前の夕方、衿子は仕事帰りにピー助を町の動物病院へ連れていった。その日の検査の結果を、今朝、電話で聞いたのだという。
「血液検査も、羽の状態も、問題なし。むしろ年の割に元気すぎるくらいだって。先生、首をかしげてた。普通の文鳥なら、十三年も生きたら、もうおじいちゃんなのにって」
「元気なら、よかったじゃない」
母が言い、衿子はうなずいた。
「でも、お父さんを引っかいたり、私を噛んだり。何か、怖いものでも見てるみたい」
窓辺の鳥かごの中で、ピー助は止まり木の上に丸くなっていた。耀司の部屋から、昨夜、衿子が居間へ移したのだ。病院へ連れていきやすいように、と言っていた。
耀司は、パンをかじりながら鳥かごを見た。ピー助は目を閉じたまま、一度だけ片目を開け、すぐにまた閉じた。
(聞いてるね)
内側で、月代が言った。
(うん。寝たふり)
父は、もう家を出ていた。ひびの入った眼鏡は、まだ替えていなかった。
衿子は紙袋を片付けながら、テーブルの一輪挿しに目をやった。白いトルコキキョウが一本、挿してある。保育園の行事の残りをもらってきたのだという。
「私、昔から白いお花が好きなんだよね。なんでか分かんないけど。色のついたのより、白いのを見ると、ほっとする」
(白い花)
内側で、月代が小さく息をのんだ。耀司も同じことを思っていた。けれど、二人とも何も言わなかった。衿子は衿子だ。由紀ではない。少なくとも、今ここで、衿子に何かを背負わせる理由はどこにもなかった。
駅裏の駐車場の向かい、路地の入口の斜め前に、小さな花屋がある。
看板には、丸い字で「花ごよみ」。間口の狭い店の前に、バケツに入った菊や竜胆が並べられている。硝子戸の上に、古い真鍮の鈴が吊るされていた。
「ここだ」
耀司は、通りの反対側から店を眺めた。
戸叶の取材メモにあった匿名電話。背後で、店の戸口の鈴が鳴った。駅裏で、路地の入口が見える場所にある店。古い町の地図で調べると、二十八年前からここにある花屋は、この一軒だけだった。
照真が、陽光の中で腕を組んでいた。
「今日は、月代が行け」
「どうして」
「花屋に花を買いに来る客は、少女の方が自然だ。それに」
照真は、店の奥を見透かすように目を細めた。
「あの店の主は、少年には何も話さん。あの夜からずっと、男というものを、どこかで恐れている」
(行かせて)
月代が言った。
(茉莉と由紀に、お花を買いたいの。それなら、嘘じゃないから)
耀司は、近くの公衆トイレの陰で手鏡を取り出した。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
少女の身体になった月代は、髪を耳にかけて深呼吸をした。フードの中のピー助は、今日は家に置いてきた。居間の鳥かごから連れ出せば、衿子が気づく。
「照真。耀司を外へ」
照真が月代の背に手を当て、その影から霊体の耀司が立ち上がった。
「僕は外から見てる。店先の花と、店の奥と」
「うん」
月代が硝子戸を押すと、頭の上で、鈴がからん、と鳴った。
店の中は、花の匂いで満ちていた。
ガラスのケースに切り花が並び、天井から干した花が逆さに吊るされている。奥の作業台で、白髪をきれいに結った小柄な老女が、花束にリボンをかけていた。七十代の半ばくらいだろうか。
「いらっしゃい」
「あの、お供えの花を、二つ」
「お供え」
老女は手を止めて、月代を見た。
「どなたに?」
「……知り合いの、お姉さんと妹さんに。もう、ずっと前に亡くなったんですけど」
老女は、手を止めたまま月代の顔をじっと見た。何かを測るような目だった。
「白がいい? それとも、色のあるもの?」
「お姉さんには、色のあるものを。妹さんには、白いお花を」
月代の言葉は、考えるより先に口から出ていた。
