以心伝心
「私が行く」
月代は、珍しく譲らなかった。
十月四日、日曜日の朝。耀司の部屋の机の上には、卒業記念誌の写真が一枚だけ置かれていた。三年三組のページ。集合写真の端に、担任の教師が立っている。名前の欄には「奥寺礼子」とあった。
由紀のクラスの担任。由紀がノートに書いた「先生」は、この人である可能性が高い。
昨夜、耀司が町の公民館のホームページを調べると、奥寺礼子という名前が、書道教室の講師として載っていた。日曜の午前、子ども向けの教室。体験の申し込みは、当日でも受け付けている。
「由紀のことを聞くなら、私の方がいい。野上さんの時だって、そうだったでしょう」
「でも、申し込みのフォームに、僕の名前を入れちゃったんだ」
「名前なんて、従姉だって言えば」
「二回続けて従姉は、さすがに怪しまれるよ」
机の前の霊体の月代が、唇を結んだ。夜明けの境目に月守が引き出してくれた姿のまま、月代は朝日の中で輪郭を細かく震わせていた。照真が来れば、光が強くなって、月代の霊体はもたなくなる。
「それに」
耀司は言葉を探した。
「由紀さんのこと、月代が聞いたら、きっとまた苦しくなる。宵宮さんの家でも、野上さんの時も、月代はずっと震えてた。僕にも伝わってた」
「だから、私に行かせないってこと?」
「そうじゃない。そうじゃないけど」
「耀司は、私を守ろうとしてる」
月代の声は、怒っているというより、寂しそうだった。
「守られるのは、嫌いじゃないよ。でも、由紀のことだけは、自分で聞きたいの」
窓辺のピー助が、止まり木の上で首をすくめた。
「朝から痴話げんかかよ」
「痴話げんかじゃない」
二人の声がそろった。ピー助は、くっ、と喉を鳴らした。
カーテンの隙間から、最初の陽光が差し込んだ。月守の輪郭が薄れ、床の上で光が人の形を結ぶ。照真が現れると同時に、月代の霊体は、耀司の影の中へ吸い込まれるように戻っていった。
「どちらが行くかで揉めているのか」
照真が言った。
「揉めてるっていうか……」
「ならば、こうしろ。身体は一つ。行く者も一人。だが、聞く者は二人いる」
耀司は顔を上げた。
「以心伝心という言葉がある。言葉にせずとも、心が通じること。おまえたちには、それが最初からできるはずだ。なぜ使わん」
(……そういうことか)
内側で、月代がつぶやいた。
(耀司が座る。私が、耀司の中から聞く)
(質問は、月代が考えて)
(耀司が、口にする。耀司の声で)
それは、二人が十六年間、無意識にやってきたことだった。けれど、意識してやろうとしたことは、一度もなかった。
公民館の和室には、墨の匂いが満ちていた。
小学生が六人、長机に並んで半紙に向かっている。いちばん端に座った耀司は、明らかに浮いていた。
「高校生の体験は、久しぶり」
奥寺礼子は、白髪をきれいにまとめた、背筋の伸びた女性だった。六十を少し過ぎたくらい。紺の作務衣の袖を、たすきで留めている。
「筆の持ち方は、こう。力を抜いて。字は、手ではなく、肩から書くの」
耀司のパーカーのフードの中で、ピー助がもぞもぞと動いた。今朝、どうしてもついてくると言い張ったのだ。
「書道なんか、文鳥に関係ねえだろ」と耀司がからかうと、ピー助は「墨の匂いが好きなんだよ」と言い返した。文鳥が墨の匂いを好きだなんて、聞いたことがない。かごの扉を開けると、ピー助は誰に言われるより早く、耀司の肩からフードの中へ飛び込んでいた。
(ピー助、公民館って聞いた時、目の色が変わった)
家を出る時、月代がそう言っていた。耀司も気づいていた。気づいていて、理由を聞かなかった。
「今日のお題は、これ」
奥寺が手本を掲げた。
――以心伝心。
耀司は、筆を取り落としそうになった。内側で、月代が息をのむ。
(偶然、だよね)
(偶然だよ。たぶん)
照真は和室の隅で腕を組み、知らん顔をしていた。
