暗中模索
机の上に、写真が十枚並んでいた。
新聞の紙面、卒業記念誌の名簿、由紀のノートの最後のページ。スマートフォンで撮ったものを、耀司は全部コンビニで印刷してきた。十月二日、金曜日の夜。部屋の明かりを消し、机の小さなスタンドだけを点けている。
「並べてはみたけど」
耀司の隣で、霊体の月代が腕を組んだ。月守の力で、今夜は二人並んで座っている。
「どれも、途中で途切れてる」
家出の記事には名前がない。名簿の余白には「久」の一字だけ。由紀のノートの「あの人」には名前がない。十字架の刻印は最後の一桁が読めない。
「暗中模索、ね」
窓辺の月守が言った。
「暗闇の中で、手探りで物を探すこと。今のあなたたちは、まさにそう」
「手探りでも、何も触れないんだ」
「触れていないのではない。触れたものの形が、まだ分からないだけ」
月守は鳥かごに目をやった。ピー助は止まり木の上で、羽を膨らませて目を閉じている。眠っているふりだと、二人とも分かっていた。
「ピー助、寝たふりはやめて」
月代が言うと、ピー助は片目だけを開けた。
「寝たふりじゃねえ。考え事だ」
「何を考えてたの」
「おまえらが、どこまで行くつもりなのかってことだよ」
ピー助は、首の十字架を嘴でつついた。
「暗いところを手探りで歩いてたら、いつか、触っちゃいけねえものに手が届く。そうなってから後悔しても遅い」
「触っちゃいけないものって、何」
「知らねえよ。だから手探りなんだろ」
「ピー助。名簿の余白の『久』って、誰?」
月代が声をかけても、ピー助は片目すら開けなかった。
耀司は、卒業記念誌の写真を手に取った。三年二組の集合写真。三十九人の顔。右上の空っぽの丸枠。
その時、気づいた。
「この人だけ、こっちを見てない」
最後列の右端。ひょろりと背の高い少年が、カメラではなく、右上の空っぽの丸枠の方へ、わずかに顔を向けていた。
「丸枠の方を、見てる」
月代が写真に顔を寄せる。名簿と照らし合わせると、最後列の右端は――野上達也。
記念誌の巻末には、卒業生の住所録が載っていた。二十八年前の住所だ。それでも、耀司は番地を指でなぞった。
「川沿いだ。倉庫街の、すぐ手前」
かごの中で、ピー助の羽がかすかに動いた。
翌日、十月三日の土曜日。
朝食の席で、父がテーブルの端に置かれた紙の束に目を留めた。耀司が昨夜印刷して、鞄にしまい忘れた写真だった。いちばん上に、卒業記念誌の集合写真が載っている。
「鏡ヶ浦高校の記念誌か」
父は一枚をつまみ上げ、眼鏡を額に押し上げて、目を細めた。
「平成十一年卒業。ずいぶん古いのを調べているな」
「課題で」
「そうか。この年の三年生は、確か……」
父は言いかけて、写真を束に戻した。
「いや。父さんは隣の市の高校だったから、こっちの学校のことはよく知らないんだ」
何を言いかけたのかを聞く前に、衿子が「お父さん、ジャム取って」と手を伸ばし、話はそれきりになった。衿子の人差し指の絆創膏は、もう外れていた。鳥かごの中のピー助は、今朝は衿子に一度も近づかず、止まり木の端で背を向けていた。
(何を言いかけたんだろう)
月代が内側でつぶやく。
(分からない。聞き返せばよかった)
(聞き返したら、何て答えたと思う?)
