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影鏡のふたり  作者: 揮奨尋規


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7/20

一触触発

電話は、十月十二日の朝にかかってきた。

 スポーツの日の祝日で、家族はまだ誰も起きていなかった。居間の固定電話が鳴り、耀司が受話器を取ると、聞き覚えのある明るい声がした。

「鏡ヶ浦新報の菅沼です。影浦耀司くんのお宅ですよね。……あの、従姉さんじゃなくて、耀司くん本人?」

「本人です」

「よかった。編集長が、あなたに会いたいって。見せたいものがあるんだって。今日の午前中、来られる?」

 耀司は、窓辺の鳥かごを振り返った。ピー助が、止まり木の上でじっとこちらを見ていた。

「行きます」

 受話器を置いて二階へ戻ると、部屋の隅の影に、まだ月守の輪郭が残っていた。夜明けの境目が過ぎたばかりで、夜の守護霊は朝の光に押されながらも、消える前に一言だけ言った。

「今日は、影が騒がしい。この町の影が、何かを待っている」

「何かって」

「分からない。でも、ずっと閉じていた扉が、開きかけている時の騒がしさ」

 月守の姿が朝日に溶けると、朝日の差し込む窓辺で、照真が腕を組んでいた。

「あの男は、おまえの顔より先に、フードを見ていた」

 照真は、最初に新聞社を訪ねた日の言葉を繰り返した。

「今日は、フードの中身ごと連れていけ。あの男が何を見ていたのか、確かめる時だ」


 家を出る時、居間では父がもう背広に着替えていた。祝日も企画展は開いている。父は靴べらを使いながら、耀司のパーカーのフードに目をやった。

「またピー助を連れて出かけるのか。衿子が心配していたぞ。最近、ピー助の様子がおかしいって」

「大丈夫。おとなしくしてるから」

「そうか」

 父は先に玄関を出ていった。資料館の方角へ歩いていく背中を、耀司はしばらく見送った。フードの中で、ピー助は一度も顔を出さなかった。

 新聞社の受付で、菅沼が手を振った。

「来てくれてよかった。編集長、朝から落ち着かなくて。煙草、もう五本目」

 階段を上がりながら、耀司は小声で照真に言った。

「戸叶さんは、何を見せたいんだろう」

「本人に聞け。わたしが照らせるのは、あの男が出してきた物だけだ」

 鏡ヶ浦新報の二階、編集長室は狭く、煙草の匂いが壁に染みついていた。

 戸叶は、窓際の机の向こうに座っていた。間近で見ると、日焼けした顔の皺が深い。目だけが、若い記者のように鋭かった。

「座りなさい」

 耀司がパイプ椅子に腰を下ろすと、戸叶はまず、耀司の背中のフードに目をやった。

「その鳥、ずっと連れて歩いているな」

「はい」

「首に、十字架を下げている」

 フードの中で、ピー助が身を固くした。

「最初に来た日に気づいた。文鳥が十字架を下げているなんて、珍しいからな。それに」

 戸叶は、机の引き出しから一枚の古い写真を取り出した。最終公演の夜の、傘の列の写真。資料館に貸したものの、別のコマらしかった。路地の入口が、少しだけ大きく写っている。

「この写真を撮った夜、路地の入口に三人いた。若い男女と、男の子。ルーペで見ないと分からないくらいの大きさだが、男の子の首元に、小さく光るものが写っている」

 耀司は、写真に顔を近づけた。三つの人影のうちの一つ、笑っているように見える少年の胸元に、針の先ほどの白い点があった。

「十字架、ですか」

「分からん。ボタンかもしれん。だが、俺は二十八年、これが気になっていた」

 戸叶は、もう一つ、引き出しから茶色く変色した大学ノートを取り出した。表紙に、乱暴な字で「取材メモ 平成十年九月」とある。

「宵宮さんの奥さんと、奥寺先生と、芦原の爺さん。君が会いに行ったことは、みんな俺の耳に入っている。この町は狭いからな。三人とも、君のことを、まっすぐな目をした子だと言っていた」

