一触触発
電話は、十月十二日の朝にかかってきた。
スポーツの日の祝日で、家族はまだ誰も起きていなかった。居間の固定電話が鳴り、耀司が受話器を取ると、聞き覚えのある明るい声がした。
「鏡ヶ浦新報の菅沼です。影浦耀司くんのお宅ですよね。……あの、従姉さんじゃなくて、耀司くん本人?」
「本人です」
「よかった。編集長が、あなたに会いたいって。見せたいものがあるんだって。今日の午前中、来られる?」
耀司は、窓辺の鳥かごを振り返った。ピー助が、止まり木の上でじっとこちらを見ていた。
「行きます」
受話器を置いて二階へ戻ると、部屋の隅の影に、まだ月守の輪郭が残っていた。夜明けの境目が過ぎたばかりで、夜の守護霊は朝の光に押されながらも、消える前に一言だけ言った。
「今日は、影が騒がしい。この町の影が、何かを待っている」
「何かって」
「分からない。でも、ずっと閉じていた扉が、開きかけている時の騒がしさ」
月守の姿が朝日に溶けると、朝日の差し込む窓辺で、照真が腕を組んでいた。
「あの男は、おまえの顔より先に、フードを見ていた」
照真は、最初に新聞社を訪ねた日の言葉を繰り返した。
「今日は、フードの中身ごと連れていけ。あの男が何を見ていたのか、確かめる時だ」
家を出る時、居間では父がもう背広に着替えていた。祝日も企画展は開いている。父は靴べらを使いながら、耀司のパーカーのフードに目をやった。
「またピー助を連れて出かけるのか。衿子が心配していたぞ。最近、ピー助の様子がおかしいって」
「大丈夫。おとなしくしてるから」
「そうか」
父は先に玄関を出ていった。資料館の方角へ歩いていく背中を、耀司はしばらく見送った。フードの中で、ピー助は一度も顔を出さなかった。
新聞社の受付で、菅沼が手を振った。
「来てくれてよかった。編集長、朝から落ち着かなくて。煙草、もう五本目」
階段を上がりながら、耀司は小声で照真に言った。
「戸叶さんは、何を見せたいんだろう」
「本人に聞け。わたしが照らせるのは、あの男が出してきた物だけだ」
鏡ヶ浦新報の二階、編集長室は狭く、煙草の匂いが壁に染みついていた。
戸叶は、窓際の机の向こうに座っていた。間近で見ると、日焼けした顔の皺が深い。目だけが、若い記者のように鋭かった。
「座りなさい」
耀司がパイプ椅子に腰を下ろすと、戸叶はまず、耀司の背中のフードに目をやった。
「その鳥、ずっと連れて歩いているな」
「はい」
「首に、十字架を下げている」
フードの中で、ピー助が身を固くした。
「最初に来た日に気づいた。文鳥が十字架を下げているなんて、珍しいからな。それに」
戸叶は、机の引き出しから一枚の古い写真を取り出した。最終公演の夜の、傘の列の写真。資料館に貸したものの、別のコマらしかった。路地の入口が、少しだけ大きく写っている。
「この写真を撮った夜、路地の入口に三人いた。若い男女と、男の子。ルーペで見ないと分からないくらいの大きさだが、男の子の首元に、小さく光るものが写っている」
耀司は、写真に顔を近づけた。三つの人影のうちの一つ、笑っているように見える少年の胸元に、針の先ほどの白い点があった。
「十字架、ですか」
「分からん。ボタンかもしれん。だが、俺は二十八年、これが気になっていた」
戸叶は、もう一つ、引き出しから茶色く変色した大学ノートを取り出した。表紙に、乱暴な字で「取材メモ 平成十年九月」とある。
「宵宮さんの奥さんと、奥寺先生と、芦原の爺さん。君が会いに行ったことは、みんな俺の耳に入っている。この町は狭いからな。三人とも、君のことを、まっすぐな目をした子だと言っていた」
戸叶は、ノートを机の上に置いた。
「俺が二十八年、誰にも見せなかったものだ。君なら、見せていいと思った」
照真が、耀司の背に手を当てた。
「月代を出せ。ただし、影の中に留めておけ。今日は、外に出るな」
「どうして」
「この部屋の空気が、張りつめている。何かがはじける前の匂いがする」