老女の手が、止まった。
店の外で、霊体の耀司が、意識を通して月代に呼びかけた。
(月代、どうしてそれを選んだの)
(分からない。手が、勝手に)
茉莉は、色の濃い花が好きだった。由紀は、白い花が好きだった。月代はそれを知らないはずなのに、口が知っていた。
「宵宮さんのところの、お嬢さんたちね」
月代は、息をのんだ。
「どうして」
「上のお嬢さんは、子どもの頃から、うちの店先の色の濃い花ばかり欲しがった。下のお嬢さんは、白い花しか買わなかった。お姉ちゃんとおそろいは嫌だって」
老女は、ふっと笑った。
「柴崎春江。この店を、もう五十年やってる。あなたが宵宮さんの奥さんのところに通ってるっていう子でしょう。この町は狭いからね」
春江は、竜胆を一本ずつ選びながら話した。
「茉莉ちゃんは、高校生になっても、帰省するたびにうちに寄ってくれた。お母さんに、って言って、いちばん派手な花を買っていくの。由紀ちゃんは、お姉ちゃんの後ろにくっついてきて、白いのがいいって。二人並ぶと、店の中がぱっと明るくなった」
春江の手つきは慣れていたが、声だけが、少しずつ遠くなっていった。
「あの年の九月の終わりに、二人とも、うちに来なくなった。上の子は、あの事件で。下の子は、そのあと、白い花を買いに来なくなって、次の年の冬に」
春江は、そこで言葉を切った。
店の外で、霊体の耀司が、硝子戸越しにその様子を見ていた。照真が隣で言った。
「見ろ。店先のバケツの、白い菊の束を」
耀司は、店の前に並ぶバケツに目を落とした。端に一つだけ、花の入っていない古いバケツが、他から離して置かれていた。持ち手に、小さな札が結びつけてある。
――予約 九月二十八日 毎年。
「九月二十八日……」
「事件の翌朝だ。二人が見つかった日」
照真が、札の上に光を落とした。札の紙は新しいが、日付の書き方には、何十年も同じことを繰り返してきた者の慣れがあった。
春江は、色の濃い竜胆と鶏頭の束と、白い小菊の束を、手早くこしらえてくれた。
「店の外に、予約の札のついた空のバケツがありましたけど」
月代が言うと、春江の手が、また止まった。
「あれは、毎年の予約用のバケツ。九月二十八日の朝に、白い菊を一束届けることになっているの。今年の分も、三週間前に届けたわ。届け先に行ったら、去年の花も、その前の年の花も、枯れたまま残っていた」
「届け先って」
「川沿いの倉庫街。三番倉庫のシャッターの前」
月代の背筋が、冷たくなった。
衿子がピー助を拾った場所。川沿いの倉庫の、シャッターの前。
「誰が、予約を」
「分からないの。名前を言わない、男の人。毎年、九月の初めに電話がかかってきて、白い菊を一束、二十八日の朝に、三番倉庫の前に置いてくれって。お代は、現金書留で届く。差出人の名前は、いつも書いていない」
春江は、作業台の引き出しを開けた。輪ゴムでまとめた、古い封筒の束が出てきた。現金書留の封筒だった。
「捨てられなくてね。何かあった時のために、全部取ってある。平成十一年から、今年の分まで毎年一通。二十八通」
月代は、封筒の束を見つめた。表書きの宛名は「花ごよみ 御中」。どの封筒にも、同じ几帳面な字が並んでいる。中に入っていたという便箋が、数枚、封筒に挟まったままになっていた。
――九月二十八日、三番倉庫前へ。白菊一束。
短い文。それだけだった。
(耀司)
(見てる。字を、覚えておいて)
硝子戸越しに、耀司の意識が月代に重なる。
便箋の「月」の字。最後の縦画の終わりが、筆先を左上へ小さく跳ね上げていた。
月代は、写真を撮らせてほしいと頼んだ。春江は少し迷ってから、一枚だけね、と言って許した。
その時、店の奥の作業場の暗がりで、細い声がした。