 戸叶は、ノートを机の上に置いた。

「俺が二十八年、誰にも見せなかったものだ。君なら、見せていいと思った」


 照真が、耀司の背に手を当てた。

「月代を出せ。ただし、影の中に留めておけ。今日は、外に出るな」

「どうして」

「この部屋の空気が、張りつめている。何かがはじける前の匂いがする」

 耀司の影の中で、月代の気配が目を覚ました。霊体の輪郭は現さず、影の中に身を沈めたまま、意識だけを外へ向けている。

(耀司。何か、来る)

(何かって)

(分からない。でも、この部屋の外の影が、ざわざわしてる)

 耀司は、ノートを開いた。

 九月二十九日の夜のページに、走り書きがあった。

 ――匿名電話。二十二時十分。中年の女性の声。名乗らず。

 ――「二十七日の夜、鏡座の裏の路地で、若い男女と、高校生くらいの男の子が話しているのを見た。男の子は笑っていた。女の人は怒っているようだった」

 ――「そのあと、もう一人、大人の男の人が来た。傘を差していた」

 ――「男の子は、そのあと、どこにも戻っていないと思う」

 ――「怖いから、名前は言えない」

 ――電話はそこで切れる。背後で、小さな鈴が鳴るような音。店の戸口の鈴か。

「鈴の音……」

 耀司がつぶやくと、戸叶はうなずいた。

「電話の向こうで、からん、と鳴った。店の戸を開けた時に鳴る鈴だと思った。どこかの店の人間が、店番をしながらかけてきたんだろう。それも、裏は取れなかった」

 照真が、ノートの上に光を落とした。光の中で、紙の繊維が浮かび上がる。走り書きの部分だけ、インクが紙の裏まで深く染みていた。

「書いた時の、手の力だ。書き手は、この電話を受けながら、震えていた」

 戸叶が、黙ってうなずいた。

 耀司はページをめくった。

 ――十月二日。県警に問い合わせ。被害者は二名のみ、第三の人物の情報なし、と。

 ――十月六日。鏡ヶ浦高三年男子の家出の件、記事化(五行)。匿名電話の「男の子」との関連、裏取れず。

 ――十月八日。教委・K氏に取材申込。家出の生徒の件、未成年の保護のため報道を控えるよう要請される。取材は拒否。

 ――十月九日。デスク判断。匿名電話の件は、裏が取れるまで掲載見送り。

 そこから先は、白紙だった。

「K……」

 耀司は、その一文字から目を離せなかった。

 奥寺のノートにも「男子K」とあった。あれは、久賀篤志のKだった。けれど、ここにある「教委・K氏」は、教育委員会の職員だ。

 久賀ではない。

 影浦の、K。

「俺はな、あの夜、劇場の正面にいた」

 戸叶は、窓の外に目をやった。

「最終公演の写真を撮りにな。観客が出てくるところを何枚も撮った。三人に気づいたのは、現像してからだ。路地の入口の、小さな三つの影。撮っている時は、まったく気づかなかった。目の前にいたのにな」

 戸叶は、自分の両手を見下ろした。

「シャッターを切った指の先に、あの子らはいた。それが、ずっと引っかかっている」

「俺が若かったんだ」

 戸叶が、低い声で言った。

「デスクに止められて、それきりにした。裏を取ろうと、何度か劇場の周りを聞いて回ったが、電話の女は見つからなかった。家出の生徒のことは、教育委員会に睨まれて、それ以上書けなかった。新聞記者が、役場の若い職員一人に黙らされたんだ。情けない話だ」

 ノートの白紙のページの上に、照真の光が静かに広がった。

「書かれなかったことも、記録だ」

 照真が言った。

「この男は、書かなかったことを、二十八年、白紙のまま持ち続けた」


 その時だった。

 編集長室の扉が、ノックもなく開いた。

「戸叶さん、記事のゲラの件で――」

 入ってきたのは、父だった。

 首から資料館のスタッフ証を下げ、手には企画展の資料を挟んだクリアファイルを持っている。父は、部屋の中にいる耀司を見て、足を止めた。

 ほんの一瞬、父の顔から、あらゆる表情が消えた。

 次の瞬間には、いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。

「耀司。こんなところで、何をしているんだ」

(耀司、気をつけて)

 影の中で、月代が鋭く言った。

(お父さんの影が、膨らんでる)

