表裏一体
その朝、父は珍しく、出かける前に耀司の部屋の扉を叩いた。
「今日も調べものか」
「うん。午前中だけ」
「熱心だな。父さんは資料館だ。三連休は来場者が多いから」
父は扉の枠に手をかけたまま、部屋の中をぐるりと見回した。机の上のクリアファイル、窓辺の鳥かご、伏せられた手鏡。
「そうだ。鏡座の管理人をしていた芦原さんって人がいてね。来週あたり、また会いに行くつもりなんだ。劇場の古い日誌を、どうしても見せてもらいたくて。頑固な人でね、なかなか首を縦に振ってくれない」
父は笑った。
「おまえも町の百年を調べているなら、いつか紹介しよう」
「うん」
父の足音が階段を下りていくと、内側で月代が息を吐いた。
(どうして、今、芦原さんの名前を)
(分からない)
鳥かごの中で、ピー助が扉の方を見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。
宵宮登美は、二枚の半紙を長いこと黙って見つめていた。
一枚は、奥寺礼子の「ごめんなさい」。もう一枚は、月代が書いた「宵宮由紀」。
十月十日、土曜日の朝。宵宮家の座敷の縁側に、秋の日差しが斜めに差し込んでいた。月代は、少女の姿で登美の前に正座している。手鏡で入れ替わったのは、生け垣の角の陰だった。
「奥寺先生、ね」
登美は、震える指で「ごめんなさい」の文字をなぞった。
「あの先生のことは、覚えてる。お葬式の時、ずっと廊下で泣いていた。私は、どうしてあんなに泣くんだろうと思っていた。あの子が相談していたなんて、知らなかった」
「先生は、ずっと自分を許していないそうです」
「そう」
登美は、半紙を膝の上に重ねた。
「許すとか、許さないとか、私にはまだ分からない。でも、この字は、仏壇に供えさせてもらうわ。由紀の名前と一緒に」
登美はそれから、月代の書いた「宵宮由紀」の字に目を落とした。
「あなたの字、少し茉莉に似てる。払いの最後で、ちょっとだけ筆を戻す癖」
月代は、何も言えなかった。内側で耀司が、そっと月代の意識に寄り添った。言葉にはしない。けれど、月代には分かったはずだ。
縁側の影の中で、照真の光が届かない一角に、月守の声がにじんだ。
(この家の影が、少しだけ軽くなった)
「そういえば、あなたのお名前を、まだ聞いていなかったわね」
「月代です。月に、代わると書いて」
「月代さん」
登美は、その名を口の中で確かめるように繰り返した。
「きれいな名前。茉莉はね、子どもの頃、月を見るのが好きだったの。満月の晩には、縁側から動かなくて。月には、もう一人の自分が住んでいるんだって言っていた」
月代は膝の上で手を握りしめ、ただ「はい」とだけ答えた。
帰り際、登美は玄関で言った。
「鏡座のことを調べているなら、芦原さんを訪ねてごらんなさい。あの劇場の管理人をしていた人。もう八十を過ぎたけれど、まだ元気よ。劇場の跡地の裏に住んでる」
「芦原さん……」
「権蔵さん。町の人はみんな、権さんって呼んでた。茉莉も、子どもの頃によく可愛がってもらったのよ」
芦原権蔵の家は、駅裏の駐車場の北側、路地の入口から三軒目にあった。
古い木造の平屋で、玄関先には鉢植えの菊が並んでいる。表札の下に、手書きの小さな札が貼ってあった。「鏡座 元管理人 芦原」。
耀司は、生け垣の陰で月代から身体を返してもらっていた。照真が、陽光の中で腕を組んで立っている。
「今日は、二人で入れ」
照真が言った。
「二人で?」
「この家には、表と裏がある。客を通す座敷と、誰にも見せない物置だ。一人では、片方しか見られん」
耀司は呼び鈴を押した。
出てきたのは、小柄で、背中の少し曲がった老人だった。白い眉が長く、目尻が垂れている。けれど、耀司を見上げる目は、驚くほど鋭かった。