(この店の影は、花を置く手を、何度も見ている)
月守だった。昼の光の届かない、花を冷やす棚の陰で、声だけがにじむ。
(見せてあげる。でも、覚えておいて。花の影は、水に映る月のようなもの。美しく見えても、すくえば形が崩れる)
冷蔵棚の硝子に、ぼんやりとした影が映った。
朝もやの中の、倉庫街。錆びたシャッター。その前に、白い菊の束を置く人影がある。春江の小柄な影だった。毎年、春江が置いている。
影が、別の朝に切り替わる。春江が花を置いて去ったあと、少し離れた電柱の陰から、もう一つの人影が現れた。背の高い男の影。傘を差している。雨は降っていないのに。男は、シャッターの前に立ち、長いこと花を見下ろしていた。
「誰……」
月代は、硝子の影に顔を近づけた。
男の影の顔は、水面に映った月のように、揺れて定まらなかった。眼鏡をかけているようにも見え、かけていないようにも見えた。背格好は、父に似ているようにも見えた。似ていないようにも見えた。
(見たいものが、混ざっている)
月守の声が、静かに言った。
(あなたは今、その影をお父さんにしたいのか、したくないのか。どちらの気持ちも、影に映り込んでいる。だから、顔が定まらない)
影は、ほどけて消えた。
鏡花水月。鏡に映る花、水に映る月。目には見えても、手に取ることはできない。
月代は、冷蔵棚の硝子から顔を離した。手のひらに、汗をかいていた。
「あなた」
春江の声に、月代は振り返った。
「その冷蔵棚、何かあった?」
「いえ……きれいだなと思って」
月代は、春江の顔を見た。
「春江さん。二十八年前の九月の終わりに、新聞社に電話をかけませんでしたか」
春江の手から、リボンが落ちた。
「……何のこと」
「この店の鈴の音が、電話の向こうで聞こえたそうなんです。中年の女の人の声で。劇場の裏の路地で、若い男女と男の子が話しているのを見た、と」
春江は、長いこと黙っていた。作業台の縁を、白くなるほど強くつかんでいた。
「知らないわ」
やがて、春江は言った。声が、わずかに震えていた。
「知らない。私は、何も見ていない。お代は千二百円。二束で」
月代は、それ以上聞かなかった。代金を払い、花束を二つ受け取った。
硝子戸を開けると、また鈴が鳴った。からん、と乾いた音。
その音を背中で聞きながら、月代は、春江が作業台の陰で、そっと目元を押さえるのを見た気がした。
店の外で待っていた耀司は、硝子戸の前に立って、通りの向こうを見た。駐車場の脇から、路地の入口がまっすぐに見える。店先の明かりがあれば、夜でも、路地の入口に立つ人影くらいは見えただろう。けれど、路地の奥の曲がり角までは見えない。
「ここからは、入口だけが見える」
照真が言った。
「入口で三人が話していたのは見えた。そこへ大人の男が来たのも見えた。だが、そのあと何があったのかは、ここからでは見えん。見えなかったものを、この女は二十八年、想像し続けてきた。想像は、見たものより人を苦しめる」
耀司は、硝子戸の向こうの小さな背中を見つめた。
家に戻ると、居間の鳥かごの前に、母がいた。
「あら、耀司。お花?」
月代は公衆トイレの陰で、身体を耀司に返していた。耀司の手に、竜胆の束と白菊の束が握られている。
「宵宮さんの家に、届けようと思って」
「そう。優しいのね」
母は微笑み、居間を出ていった。
耀司は、テーブルの上に花束を置いた。宵宮家へ届けるのは、昼を過ぎてからにするつもりだった。その瞬間だった。
鳥かごの中で、ピー助が跳ね起きた。
羽を逆立て、止まり木から格子に飛びつき、白菊の束を睨みつける。小さな目の奥に、赤い濁りが滲んでいた。
「白い菊は、嫌いだ」
ピー助の嘴から出たのは、いつものかすれた声ではなかった。年上の、乾いた声。悪霊の声だった。