 耀司は、足元を見た。父の影は、蛍光灯の真下で、短く床に落ちているだけだった。けれど月代には、別のものが見えているのだ。

「町の百年の課題で、戸叶さんに古い記事のことを伺っていたんです」

「そうか」

 父は机に近づき、開かれたままの取材メモに目を落とした。

 九月二十九日の、匿名電話のページだった。

 父は、何も言わなかった。ただ、クリアファイルを持つ指先が、白くなるほど力を込めていた。

「戸叶さん」

 父の声は、穏やかなままだった。

「子どもに、古い事件のメモを見せるのは、感心しませんね。亡くなった方のご遺族も、まだ町に住んでいらっしゃる」

「遺族の宵宮さんには、その子が自分で会いに行っている」

 戸叶が、真っ直ぐに父を見た。

「それに、俺は二十八年前にも、同じことを言われた。未成年の保護のためだ、と。役場の若い職員にな」

 部屋の空気が、ぴんと張りつめた。

 照真が、耀司の前に半歩出た。光が強くなる。月代の気配が、影の底で身構えている。

「何の話か、分かりませんね」

 父は、微笑んだまま言った。

「耀司、帰りなさい。こういうことは、大人の仕事だ。それに――」

 父は、メモのページに指を置いた。

「三人目の男の子のことなんか書き立てたら、久賀さんのご家族が、また辛い思いをするだろう」

 耀司の心臓が、大きく跳ねた。

(今……)

 影の中で、月代が息を止めている。

 久賀。

 メモのどこにも、その名前は書かれていない。匿名電話は「高校生くらいの男の子」と言っただけだ。家出の記事にも、名前は出ていない。耀司は父の前で、一度も「久賀」という名前を口にしていない。

 路地にいた男の子と、家出をした久賀篤志。その二つを結びつけた記録は、この町のどこにもない。

 結びつけられるのは、路地を見た者だけだ。


 フードの中から、白い影が飛び出した。

 ピー助だった。

 小さな身体が、矢のように父の顔へ向かった。父は咄嗟に腕を上げ、ピー助の爪が、父の手の甲をかすめた。眼鏡が床に落ち、乾いた音を立てた。

「ピー助!」

 耀司が叫ぶより早く、ピー助は父の肩口に爪を立て、狂ったように羽ばたいていた。家族の耳にはただの鳴き声にしか聞こえないはずの声が、耀司の頭の中で、人の言葉となって響いた。

「おまえだ。おまえだ。おまえだ」

 いつものかすれた少年の声ではなかった。あの夜、鳥かごの中で聞いた、年上の、乾いた声だった。

 父が、ピー助を振り払おうと手を伸ばす。

 その手が、ピー助の首元で止まった。

 小さな十字架が、父の指先のすぐ前で揺れていた。

 父の目が、十字架に釘付けになった。

 時間が止まったように思えた。

 父は、十字架を見つめたまま、動かなかった。眼鏡のない裸の目で、まるで幽霊でも見るように、小指の爪ほどの銀色を見つめていた。

「照真!」

 耀司が叫ぶと、照真の光が部屋いっぱいに弾けた。窓から差し込む日差しが、ありえないほど白く強くなり、父も戸叶も、思わず目を細めた。その一瞬に、耀司は父の肩からピー助を両手で引き剥がした。

 ピー助は耀司の手の中で、激しく羽を震わせていた。

「どこで」

 父の声が、かすれていた。

「その鳥は、どこで、その十字架を」

「知らない。拾った時は、何もつけてなかったって、姉さんが」

 耀司は答えた。声が震えないようにするのが、精一杯だった。

 父は、床に落ちた眼鏡を拾い上げた。レンズに、細いひびが入っていた。父はそれを顔にかけ、ひびの入ったレンズ越しに、もう一度ピー助を見た。

「……躾が、なっていないな」

 父はそう言って、笑った。

 いつもの笑顔だった。いつもの、穏やかな父の笑顔。

 けれど、ひびの入ったレンズの向こうの目は、少しも笑っていなかった。

「戸叶さん、ゲラは後でまた伺います。耀司、先に帰っていなさい。夕飯までには父さんも帰る」

 父は手の甲の細い傷をハンカチで押さえながら、編集長室を出ていった。階段を下りていく足音が、いつもより速かった。

 戸叶は、長いこと扉を見つめていた。

「君のお父さんだったのか」

「……はい」

「そうか」

 戸叶は、取材メモを閉じ、しばらく表紙に手を置いていた。

「君は、何を知っている」

 耀司は、すぐには答えられなかった。影の中の月代と、意識を通して短く言葉を交わす。

(まだ、全部は言えない)