「宵宮さんの紹介か。電話をもらったよ。上がりなさい」
登美が、先に電話をしてくれていたのだ。
通された座敷の壁には、鏡座の写真が何枚も額に入れて掛けられていた。開館当時の写真、満員の客席、楽屋で笑う役者たち。そして、最終公演の夜の、傘の列の写真。資料館に展示されていたものと同じ構図だが、こちらは焼き増しの色がまだ鮮やかだった。
「資料館に貸したのと同じ写真だ。戸叶くんにもらった」
いちばん大きな額には、劇場のロビーが写っていた。正面の壁一面に、背丈の倍ほどもある大きな鏡が嵌め込まれている。金の縁取りに、蔦の彫刻。鏡の中に、開演を待つ客たちの姿が映り込んでいた。
「劇場の名前の由来だ。明治の終わりに、先代が神戸から運ばせた鏡でな。客は入ってくると、まずこの鏡で自分の顔を見る。今夜はどんな顔で芝居を観るのか、ってな」
芦原は額を見上げ、懐かしそうに目を細めた。
「茉莉ちゃんは、小さい頃、この鏡の前でよく変な顔をして遊んでいた。自分の顔を見て笑うんだ。不思議な子でな。鏡の中の自分に、話しかけていた」
耀司の手の中で、手鏡がかすかに熱を持った。内側で、月代が息を詰めている。
(覚えてる)
月代の声が、震えていた。
(大きな鏡。金色の縁。自分は誰?って、聞いてた。あの頃から)
「その鏡は、今どこに」
「取り壊しの時に割れちまった。運び出す途中でな。破片は、どこへ行ったか」
芦原は、座布団に腰を下ろした。
「劇場のものは、ほとんど資料館に寄付した。座席を一脚、看板、緞帳の端切れ、入場券の半券の束。役場の影浦さんが、企画展のためにと熱心に頼みに来てね」
耀司の背中が、ぴくりと動いた。
「影浦は、僕の父です」
「おお、そうか。それはそれは」
芦原は目を細めた。
「いい人だよ、あんたのお父さんは。毎週のように来て、劇場の思い出話を聞いてくれた。年寄りの話を、あんなに辛抱強く聞いてくれる若い人は、そういない」
照真が、座敷の隅で静かに言った。
「表だ。今見えているのは、この家の表と、おまえの父の表」
耀司は、芦原の顔を見た。父を褒める芦原の目に、嘘はなかった。父は本当に、毎週ここへ通い、老人の話に耳を傾けていたのだろう。それが父という人だった。耀司が知っている、穏やかで辛抱強い父。
その父が、芦原に「日誌を見せてほしい」と頼み続けている。今朝、自分の口でそう言った。
(表と、裏)
月代が、照真の言葉を繰り返した。
耀司は、膝の上で拳を握った。
「芦原さん。劇場の裏口の鍵のことを、伺いたいんです」
「裏口?」
「最終公演の夜、裏口の鍵は芦原さんが管理していたと聞きました」
芦原の鋭い目が、わずかに細くなった。
「誰に聞いた」
「当時、大道具のバイトをしていた人の同級生に」
「……ああ。久賀の坊主のことか」
芦原は、深く息を吐いた。
「あの坊主のことを調べているのか。家出した、あの」
「はい」
芦原は立ち上がり、床の間の脇の戸棚から、古い帳面を二冊取り出してきた。
「劇場の管理日誌と、鍵の貸出簿だ。これだけは、資料館に渡さなかった。あんたのお父さんにも、見せてくれと言われたがね。これは劇場の楽屋の話だ、客に見せるものじゃないと言って断った」
耀司は、帳面を受け取った。手の中で、手鏡がかすかに震えていた。
「照真」
「分かっている。月代を出せ。おまえは表を見ろ。月代には、裏を見させる」
照真の光が耀司の背に触れ、影の中から月代が立ち上がった。芦原には見えない。月代は耀司と目を合わせ、小さくうなずくと、座敷の奥の襖をすり抜けて廊下へ出ていった。霊体は物に触れられないが、扉や襖を通り抜けることはできる。ただし、耀司の影から遠く離れるほど、輪郭は薄くなる。
(物置は、廊下の突き当たり。勝手口の横)
月代の声が、意識を通して届く。
(暗い。窓がない)
(月守は?)