耀司が最初に書いた「以心伝心」は、ひどいものだった。「以」は傾き、「心」の点はばらばらに散らばり、「伝」の旁は半紙からはみ出した。隣の席の小学三年生くらいの女の子が、のぞき込んでくすくす笑った。
「お兄ちゃん、へたっぴ」
「うん。へたっぴだね」
(力が入りすぎ)
内側で、月代が言った。
(肘を浮かせて。筆は、立てたまま。払いの前で、一回息を吐いて)
耀司は言われたとおりにした。自分の腕なのに、月代の言葉が腕の内側を通って、指先まで降りてくるような気がした。二枚目の「心」は、一枚目よりずっとましだった。三枚目の払いは、奥寺が「あら」と声を上げるほど、きれいに伸びた。
「誰かに習っていたの?」
「いえ。今日が初めてです」
嘘ではなかった。身体を動かしたのは耀司で、筆の運びを知っていたのは月代だった。月代自身も、筆を持ったことはない。たぶん、もっと前の、茉莉という名の人生で覚えたことなのだろう。
一時間の教室が終わると、隣の席の女の子が「またね、へたっぴのお兄ちゃん」と手を振って出ていった。耀司は苦笑して手を振り返した。子どもたちが帰っていくと、耀司は片付けを手伝いながら、奥寺に声をかけた。
「先生。鏡ヶ浦高校で、教えてらしたんですよね」
「ええ。もう退職して五年になるけど」
「平成十年に、三年三組の担任をされていた」
奥寺の手が、硯の上で止まった。
「……よく知っているわね」
「卒業記念誌で見ました。学校の課題で、町の百年を調べていて」
耀司は、それ以上踏み込まなかった。内側で月代が、待って、と言っていたからだ。
(今は、先生の手を見て)
奥寺の手は、硯の縁を、ゆっくりと布で拭っていた。墨はもう、どこにも残っていない。それでも、拭い続けている。
(野上さんと同じ。拭っても落ちないものを、拭ってる)
「宵宮由紀さんのことを、覚えてらっしゃいますか」
耀司が言った。言葉を選んだのは月代で、声にしたのは耀司だった。
奥寺は、布を置いた。
「忘れたことはないわ」
廊下の向こうで、迎えに来た保護者と子どもたちの笑い声が遠ざかっていく。奥寺は、その声が完全に消えるまで黙っていた。子どもたちの前では話せないことなのだと、耀司にも分かった。
和室の窓から、日曜の昼の光が差し込んでいる。照真が、その光の中で静かに奥寺を見ていた。
「二学期が始まってすぐだったわね。放課後、職員室に来て、少し話がしたいって」
奥寺は座布団に正座し、膝の上で手を重ねた。
「同じ学年の男子生徒のことで困っている、と言ったの。付き合っていたけれど、別れたいのに別れてくれない。言うことを聞かないと、いろいろなことをばらすと言われている。それから――」
奥寺は、そこで言葉を止めた。
「それ以上のことは、あの子の口から聞いたことを、私が勝手にあなたに話すわけにはいかない。分かってくれる?」
「はい」
耀司はうなずいた。内側で、月代も同じようにうなずいていた。
(それでいい。由紀のことは、由紀のもの)
「私はね、その時、間違えたの」
奥寺は、自分の手の甲を見つめた。
「相手の男子生徒は、生徒会の役員で、成績も優秀で、推薦入試を控えていた。先生方の誰からも信頼されている子だった。だから私は、由紀さんに、二人でよく話し合いなさいって言ってしまった。それから、教頭先生に相談した。教頭先生は、推薦の時期だから慎重に、と言った。慎重に、というのは、何もしないということだった」
奥寺の声は静かだったが、一語一語が重かった。
(先生に相談した。でも、だめだった)
月代が、由紀のノートの一行を、耀司の意識の中でなぞった。
「正式な記録には、残さなかった。残すな、とは言われなかったけれど、残せば問題になる空気だった。私は、自分のノートにだけ書いた」
「そのノートは、まだありますか」
耀司が尋ねた。月代の問いだった。
奥寺は、しばらく耀司の顔を見つめていた。
「あなた、本当に課題で調べているの?」
耀司は、答えに詰まった。
(本当のことを、少しだけ)
月代が言った。
(全部は言わなくていい。でも、嘘はつかない方がいい。この人は、嘘を聞き分ける人)