耀司の影の中で、月代の気配が目を覚ました。霊体の輪郭は現さず、影の中に身を沈めたまま、意識だけを外へ向けている。
(耀司。何か、来る)
(何かって)
(分からない。でも、この部屋の外の影が、ざわざわしてる)
耀司は、ノートを開いた。
九月二十九日の夜のページに、走り書きがあった。
――匿名電話。二十二時十分。中年の女性の声。名乗らず。
――「二十七日の夜、鏡座の裏の路地で、若い男女と、高校生くらいの男の子が話しているのを見た。男の子は笑っていた。女の人は怒っているようだった」
――「そのあと、もう一人、大人の男の人が来た。傘を差していた」
――「男の子は、そのあと、どこにも戻っていないと思う」
――「怖いから、名前は言えない」
――電話はそこで切れる。背後で、小さな鈴が鳴るような音。店の戸口の鈴か。
「鈴の音……」
耀司がつぶやくと、戸叶はうなずいた。
「電話の向こうで、からん、と鳴った。店の戸を開けた時に鳴る鈴だと思った。どこかの店の人間が、店番をしながらかけてきたんだろう。それも、裏は取れなかった」
照真が、ノートの上に光を落とした。光の中で、紙の繊維が浮かび上がる。走り書きの部分だけ、インクが紙の裏まで深く染みていた。
「書いた時の、手の力だ。書き手は、この電話を受けながら、震えていた」
戸叶が、黙ってうなずいた。
耀司はページをめくった。
――十月二日。県警に問い合わせ。被害者は二名のみ、第三の人物の情報なし、と。
――十月六日。鏡ヶ浦高三年男子の家出の件、記事化(五行)。匿名電話の「男の子」との関連、裏取れず。
――十月八日。教委・K氏に取材申込。家出の生徒の件、未成年の保護のため報道を控えるよう要請される。取材は拒否。
――十月九日。デスク判断。匿名電話の件は、裏が取れるまで掲載見送り。
そこから先は、白紙だった。
「K……」
耀司は、その一文字から目を離せなかった。
奥寺のノートにも「男子K」とあった。あれは、久賀篤志のKだった。けれど、ここにある「教委・K氏」は、教育委員会の職員だ。
久賀ではない。
影浦の、K。
「俺はな、あの夜、劇場の正面にいた」
戸叶は、窓の外に目をやった。
「最終公演の写真を撮りにな。観客が出てくるところを何枚も撮った。三人に気づいたのは、現像してからだ。路地の入口の、小さな三つの影。撮っている時は、まったく気づかなかった。目の前にいたのにな」
戸叶は、自分の両手を見下ろした。
「シャッターを切った指の先に、あの子らはいた。それが、ずっと引っかかっている」
「俺が若かったんだ」
戸叶が、低い声で言った。
「デスクに止められて、それきりにした。裏を取ろうと、何度か劇場の周りを聞いて回ったが、電話の女は見つからなかった。家出の生徒のことは、教育委員会に睨まれて、それ以上書けなかった。新聞記者が、役場の若い職員一人に黙らされたんだ。情けない話だ」
ノートの白紙のページの上に、照真の光が静かに広がった。
「書かれなかったことも、記録だ」
照真が言った。
「この男は、書かなかったことを、二十八年、白紙のまま持ち続けた」
その時だった。
編集長室の扉が、ノックもなく開いた。
「戸叶さん、記事のゲラの件で――」
入ってきたのは、父だった。
首から資料館のスタッフ証を下げ、手には企画展の資料を挟んだクリアファイルを持っている。父は、部屋の中にいる耀司を見て、足を止めた。
ほんの一瞬、父の顔から、あらゆる表情が消えた。
次の瞬間には、いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。
「耀司。こんなところで、何をしているんだ」
(耀司、気をつけて)
影の中で、月代が鋭く言った。
(お父さんの影が、膨らんでる)
耀司は、足元を見た。父の影は、蛍光灯の真下で、短く床に落ちているだけだった。けれど月代には、別のものが見えているのだ。
「町の百年の課題で、戸叶さんに古い記事のことを伺っていたんです」