(いる。声だけ)
耀司は帳面を開いた。
管理日誌は、日付ごとに几帳面な字で埋められていた。開演時刻、入場者数、終演時刻、施錠時刻。九月二十七日のページには、こうあった。
――最終公演。入場者四百十二名。午後八時四十分終演。午後九時、裏口施錠。芦原。
照真が、日誌の上に光を落とした。
「九時、施錠。その字を、よく見ろ」
光の中で、「九」という字のまわりだけ、紙の表面がわずかにけば立って見えた。消しゴムか、刃物で薄く削った跡。その上から、別の日のインクで書き直されている。
「書き直されてる」
耀司がつぶやくと、芦原の肩がわずかに強張った。
月代は、物置の暗闇の中に立っていた。
窓のない三畳ほどの部屋に、古い木箱や行李が積み上げられている。埃と、樟脳と、古い油の匂い。棚の上に、錆びた鍵束が一つ吊るされていた。
(月守)
(ここにいる)
暗闇そのものが、声を持っているようだった。
(この部屋の影は、主の後ろめたさを溜め込んでいる。見せてあげる)
月守の声とともに、暗闇の中に、薄い影が浮かび上がった。
劇場の奈落のような、低い天井の地下室。数人の男たちが車座になって、湯呑みで何かを飲んでいる。一升瓶が転がっている。中心にいるのは、今よりずっと若い芦原だった。男たちは笑い、肩を叩き合い、やがて誰かが泣き出す。
(最終公演の夜。閉館のあとで、昔の仲間と、劇場の地下で別れの酒を飲んでいた)
(裏口の鍵は?)
(開いていた。九時には閉めていない。閉めたのは、日付が変わる頃)
影の中の芦原が、ふと顔を上げた。天井の方を見上げている。何かを聞いたのだ。
(雨の音に混じって、裏口の外で、人の声がした。言い争うような声。芦原は、それを聞いた。でも、上がっていかなかった)
影の中の芦原は、しばらく天井を見つめていたが、やがて首を振り、湯呑みを口に運んだ。
月代は、棚の鍵束を見上げた。束の中に、一本だけ、色の違う鍵がある。真鍮の色がまだ新しい。札がついていて、かすれた字で「裏口・複製」とあった。
(複製の鍵が、あった)
月代の声が耀司に届く。
棚のいちばん下に、ほかの箱とは様子の違う桐の箱が一つ置かれていた。蓋には墨で「ロビー大鏡」と書かれている。蓋の隙間から、暗闇の中でもかすかな光が漏れていた。光ではない。何かが、わずかな明かりを跳ね返している。
(割れた鏡の破片。芦原さんは、どこへ行ったか分からないって言ったのに)
(この人は、捨てられなかったのね)
月守の声は、責めてはいなかった。
(大事なものほど、どこにあるか分からないと言いたくなる。それも、人の表と裏)
その時、月代の足元で、ばたばたと羽音がした。
ピー助だった。耀司のフードから抜け出し、廊下を追いかけてきたらしい。けれど、物置の入口の手前で、ピー助はぴたりと止まった。
「ピー助?」
「入らねえ」
「どうして」
「その部屋は、劇場の匂いがする」
ピー助は、廊下の床に爪を立てたまま、物置の暗闇を見ようとしなかった。小さな身体が、細かく震えている。
「大道具の、油と、埃と、ペンキの匂いだ。俺は……あいつは、その匂いの中で、毎晩、何かを運んでた」
ピー助はそれだけ言うと、身を翻して座敷の方へ飛び戻っていった。
「芦原さん」
耀司は、日誌から顔を上げた。
「九月二十七日の夜、裏口を閉めたのは、本当に九時ですか」
芦原は答えなかった。
「劇場の地下で、昔の仲間の方たちと、お別れの会をしていたんじゃないですか。裏口を開けたまま」
芦原の目が、大きく見開かれた。
「……どうして、それを」
「僕たちは、知りたいだけなんです。責めるつもりはありません」
長い沈黙があった。
やがて芦原は、両手で顔を覆った。
「劇場は、その夜の零時で町に引き渡されることになっていた。閉館したら、もう誰も入っちゃいけない。それを、わしは仲間を地下に入れて、酒を飲んでいた。みんな、四十年、五十年、あの劇場で働いてきた連中だ。最後に一晩くらい、と思った」
「それで、日誌の時刻を書き換えた」