「課題は、口実です」
耀司は言った。
「由紀さんのお母さんに会いました。由紀さんが何を怖がっていたのか、二十八年間、聞けずじまいだったって。僕は、それを知りたいんです。知って、お母さんに届けたい」
奥寺は目を閉じた。
長い沈黙のあと、奥寺は立ち上がり、和室の隅の自分の鞄から、古い大学ノートを取り出した。表紙に、几帳面な字で「平成十年度 三年三組」とある。
「書道の手本と一緒に、ずっと持ち歩いているの。捨てられなくて」
奥寺は、ノートを開いて耀司の前に置いた。
九月三日。宵宮由紀、来室。同学年男子Kについて相談。本人の希望により、当面は口外せず。
九月十日。教頭に報告。推薦時期につき慎重に、との指示。
九月十八日。宵宮、表情暗し。声をかけるも、大丈夫です、とのみ。
そこで、ページの余白に、奥寺の字で一行。
――私は、あの子を見捨てた。
耀司は、その一行から目を離せなかった。
「照真」
耀司が小声で呼ぶと、照真が光をノートに落とした。由紀のノートと、奥寺のノート。二つの日付が、光の中で並ぶ。
八月二十七日、由紀のノートが途切れる。九月二日、再開。九月三日、奥寺に相談。九月十日、教頭が「慎重に」。そして由紀のノートには、九月のどこかで「先生に相談した。でも、だめだった」。
「二つのノートが、同じことを、別の側から書いている」
照真が言った。
「片方だけでは、ただの日記だ。二つ並べて、初めて記録になる」
耀司は、ページをめくった。
十月七日。教育委員会の若い職員が来校。三年二組Kの件、家出として処理する方向とのこと。卒業記念誌の扱いについても相談あり。名刺をいただく。
「教育委員会……」
「卒業記念誌の三年二組のページに、一行分の余白がありました」
耀司が言うと、奥寺はゆっくりとうなずいた。
「あの記念誌は、二学期の終わりには版がほとんど組み上がっていたの。集合写真は十月の初めに撮った。その日、Kくんはもういなかったから、写真の右上に、欠席者の顔を入れる丸い枠を用意した。戻ってきたら、そこに顔を入れるつもりで」
「でも、戻らなかった」
「年が明けて、家出のまま見つからない生徒を卒業生として載せるのはどうか、という話になってね。名前は版から抜かれ、枠の中には何も入れなかった。組み直す費用がないから、名前のところだけ削って、余白のまま刷ったの。みんな、気づいていたはずよ。でも、誰も何も言わなかった」
照真が、ノートの上に落としていた光を、わずかに強めた。
「記録がないのではない。記録を消した跡が、記録として残っている。余白も、空の枠も、ここにいた者を消そうとした誰かがいた証だ」
耀司は、名簿の余白に浮かんだ「久」の一字を思い出していた。消された名前は、消されたという形で、二十八年間そこに残り続けていたのだ。
「そう。家出をした生徒のことを、学校がどう扱うか、相談に来たの。名簿から外すかどうか。外すなら、版を組み直す費用をどうするか。そういう事務的な話」
奥寺は、ノートの十月七日のページの端を指さした。
「ここに、その時の名刺をホチキスで留めておいたはずなのよ」
ページの端には、ホチキスの針の穴が二つ、小さく開いていた。
名刺は、なかった。
「おかしいわね。何十年も、ここにあったはずなのに」
奥寺は首をかしげ、ノートの間をめくって探した。名刺は、どこにも挟まっていなかった。
「その職員の方の名前、覚えてらっしゃいますか」
「覚えていないわ。若い、物腰の柔らかい人だった。眼鏡を――」
奥寺が言いかけた、その時だった。
フードの中から、ピー助が飛び出した。
白い小さな身体が和室を横切り、奥寺の肩に止まる。奥寺は驚いて身を引いたが、ピー助は奥寺の肩から動かなかった。そして耀司に向かって、羽を広げ、鋭く鳴いた。
「その人を責めるな」
耀司にだけ聞こえる声だった。
「その人は何も知らねえ。名刺がどうとか、もういいだろ。帰るぞ」
(ピー助?)