「そうか」
父は机に近づき、開かれたままの取材メモに目を落とした。
九月二十九日の、匿名電話のページだった。
父は、何も言わなかった。ただ、クリアファイルを持つ指先が、白くなるほど力を込めていた。
「戸叶さん」
父の声は、穏やかなままだった。
「子どもに、古い事件のメモを見せるのは、感心しませんね。亡くなった方のご遺族も、まだ町に住んでいらっしゃる」
「遺族の宵宮さんには、その子が自分で会いに行っている」
戸叶が、真っ直ぐに父を見た。
「それに、俺は二十八年前にも、同じことを言われた。未成年の保護のためだ、と。役場の若い職員にな」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
照真が、耀司の前に半歩出た。光が強くなる。月代の気配が、影の底で身構えている。
「何の話か、分かりませんね」
父は、微笑んだまま言った。
「耀司、帰りなさい。こういうことは、大人の仕事だ。それに――」
父は、メモのページに指を置いた。
「三人目の男の子のことなんか書き立てたら、久賀さんのご家族が、また辛い思いをするだろう」
耀司の心臓が、大きく跳ねた。
(今……)
影の中で、月代が息を止めている。
久賀。
メモのどこにも、その名前は書かれていない。匿名電話は「高校生くらいの男の子」と言っただけだ。家出の記事にも、名前は出ていない。耀司は父の前で、一度も「久賀」という名前を口にしていない。
路地にいた男の子と、家出をした久賀篤志。その二つを結びつけた記録は、この町のどこにもない。
結びつけられるのは、路地を見た者だけだ。
フードの中から、白い影が飛び出した。
ピー助だった。
小さな身体が、矢のように父の顔へ向かった。父は咄嗟に腕を上げ、ピー助の爪が、父の手の甲をかすめた。眼鏡が床に落ち、乾いた音を立てた。
「ピー助!」
耀司が叫ぶより早く、ピー助は父の肩口に爪を立て、狂ったように羽ばたいていた。家族の耳にはただの鳴き声にしか聞こえないはずの声が、耀司の頭の中で、人の言葉となって響いた。
「おまえだ。おまえだ。おまえだ」
いつものかすれた少年の声ではなかった。あの夜、鳥かごの中で聞いた、年上の、乾いた声だった。
父が、ピー助を振り払おうと手を伸ばす。
その手が、ピー助の首元で止まった。
小さな十字架が、父の指先のすぐ前で揺れていた。
父の目が、十字架に釘付けになった。
時間が止まったように思えた。
父は、十字架を見つめたまま、動かなかった。眼鏡のない裸の目で、まるで幽霊でも見るように、小指の爪ほどの銀色を見つめていた。
「照真!」
耀司が叫ぶと、照真の光が部屋いっぱいに弾けた。窓から差し込む日差しが、ありえないほど白く強くなり、父も戸叶も、思わず目を細めた。その一瞬に、耀司は父の肩からピー助を両手で引き剥がした。
ピー助は耀司の手の中で、激しく羽を震わせていた。
「どこで」
父の声が、かすれていた。
「その鳥は、どこで、その十字架を」
「知らない。拾った時は、何もつけてなかったって、姉さんが」
耀司は答えた。声が震えないようにするのが、精一杯だった。
父は、床に落ちた眼鏡を拾い上げた。レンズに、細いひびが入っていた。父はそれを顔にかけ、ひびの入ったレンズ越しに、もう一度ピー助を見た。
「……躾が、なっていないな」
父はそう言って、笑った。
いつもの笑顔だった。いつもの、穏やかな父の笑顔。
けれど、ひびの入ったレンズの向こうの目は、少しも笑っていなかった。
「戸叶さん、ゲラは後でまた伺います。耀司、先に帰っていなさい。夕飯までには父さんも帰る」
父は手の甲の細い傷をハンカチで押さえながら、編集長室を出ていった。階段を下りていく足音が、いつもより速かった。
戸叶は、長いこと扉を見つめていた。
「君のお父さんだったのか」
「……はい」
「そうか」
戸叶は、取材メモを閉じ、しばらく表紙に手を置いていた。
「君は、何を知っている」