「毎年、毎年、あのシャッターの前に置きやがる。冷たいコンクリートの上に、俺を置いたまま。花だけ置いて、帰っていく」
耀司は、動けなかった。
「暗いんだよ。ずっと暗いんだ。あいつは、明るいところで、毎年花を置いて、明るいところへ帰っていく」
かごの格子を、小さな嘴が激しく噛んだ。
「ピー助!」
耀司が叫ぶと、格子を噛む嘴が、ぴたりと止まった。
赤い濁りが、ゆっくりと引いていく。ピー助は格子から落ちるように止まり木へ戻り、肩で息をした。
「……悪い。また、出ちまった」
いつもの、かすれた声だった。
「白い菊を見たら、中のやつが、急に」
「ピー助。今の言葉」
「聞くなよ」
ピー助は、背を向けた。
「俺にも、全部は分からねえんだ。中のやつの言葉は、俺の頭の中で、割れた鏡みたいにばらばらになって聞こえる。どれが本当で、どれが嘘かも、分からねえ。中のやつ自身が、嘘をつくこともある」
「中のやつが、嘘をつくって」
耀司が聞き返すと、ピー助は背を向けたまま答えた。
「あいつは、生きてた時から嘘が上手かった。死んでからも、同じだ。俺の中で、自分を可哀想に見せる話ばっかりする。暗い、冷たい、誰も来ない。そればっかりだ。自分が何をしたかは、一言も言わねえ」
ピー助の声が、少しだけ低くなった。
「だから、あいつの言葉をそのまま信じるな。鏡に映った花を、本物の花だと思うな。俺が言えるのは、それだけだ」
耀司は、白菊の束を、そっとテーブルの下へ隠した。
昼過ぎ、二人はもう一度、宵宮家の生け垣の角に立った。
月代の姿で呼び鈴を押すと、登美は竜胆と鶏頭の束を見て、目を丸くした。
「まあ。茉莉の好きだった色」
白い小菊の束を受け取ると、登美はしばらく黙り込んだ。
「由紀は、白い花しか買わなかったのよ。花ごよみの春江さんのところで。お姉ちゃんと同じ色は嫌だって言ってね」
「春江さんも、同じことを言っていました」
「そう。春江さん、まだお元気なのね」
登美は仏壇に二つの束を供え、線香を上げた。月代も隣で手を合わせた。遺影の中の茉莉と由紀に、何を言えばいいのか分からなかった。ただ、ここにいる、とだけ心の中で言った。
「春江さんはね」
登美が、仏壇を見つめたまま言った。
「事件のあと、半年ほど、店を閉めていたの。体を壊したって聞いたけれど、町の人は、何か見たんじゃないかって噂していた。あの店は、劇場の路地の入口の、ちょうど斜め向かいだから。でも、春江さんは誰にも何も言わなかった。茉莉のお葬式には来てくれた。由紀のお葬式にも。どちらの時も、白い菊を持って、ずっと泣いていた」
登美は、少しだけ目を伏せた。
「あの人も、何かを抱えたまま生きてきたのかもしれない。この町の人は、みんなそう」
帰り道、二人は倉庫街へ回った。
川沿いの道を北へ歩くと、錆びたトタン屋根の倉庫が並んでいる。三番倉庫は、その中ほどにあった。シャッターの下の部分が赤茶けて錆び、地面のコンクリートとの隙間に、枯れた菊の茎が何本も挟まっていた。茶色く縮れた花びらが、風に吹かれて足元を転がっていく。去年の花か、もっと前の花か、もう分からなかった。
「照真」
霊体の耀司が呼ぶと、照真はシャッターの前に光を落とした。光は、錆びた鉄の表面を照らすだけで、その奥へは届かなかった。
「中までは、照らせん。わたしの光は、閉ざされた扉の内側には入れない」
月代は、シャッターの前にしゃがみ込んだ。隙間から、冷たい空気が這い出してくる。秋の昼間とは思えないほど、底冷えのする空気だった。
(ここは、暗い)
どこからともなく、月守の声がにじんだ。シャッターの隙間の、ほんの細い暗がりの中から。
(とても暗くて、とても冷たい。わたしでさえ、奥へは行けない。何かが、ずっと、ここで待っている)