「事件のあとでな。警察が劇場のことを聞きに来た。裏口が開いていたなんて言ったら、わしらが疑われる。それより何より、引き渡しの前に勝手に入っていたことが、町に知れる。仲間に迷惑がかかる。だから、九時に閉めたことにした」
芦原は顔を上げた。目が赤かった。
「声は、聞いた。裏口の外で、誰かが言い争う声を。若い男の声と、もっと低い、大人の声だった。雨で、何を言っているかは分からなかった。わしは、上がっていかなかった。行けば、わしらが中にいたことがばれる。それで……あの子らが」
芦原の声が途切れた。
「茉莉ちゃんがな。あの子は小さい頃、よく劇場の楽屋に遊びに来たんだ。わしの膝に乗って、役者の化粧を眺めていた。あの夜、上がっていっていれば。わしが、上がっていっていれば」
芦原の肩が、小刻みに震えていた。八十六の老人が、二十八年分の後悔を、初めて人に向かって吐き出している。耀司は、ただそれを受け止めることしかできなかった。
ふと、芦原が顔を上げ、耀司の顔を見た。
「あんた、本当は何者だ。ただの高校生が、どうしてわしらが地下にいたことを知っている」
「……今は、言えません」
耀司は正直に答えた。
「でも、いつか必ず、本当のことを話しに来ます」
芦原は、長いこと耀司の目を見ていた。それから、ふっと力の抜けたように笑った。
「茉莉ちゃんも、そういう目をしていた。言えないことがある時は、言えないとはっきり言う子だった」
照真が、静かに言った。
「表裏一体。善いことと悪いことは、一つの行いの表と裏に貼りついている。仲間を思う心と、真実を隠した罪。この男は、どちらか片方だけの人間ではない」
芦原は、戸棚の奥からもう一冊、薄い帳面を出してきた。表紙に「大道具係 出勤簿 平成十年」とある。
「これも見ておくといい。久賀の坊主のことを調べているなら」
九月二十七日の欄。大道具のアルバイトが四人。出勤時刻と退勤時刻が、それぞれの名前の横に書き込まれている。三人の退勤は、午後九時半前後。
久賀篤志の欄だけ、退勤の時刻が空白だった。
「あの坊主は、最後の片付けの途中で、ふっといなくなった。誰も、帰るところを見ていない。家出だと聞いて、片付けが嫌で逃げたんだと思った。そういう坊主だったからな」
照真が、空白の欄に光を落とした。
「出勤の記録はある。退勤の記録はない。この子は、この夜、劇場の中から、記録の上では一度も出ていない」
耀司のフードの中で、ピー助が小さく身を縮めた。
耀司は、もう一冊の帳面を開いた。鍵の貸出簿だった。
「裏口の複製の鍵のことも、聞かせてください」
芦原は、帳面のあるページを指で押さえた。九月二十日の欄。
一行分が、修正液で白く塗りつぶされていた。その下の行に、別の筆跡で「十月一日 返却済」とだけ書かれている。
「引き渡しの前に、町の役場から、建物の点検のために複製の鍵を一本貸してほしいと頼まれた。若い職員が取りに来た。わしは、ここに名前を書いてもらった」
「その名前は」
「覚えておらん。若い職員なんぞ、みんな同じ顔に見えた」
芦原は首を振った。
「事件のあと、その職員がまた来て、鍵を返しに来た。そして、ここの行を消してくれと言った。役場の書類の手続きと合わなくなるから、と。わしは、言われたとおりにした。自分の日誌を書き換えたばかりだったからな。人のことを言える立場じゃなかった。それに、返却は自分で書くから、と言って、その職員が下の行を書いていった」
照真が、修正液の上に光を落とした。
白い膜の下で、うっすらと文字の影が浮かぶ。ほとんど読めない。ただ、最初の一文字だけが、かろうじて形を結んでいた。
――役。
役場、の役だった。その先は、修正液に呑まれていた。
「照真。その下の、返却の行は」
「そちらは、消されていない。消す必要がないと思ったのだろう」
十月一日、返却済。数字と、たった五文字の漢字とひらがな。
耀司は、スマートフォンでそのページを撮った。
芦原の家を出ると、空はもう茜色に染まっていた。