耀司は、すぐには答えられなかった。影の中の月代と、意識を通して短く言葉を交わす。
(まだ、全部は言えない)
(うん。でも、嘘はつかないで)
「まだ、確かなことは何も。確かめている途中です」
「途中、か」
戸叶は苦笑した。
「俺は二十八年、途中で止まったままだ。君は、止まるなよ」
戸叶は、九月二十九日のページだけをコピー機にかけ、耀司に渡した。
「原本は、俺が持っている。誰にも渡さん。君が、もう一度ここに来るまで」
新聞社を出ると、耀司の膝が、今になって震え始めた。
駅前通りの人混みの中で、耀司はガードレールに手をついた。祝日の通りは家族連れでにぎわい、誰も一人の高校生の顔色など気にしていない。
(耀司)
(大丈夫)
(大丈夫じゃない。私にも、伝わってる)
月代の意識が、耀司の意識にそっと寄り添う。震えているのは耀司の膝だったが、震えているのは二人ともだった。
「照真」
耀司は、隣を歩く昼の守護神に言った。
「父さんが、久賀って言った。誰も言っていないのに」
「聞いた」
「それって」
「おまえが今、何を考えているかは分かる。だが、わたしは言わん」
照真は、真っ直ぐ前を見たまま言った。
「一つの言葉は、一つの言葉だ。それだけで人を決めれば、おまえは二十八年前に誰かがやったことと、同じことをする。記録を集めろ。証言を並べろ。おまえの父が何者かを決めるのは、そのあとだ」
耀司は、唇を噛んでうなずいた。
家に帰ると、耀司の部屋の机の上が、わずかに乱れていた。
印刷した写真の束の順番が、変わっている。いちばん上にあったはずの由紀のノートの写真が、三枚目にあった。芦原の鍵の貸出簿を写した一枚が、どこにも見当たらない。
(誰かが、見た)
月代の声が、硬かった。
(父さんは、ずっと新聞社にいた)
(お父さんじゃない誰かかもしれない。でも、誰かが、私たちの机を見た)
耀司は部屋を見回した。鳥かごの扉は閉まっている。窓の鍵も、かかっている。家族の誰かが、掃除のついでに触っただけかもしれない。
そう思おうとした。思えなかった。
夕陽が窓から差し込み、照真の輪郭が赤く溶けていく。本棚の影から、月守が立ち上がった。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
照真は消える前に、鳥かごの中のピー助を一瞥した。
「月守。この鳥のことを、そろそろ話してやれ」
照真が光の粒になって消えると、月守は鳥かごの前に膝をついた。ピー助は、止まり木の端で丸くなり、まだ小刻みに震えていた。
耀司は手鏡を取り出した。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
少女の身体になった月代は、鳥かごの扉を開け、震えるピー助を両手でそっと包み込んだ。
「怖かったね」
ピー助は、何も言わなかった。月代の手のひらの中で、ただ、小さな心臓を速く打たせていた。
「月守。教えて。ピー助は、何なの」
月守は、静かに目を伏せた。
「この子は、悪霊を宿す鳥」
部屋の空気が、冷たくなった。
「生まれつき、行き場をなくした悪い霊を身の内に迎え入れ、外へ出さずに抱えておける。そういう、とても珍しい器を持った鳥。この子自身の心は、あなたたちが毎日聞いている、あの口の悪い、かすれた声の方」
「じゃあ、あの年上の声は」
「この子が宿している、悪霊の声」
月代の手の中で、ピー助が身じろぎした。
「十三年前、川沿いの倉庫の前で、この子は怪我をしてうずくまっていた。その時、すぐそばの暗いところで、十五年近く行き場をなくしていた霊が、この子の器に入り込んだ。この子は、それを追い出さなかった。追い出せば、霊は町をさまよって、誰かに取り憑く。だから、自分の中に閉じ込めて、抱えて生きることを選んだ」
「衿子姉さんを噛んだのは」
「悪霊が、あの子に近づこうとしたから。この子は、自分の身体を使って、悪霊を姉さんから遠ざけた。寄るな、と言ったのは、悪霊に向けた言葉」