月代は、シャッターに手を伸ばしかけて、やめた。
「今は、開けない」
月代が、自分に言い聞かせるように言った。
「開けるのは、私たちじゃない。ちゃんと、開けられる人に開けてもらう」
耀司は、黙ってうなずいた。
生け垣の角まで戻ったところで、月代は手鏡に問い、身体を耀司に返した。
家に帰り着く頃には、日が傾き、居間の窓から赤い光が差し込んでいた。照真の輪郭が溶け、家具の影から月守が立ち上がる。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
家族が夕食の支度をしている間に、耀司は二階の自分の部屋へ上がった。月守の力で、月代が影から立ち上がる。
「三番倉庫」
月代が言った。
「ピー助が拾われた場所。毎年、白い菊が置かれる場所。ピー助の中のあの声が、俺を置いたまま、って言った場所」
「あそこに、何かがある」
「何か、じゃないよね」
二人とも、その先を言わなかった。
「花屋さんの冷蔵棚の影。あの男の人」
月代が、膝を抱えた。
「私、お父さんだと思いたかったのかな。それとも、思いたくなかったのかな。月守は、どっちの気持ちも映ってるって言った」
「僕も、分からない」
耀司は、スマートフォンの写真を開いた。春江の店で撮った、現金書留の便箋。
便箋の短い一文を、耀司はもう一度、声に出さずに読み返した。宛名も差出人もない、たった一行の頼みごと。二十八年分、同じ言葉が繰り返されている。
隣に、芦原の鍵の貸出簿の写真を並べようとして、手が止まった。あの一枚は、机の上から消えたままだ。けれど、もう一度、芦原に頼めば撮らせてもらえる。父の入庁式の写真の裏の字も、押し入れのアルバムにある。
月守が、二人の後ろから静かに言った。
「影は、すくえば崩れる。でも、紙に書かれた字は、崩れない。花の影ではなく、花を頼んだ字を追いなさい」
「花を頼んだ字」
「そう。そして、字を運んだ道を」
耀司は、便箋の写真を拡大した。現金書留の封筒の、消印の部分が写り込んでいる。いちばん古い一通、平成十一年の封筒の消印は、隣の市の郵便局のものだった。
鏡ヶ浦町の郵便局ではない。わざわざ隣の市まで出かけて、送っている。
「隣の市……」
父が通っていた高校のある市だった。
「ねえ、耀司」
月代が、膝を抱えたまま言った。
「もし、あの男の人がお父さんだったら。毎年、あのシャッターの前に花を置きに行ってたんだとしたら」
「うん」
「それって、後悔してるってことなのかな。それとも、確かめに行ってるだけなのかな。誰にも見つかっていないかどうか」
耀司は答えられなかった。どちらとも取れた。花は、どちらの心にも咲く。
「どっちだとしても」
月代は、自分の膝に額をつけた。
「花を置いて、明るいところへ帰っていく人を、私はまだ、お父さんって呼んでる」
月守が、そっと月代の髪に触れる仕草をした。霊体同士でも、触れることはできない。それでも、月代の輪郭が少しだけ落ち着いたように見えた。
階下から、母の「ごはんよ」という声がした。
夕食の席で、父は新聞を広げながら言った。
「明日、隣の市まで眼鏡を作り直しに行ってくる。いつもの店が、向こうにあってね。若い頃からずっと、あそこでしか作らないんだ」
「お父さん、ひびの入ったまま一週間もいるんだもの」
衿子があきれたように言い、父は笑った。
耀司は、箸を持つ手を止めなかった。隣の市。現金書留の消印と同じ町。若い頃から、ずっと。
一つの言葉は、一つの言葉だ。照真の声が、耳の奥で繰り返された。
部屋に戻った耀司は、写真を閉じ、手鏡を伏せた。伏せる直前、鏡の端に、白い菊の花びらが一枚、ひらりと落ちる影が映った気がした。
部屋のどこにも、菊の花はなかった。
(第8話 了)