(うん。でも、嘘はつかないで)

「まだ、確かなことは何も。確かめている途中です」

「途中、か」

 戸叶は苦笑した。

「俺は二十八年、途中で止まったままだ。君は、止まるなよ」

 戸叶は、九月二十九日のページだけをコピー機にかけ、耀司に渡した。

「原本は、俺が持っている。誰にも渡さん。君が、もう一度ここに来るまで」


 新聞社を出ると、耀司の膝が、今になって震え始めた。

 駅前通りの人混みの中で、耀司はガードレールに手をついた。祝日の通りは家族連れでにぎわい、誰も一人の高校生の顔色など気にしていない。

(耀司)

(大丈夫)

(大丈夫じゃない。私にも、伝わってる)

 月代の意識が、耀司の意識にそっと寄り添う。震えているのは耀司の膝だったが、震えているのは二人ともだった。

「照真」

 耀司は、隣を歩く昼の守護神に言った。

「父さんが、久賀って言った。誰も言っていないのに」

「聞いた」

「それって」

「おまえが今、何を考えているかは分かる。だが、わたしは言わん」

 照真は、真っ直ぐ前を見たまま言った。

「一つの言葉は、一つの言葉だ。それだけで人を決めれば、おまえは二十八年前に誰かがやったことと、同じことをする。記録を集めろ。証言を並べろ。おまえの父が何者かを決めるのは、そのあとだ」

 耀司は、唇を噛んでうなずいた。

 家に帰ると、耀司の部屋の机の上が、わずかに乱れていた。

 印刷した写真の束の順番が、変わっている。いちばん上にあったはずの由紀のノートの写真が、三枚目にあった。芦原の鍵の貸出簿を写した一枚が、どこにも見当たらない。

(誰かが、見た)

 月代の声が、硬かった。

(父さんは、ずっと新聞社にいた)

(お父さんじゃない誰かかもしれない。でも、誰かが、私たちの机を見た)

 耀司は部屋を見回した。鳥かごの扉は閉まっている。窓の鍵も、かかっている。家族の誰かが、掃除のついでに触っただけかもしれない。

 そう思おうとした。思えなかった。

 夕陽が窓から差し込み、照真の輪郭が赤く溶けていく。本棚の影から、月守が立ち上がった。

「昼の番は、ここまでだ」

「夜の番を、引き受ける」

 照真は消える前に、鳥かごの中のピー助を一瞥した。

「月守。この鳥のことを、そろそろ話してやれ」

 照真が光の粒になって消えると、月守は鳥かごの前に膝をついた。ピー助は、止まり木の端で丸くなり、まだ小刻みに震えていた。

 耀司は手鏡を取り出した。

「自分は誰?」

「自分は誰?」

「――自分は、月代」

 少女の身体になった月代は、鳥かごの扉を開け、震えるピー助を両手でそっと包み込んだ。

「怖かったね」

 ピー助は、何も言わなかった。月代の手のひらの中で、ただ、小さな心臓を速く打たせていた。

「月守。教えて。ピー助は、何なの」

 月守は、静かに目を伏せた。

「この子は、悪霊を宿す鳥」

 部屋の空気が、冷たくなった。

「生まれつき、行き場をなくした悪い霊を身の内に迎え入れ、外へ出さずに抱えておける。そういう、とても珍しい器を持った鳥。この子自身の心は、あなたたちが毎日聞いている、あの口の悪い、かすれた声の方」

「じゃあ、あの年上の声は」

「この子が宿している、悪霊の声」

 月代の手の中で、ピー助が身じろぎした。

「十三年前、川沿いの倉庫の前で、この子は怪我をしてうずくまっていた。その時、すぐそばの暗いところで、十五年近く行き場をなくしていた霊が、この子の器に入り込んだ。この子は、それを追い出さなかった。追い出せば、霊は町をさまよって、誰かに取り憑く。だから、自分の中に閉じ込めて、抱えて生きることを選んだ」