耀司は、あの朝の、衿子の指の小さな赤い点を思い出していた。
月代の手の中から、ピー助のかすれた声がした。
「……言うなよ。かっこ悪いだろ」
いつもの、少年の声だった。
「かっこ悪くなんかない」
月代は、手のひらの中の小さな背中を、指先でそっと撫でた。
「十三年も、一人で抱えてたんでしょう。衿子姉さんを守りながら」
「一人じゃねえよ。おまえらが毎朝、鏡に向かってぶつぶつ言ってるのを聞いてた。退屈しなかった」
「ピー助」
「俺は、ただの可愛いペットだぜ。中に変なのが一匹住んでるだけだ」
ピー助は、月代の指の間から、少しだけ顔を出した。
「今日のは、俺じゃねえ。中のやつが、あの眼鏡の顔を見て、暴れやがった。押さえきれなかった。悪かったな」
「ピー助は、ずっとそれを抱えてるの? 苦しくないの?」
月代が尋ねると、月守は少しだけ間を置いた。
「苦しい。悪霊を宿す器は、宿したものの怒りも恐れも、自分の身の内で受け止め続ける。普通の鳥なら、とうに命が尽きている。この子が十三年生きているのは、器が特別だから。そして、この子自身が、まだ手放さないと決めているから」
「手放したら、どうなるの」
「悪霊は外へ出る。行き場がなければ、また誰かに取り憑く。行き場があれば――」
月守は、そこで言葉を切った。
「行き場があれば、還れる。でも、その行き場は、まだ誰にも見つけられていない」
「悪霊は、誰なの」
月代が、静かに尋ねた。
ピー助は答えなかった。
月守も、答えなかった。
答えなくても、二人には分かっていた。名簿の余白から削られた名前。劇場の出勤簿で退勤の欄が空白のままの少年。路地で笑っていた顔。そして、父を見て「おまえだ」と叫んだ、乾いた声。
「月守。二人で話したい」
耀司の意識が、月代の内側から言った。月守がうなずき、月代の背に手を当てると、月代の影から霊体の耀司が立ち上がった。二人は並んで、月代の手の中のピー助を見下ろした。
「父さんは、久賀って言った」
耀司が言った。
「僕たちが一度も言っていない名前を」
「うん」
「十字架を見て、どこで、って聞いた」
「うん」
それ以上は、どちらも言葉にしなかった。言葉にした瞬間に、何かが壊れてしまう気がした。
「戸叶さんのメモの、匿名の電話」
しばらくして、月代が言った。
「背後で、店の鈴が鳴ったって。中年の女の人の声」
「花屋さん、かもしれない」
耀司が言った。言ってから、なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、資料館の入口にあふれていた花と、鏡の中で花の形に揺れた父の影が、頭の隅に引っかかっていた。
「明日、町の古い花屋さんを探してみよう」
階下で、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
父の声だった。いつもと同じ、穏やかな声。
母が「おかえりなさい、あら、その手どうしたの」と言い、父が「鳥に引っかかれてね」と笑う声がした。
夕食の時間になると、月代は身体を耀司に返した。
食卓では、衿子が父の手の甲の絆創膏を見て眉をひそめていた。
「ピー助がやったの? ごめんね、お父さん。最近、本当に変なの、あの子」
「いいんだ。鳥のすることだ」
父は笑って、味噌汁をすすった。
「明日、病院に連れていく。どこか悪いのかもしれないし」
「そうしなさい」
父はそう言ってから、二階へ続く階段の方を、ちらりと見上げた。その上には耀司の部屋があり、窓辺には鳥かごがある。父の視線は、ほんの一瞬だけ、階段の暗がりで止まった。
新しい眼鏡は、まだ買っていなかった。ひびの入ったレンズのまま、父は箸を動かし続けた。
耀司は、父の顔を見ないようにして、ご飯を口に運んだ。何を食べても、味がしなかった。
夜更けに、二階の部屋へ戻ると、かごの中のピー助が、ぎゅっと身を縮めていた。
首の十字架が、月の光の中で、かすかに震えていた。
(第7話 了)