内側で、月代が戸惑っている。耀司も同じだった。ピー助が、まるで奥寺を守るように、あるいは、奥寺の言葉を遮るように、そこにいる。
「あら、まあ」
奥寺が、肩の上の文鳥を見て、ふっと表情を緩めた。
「あなたの子? 人懐っこいのね」
「すみません、普段はこんなことしないんです」
「いいのよ」
奥寺はそっと指を差し出した。ピー助は、迷うように首を傾けてから、その指先に嘴を軽く当てた。噛むのではなく、触れるだけだった。
「不思議ね。昔、こんなふうに私の肩に乗ってきた子がいたような気がする。鳥じゃなくて、生徒だったけれど」
奥寺は小さく笑った。
「叱ってばかりいた子。いちばん手を焼いた子。でも、叱ると、少しだけうれしそうな顔をする子だった」
ピー助は、奥寺の指先から目をそらした。
耀司は、眼鏡の話の続きを聞くことができなかった。奥寺はピー助に気を取られ、話はそこで途切れてしまったのだ。
公民館を出た時には、日が西に傾いていた。
帰り支度をしていると、奥寺がもう一度、硯に墨を磨り始めた。新しい半紙を広げ、しばらく筆を宙に止めてから、一息に書いた。
――ごめんなさい。
手本のような字ではなかった。わずかに震え、最後の払いがかすれていた。
「あの子のお母さんに、これも渡してもらえるかしら。直接お詫びに行く勇気は、まだないの。情けないわね。六十を過ぎても」
耀司は、半紙を丁寧に二つ折りにして受け取った。墨はまだ、少し湿っていた。
奥寺は玄関まで見送りに出てきて、別れ際に、耀司の手にノートの十月七日のページのコピーを握らせた。
「お母さんに届けるなら、私の字も一緒に届けて。私が間違えたことも、全部」
夕陽が、公民館の前の植え込みを赤く染めていた。照真の輪郭が溶け、植え込みの影から、月守が立ち上がる。境目の時間だった。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
月守は、玄関に立つ奥寺の足元の影を見ていた。
「あの人の影を見て」
耀司が振り返ると、夕陽に長く伸びた奥寺の影が、片手で口元を覆っていた。本人は、ただ静かに手を振っているだけなのに。
「言えなかったことを、二十八年、抱えてきた影。声にならなかった悲鳴は、ああして手の形で残る」
月守は目を伏せた。
「あの人は、嘘は言っていない。ただ、自分を一度も許していない」
帰り道、耀司はフードの中のピー助に話しかけた。
「どうして、あの先生を庇ったの」
「庇ってねえ。腹が減ってただけだ」
「その言い訳、この前も聞いた」
ピー助は、しばらく黙っていた。
「あの先生は、俺に――」
言いかけて、ピー助は口をつぐんだ。
「……あいつに、ちゃんと叱った、たった一人の大人だったんだよ。あいつが、そう思ってた」
「あいつって、誰」
「知らねえ」
ピー助はフードの奥にもぐり込み、それきり何も言わなかった。
(今、俺にって言った)
月代が内側でささやいた。
(うん。聞こえた)
二人とも、それ以上は言葉にしなかった。言葉にしなくても、同じことを考えているのが分かっていた。
もし、ピー助が、あの少年だったら。
由紀を怖がらせ、野上から金を脅し取り、笑いながら人の弱みを使った少年。その少年が、文鳥に生まれ変わって、十三年間、衿子の手の上で眠っていたのだとしたら。
(考えたくない)
月代の声は、ひどく小さかった。
(でも、考えないのは、もっと嫌)
(うん)
耀司は、背中のフードの重さを感じながら歩いた。文鳥一羽分の、ほんのわずかな重さ。それが、今日はひどく重かった。
月守が、並んで歩きながら言った。
「今は、その子を問い詰めないで。答えを急げば、影は形を歪める。それに、生まれ変わった命が、前の命の罪をそのまま背負うのかどうか。それは、あなたたちがこれから考えること」