「衿子姉さんを噛んだのは」

「悪霊が、あの子に近づこうとしたから。この子は、自分の身体を使って、悪霊を姉さんから遠ざけた。寄るな、と言ったのは、悪霊に向けた言葉」

 耀司は、あの朝の、衿子の指の小さな赤い点を思い出していた。

 月代の手の中から、ピー助のかすれた声がした。

「……言うなよ。かっこ悪いだろ」

 いつもの、少年の声だった。

「かっこ悪くなんかない」

 月代は、手のひらの中の小さな背中を、指先でそっと撫でた。

「十三年も、一人で抱えてたんでしょう。衿子姉さんを守りながら」

「一人じゃねえよ。おまえらが毎朝、鏡に向かってぶつぶつ言ってるのを聞いてた。退屈しなかった」

「ピー助」

「俺は、ただの可愛いペットだぜ。中に変なのが一匹住んでるだけだ」

 ピー助は、月代の指の間から、少しだけ顔を出した。

「今日のは、俺じゃねえ。中のやつが、あの眼鏡の顔を見て、暴れやがった。押さえきれなかった。悪かったな」

「ピー助は、ずっとそれを抱えてるの? 苦しくないの?」

 月代が尋ねると、月守は少しだけ間を置いた。

「苦しい。悪霊を宿す器は、宿したものの怒りも恐れも、自分の身の内で受け止め続ける。普通の鳥なら、とうに命が尽きている。この子が十三年生きているのは、器が特別だから。そして、この子自身が、まだ手放さないと決めているから」

「手放したら、どうなるの」

「悪霊は外へ出る。行き場がなければ、また誰かに取り憑く。行き場があれば――」

 月守は、そこで言葉を切った。

「行き場があれば、還れる。でも、その行き場は、まだ誰にも見つけられていない」

「悪霊は、誰なの」

 月代が、静かに尋ねた。

 ピー助は答えなかった。

 月守も、答えなかった。

 答えなくても、二人には分かっていた。名簿の余白から削られた名前。劇場の出勤簿で退勤の欄が空白のままの少年。路地で笑っていた顔。そして、父を見て「おまえだ」と叫んだ、乾いた声。

「月守。二人で話したい」

 耀司の意識が、月代の内側から言った。月守がうなずき、月代の背に手を当てると、月代の影から霊体の耀司が立ち上がった。二人は並んで、月代の手の中のピー助を見下ろした。

「父さんは、久賀って言った」

 耀司が言った。

「僕たちが一度も言っていない名前を」

「うん」

「十字架を見て、どこで、って聞いた」

「うん」

 それ以上は、どちらも言葉にしなかった。言葉にした瞬間に、何かが壊れてしまう気がした。

「戸叶さんのメモの、匿名の電話」

 しばらくして、月代が言った。

「背後で、店の鈴が鳴ったって。中年の女の人の声」

「花屋さん、かもしれない」

 耀司が言った。言ってから、なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。ただ、資料館の入口にあふれていた花と、鏡の中で花の形に揺れた父の影が、頭の隅に引っかかっていた。

「明日、町の古い花屋さんを探してみよう」

 階下で、玄関の扉が開く音がした。

「ただいま」

 父の声だった。いつもと同じ、穏やかな声。

 母が「おかえりなさい、あら、その手どうしたの」と言い、父が「鳥に引っかかれてね」と笑う声がした。

 夕食の時間になると、月代は身体を耀司に返した。

 食卓では、衿子が父の手の甲の絆創膏を見て眉をひそめていた。

「ピー助がやったの? ごめんね、お父さん。最近、本当に変なの、あの子」

「いいんだ。鳥のすることだ」

 父は笑って、味噌汁をすすった。

「明日、病院に連れていく。どこか悪いのかもしれないし」

「そうしなさい」

 父はそう言ってから、二階へ続く階段の方を、ちらりと見上げた。その上には耀司の部屋があり、窓辺には鳥かごがある。父の視線は、ほんの一瞬だけ、階段の暗がりで止まった。

 新しい眼鏡は、まだ買っていなかった。ひびの入ったレンズのまま、父は箸を動かし続けた。

 耀司は、父の顔を見ないようにして、ご飯を口に運んだ。何を食べても、味がしなかった。

 夜更けに、二階の部屋へ戻ると、かごの中のピー助が、ぎゅっと身を縮めていた。

 首の十字架が、月の光の中で、かすかに震えていた。


(第7話 了)


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