月代は耀司の影に戻り、ピー助はフードの中で丸くなっていた。夕陽が駐車場のフェンスを赤く照らし、照真の輪郭が溶けていく。その影から、月守が立ち上がった。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
月守が耀司の背に手を当て、月代を影から引き出した。二人は並んで、駐車場の端の、劇場の土台の石の前に立った。
「芦原さん、優しい人だったね」
月代が言った。
「茉莉のことを、ずっと覚えてくれてた」
「うん。でも、あの夜、上がっていかなかった」
「どっちも、本当なんだね」
表裏一体。照真の言葉が、二人の間に残っていた。
「父さんのことも、そうなのかな」
耀司が言った。言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。
「芦原さんは、父さんのことを、いい人だって言った。毎週通って、年寄りの話を辛抱強く聞いてくれたって。あれは、嘘じゃないと思う」
「うん。私も、そう思う」
「でも、父さんは、鍵の貸出簿を見たがった」
二人は、黙って土台の石を見つめた。
「ねえ、耀司。劇場の大きな鏡」
月代が、土台の石を見下ろしたまま言った。
「茉莉は、あの鏡に向かって、自分は誰?って聞いてた。私が手鏡に聞くのと同じこと。生まれる前から、私たち、ずっと同じ問いを持ってたんだね」
「その鏡の破片が、芦原さんの物置にある」
「うん。いつか、見せてもらいたい。触れなくても、映してみたい」
耀司はうなずいた。割れた大鏡の破片に、何が映るのか。それを考えると、怖さと同じくらいの強さで、知りたいと思った。
月守が、静かに言った。
「表を見たら、裏も見なさい。裏を見たら、もう一度表を見なさい。どちらか片方だけを見て決めるのは、影を見て物の形を決めるのと同じ」
その夜、父は八時過ぎに帰ってきた。
夕食の席に着くなり、父は耀司を見て笑った。
「芦原さんから電話があったよ。うちの息子が、劇場のことを聞きに来たって」
箸を持つ耀司の手が、わずかに強張った。
「宵宮さんの紹介だったらしいな。日誌、見せてもらったんだって? 父さんには一度も見せてくれなかったのに。ずるいな」
父の声は、いつもどおり穏やかだった。冗談めかした口調で、母も衿子も笑っている。
「何が書いてあった?」
「時刻とか、入場者の数とか。普通のこと」
耀司は、なるべく何気なく答えた。嘘ではない。全部を言っていないだけだ。
「そうか。それなら、父さんも今度、改めて頼んでみるかな」
父はビールを一口飲み、テレビの天気予報に目を移した。
それきり、父は日誌のことを口にしなかった。けれど、耀司は気づいていた。父のグラスを持つ手が、テレビに目を向けている間じゅう、一度もテーブルに下ろされなかったことに。
(耀司)
(うん。見てた)
以心伝心は、こういう時に限って、ひどくよく働いた。
夜が更けてから、耀司は居間の押し入れから、またアルバムを出した。
月守の影の中で、平成九年四月の入庁式の写真を抜き出す。裏に、父の字で書かれた日付。
――平成九年四月。
耀司は、スマートフォンの画面に、芦原の貸出簿の写真を並べた。
――十月一日 返却済。
二つの「月」の字を、霊体の月代と一緒に見比べる。
どちらの「月」も、最後の縦画の終わりで、筆先を左上へ小さく跳ね上げていた。書道教室で奥寺が言っていた、癖の出やすいところだった。
「同じ……かもしれない」
月代が、ほとんど聞こえない声で言った。
「かもしれない、だよ」
耀司は、自分に言い聞かせるように答えた。
「月の字の跳ねる人なんて、町に何百人もいる」
鳥かごの中で、ピー助が目を開けていた。止まり木の上から、並んだ二つの「月」の字を、じっと見下ろしていた。
「おまえら」
ピー助が言った。いつもの、かすれた少年の声だった。
「その字を書いたやつの顔、本当に見たいのか」
二人は答えなかった。
答えられなかった。
(第6話 了)