「月守は、どう思うの」
「わたしは影。影は、光の当たった物の形しか映せない。その子が今どんな形をしているかは、あなたたちの目で見なさい」
夕食の席で、父は機嫌がよかった。企画展の来場者が千人を超えたのだという。
「耀司、今日は公民館で書道だって?」
「うん。体験で」
「いいじゃないか。字がきれいなのは一生の得だ」
父はビールのグラスを傾け、懐かしそうに目を細めた。
「父さんも、役場に入ったばかりの頃は、教育委員会の事務局にいてね。学校回りばかりしていた。どこの学校にも、字の上手な先生がいたもんだ」
耀司の箸が、止まりかけた。止めなかった。内側で月代が、止めないで、と言ったからだ。
(今は、聞くだけ)
「教育委員会って、何するの」
衿子が尋ねた。
「いろいろさ。学校の困りごとを聞いて回ったり、書類を整えたり。若い職員は使い走りだよ」
父は笑い、母が「その頃のあなた、毎晩遅かったわね」と言った。
「付き合い始めたばかりだったのに、ちっとも会えなくて」
「あの年は、忙しかったんだ」
父は、それだけ言って、グラスを置いた。
あの年。どの年のことなのか、父は言わなかった。耀司も聞かなかった。
耀司は箸を動かし続けた。内側で、月代の心臓の音が、耀司の心臓の音と重なって速くなっているのが分かった。どちらの鼓動なのか、もう区別がつかなかった。
その夜、月代は手鏡に向かった。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
少女の身体になった月代は、机に半紙を広げ、公民館で分けてもらった筆と墨を取り出した。
書いたのは、由紀の名前だった。
宵宮由紀。
肩から書くのよ、という奥寺の声を思い出しながら、ゆっくりと筆を運ぶ。上手くはなかった。けれど、丁寧に書いた。
「月守。二人で話したい」
月守がうなずき、月代の背に手を当てる。今度は、月代の影から耀司が立ち上がった。霊体の耀司が、月代の隣に並んで、墨の乾いていく半紙を見下ろす。
「今日、ちゃんとできたね」
月代が言った。
「僕は口を動かしただけだよ」
「私は、口を動かせなかった。だから、半分ずつ」
月代は筆を置いた。
「朝は、ごめん。私、耀司が私を信じてないんだと思った」
「信じてるよ。信じてるから、怖かった。月代が傷つくのが」
「分かってる。今日、ずっと、耀司の怖いのが伝わってきてたから」
以心伝心。言葉にせずとも、心が通じる。それは便利な力ではなく、相手の痛みから逃げられないということでもあった。
けれど今日は、その逃げられなさが、二人を一つの問いへ運んだ。一人では聞けなかったことを、二人なら聞けた。月代はそれを、半紙の上に乾いていく墨の色で確かめるように、じっと見つめていた。
「名刺のこと」
耀司が言った。
「誰かが、外したんだ。いつか、どこかで」
「先生のノートは、ずっと先生の鞄の中にあったのに」
「ずっとじゃないかもしれない。二十八年の間に、誰かに見せたことがあるのかもしれない」
月守が、窓辺から静かに言った。
「失われたものは、失われた形で、そこにあったことを証明する。ホチキスの穴は、名刺よりも正直」
耀司は、奥寺のノートのコピーを、由紀のノートの写真の隣に並べた。
二つのノートの間に、一枚分の余白がある気がした。
その余白に、眼鏡をかけた若い男の名刺が、かつて挟まっていたのだ。
耀司は、奥寺から預かった「ごめんなさい」の半紙を、月代の書いた由紀の名前の半紙と重ねて、クリアファイルに挟んだ。
「近いうちに、宵宮さんの家に届けよう」
「私が行く」
月代が言い、それから、少しだけ笑った。
「今度は、揉めないで決められたね」
「以心伝心だから」
かごの中で、ピー助が身じろぎした。首の十字架が、墨の匂いの残る部屋で、小さく鳴った。
(第5話 了)