耀司は答えられなかった。答えを想像すること自体を、どこかで避けている自分がいた。
駅裏の駐車場から北へ、路地を抜け、倉庫街を横切って歩く。フードの中のピー助は、倉庫街に入ったとたん、ぴたりと黙り込んだ。羽毛越しに、小さな心臓がせわしなく打っているのが分かる。
「暗中模索の中にいる者は、つい明かりのある方へ走りたくなる」
照真が、並んで歩きながら言った。
「だが、明かりの近くには影も濃い。足元を確かめながら進め。一歩ずつだ」
「照真は、どっちに明かりがあるか知ってるの」
「知らん。知っていたとしても、おまえたちの足の代わりにはなれん」
住所の場所には、古い自動車整備工場が建っていた。トタン張りの壁に、ペンキの剥げた看板で「野上モータース」とある。シャッターは半分だけ上がり、奥から、金属を叩く音が響いていた。
「まだ、あった」
耀司はフードの中のピー助に言った。ピー助は返事をしなかった。川の匂いが、ここまで届いている。
照真が、工場の壁に貼られた古い地図に目を留めた。
「この町の地図だ。よく見ておけ」
昭和の終わり頃に作られたらしい、色あせた道路地図だった。工場の位置に赤い丸がつけてある。そこから南へ、倉庫街を抜け、駐車場跡の脇の路地を下り、駅裏の鏡座跡まで、まっすぐ線を引けば、ほとんど一本道だった。
「劇場の裏口から、ここまで」
「歩いて十五分ほどだろう。昨日の路地を、そのまま北へ延ばした先だ」
照真が地図の上に光を落とすと、鏡座の裏口と、路地の曲がり角と、倉庫街と、この工場が、細い光の線で結ばれた。
耀司は、半分開いたシャッターの下から声をかけた。
「すみません。野上達也さんは、いらっしゃいますか」
金属音が止まり、作業着の男が、車の下から這い出してきた。四十代半ば。日に焼けた顔に、油の染みがついている。背が高く、少し猫背だった。写真の中のひょろりとした少年の面影が、確かに残っていた。
「俺だけど。車の修理?」
「いえ。鏡ヶ浦高校の一年です。平成十年の、鏡座の最終公演の夜のことを調べていて」
野上の顔から、表情が消えた。
「それと、同じ頃にいなくなった、三年二組の生徒のことを」
「知らないな」
即答だった。
「悪いけど、仕事中なんだ。帰ってくれ」
工場の奥の事務所の窓から、五、六歳くらいの女の子が顔をのぞかせていた。クレヨンを握ったまま、不思議そうに耀司を見ている。野上は振り返り、「中にいろ」と短く言った。女の子は頬をふくらませて窓から消えた。
「少しだけでいいんです。その人の名前を……」
「知らないって言ってるだろう」
野上はスパナを握り直し、背を向けた。その背中が、明らかにこわばっていた。
耀司は、それ以上踏み込めなかった。
(真っ直ぐすぎ)
月代が内側で言った。
(あの人、名前を聞いた瞬間に壁を作った。たぶん、怖いんだと思う)
(怖い?)
(責められるのが。耀司の聞き方、取り調べみたいだった)
耀司は工場を離れ、角を曲がったところの空き地で立ち止まった。
(代わって。私が聞いてみる)
「でも、今さっき追い返されたばかりだよ」
(追い返されたのは、耀司でしょう)
耀司は、空き地の隅の資材置き場の陰に入り、手鏡を取り出した。
「自分は誰?」
鏡の中で、少年の輪郭が揺れる。
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
髪が伸び、肩が細くなる。月代はパーカーのフードを外してピー助を手のひらに移し、深呼吸をした。
「ピー助。お願いだから、おとなしくしてて」
「俺はいつでもおとなしい」
「今朝、私の髪を三回つついた」
「寝ぼけてたんだよ」
月代は少しだけ笑い、工場へ引き返した。
シャッターの前で、月代は野上の背中に声をかけた。
「あの、すみません」
振り返った野上は、少女の姿を見て、眉をひそめた。
「さっきの子の、連れか」
「従姉です。さっきは、失礼な聞き方をしてごめんなさい」
月代は頭を下げた。
「私、宵宮由紀さんのことを調べているんです」
野上の手が止まった。
「……由紀ちゃん」
「ご存じですか」
「同じ学年だったからな。組は違ったけど」
野上は、作業台の端に腰を下ろした。油で汚れた手を、何度もタオルで拭う。拭っても落ちないものを、それでも拭うように。
「由紀ちゃんのことで、何を調べてるんだ」
「由紀さんが、あの夏、何かをとても怖がっていたこと。それが、九月二十七日に関係しているかもしれないこと」
月代は、言葉を選びながら話した。由紀の母を訪ねたこと。由紀のノートに、名前の書かれていない「あの人」がいたこと。けれど、由紀の被害の中身には一言も触れなかった。触れずに、ただ、由紀が怖がっていた、とだけ言った。
「どうして、そこまで」
野上が、低く尋ねた。
「由紀さんのお母さんが、二十八年間、由紀さんの部屋をそのままにしているんです。あの子が何を怖がっていたのか、聞けずじまいだったって。私、それを放っておけなくて」
嘘ではなかった。全部を言っていないだけだった。
野上は長いこと黙っていた。工場の奥で、古いラジオが雑音まじりの演歌を流している。
「久賀篤志」
やがて、野上はぽつりと言った。
「三年二組の、いなくなったやつの名前だ」
月代の手のひらの上で、ピー助がびくりと震えた。
月代は、ピー助を包む指に少しだけ力を込めた。
「久賀さんは、どんな人でしたか」
「人当たりのいいやつだったよ。先生にも親にも受けがよくて、頭もよかった。でも――」
野上は、言葉を切った。
「人の弱いところを見つけるのが、恐ろしくうまかった。見つけたら、それを使うんだ。笑いながら」
月代は、ゆっくりとうなずいた。
「由紀ちゃんは、あいつと付き合ってた」
月代の指が、わずかにこわばった。
「二年の終わりから。あいつの方から近づいたんだ。由紀ちゃんは明るくて、人を疑わない子だったから。あいつにとっては、いちばん扱いやすい相手だったんだろう。夏休みが明けた頃には、由紀ちゃんはすっかり笑わなくなってた。何があったのかは知らない。知ろうともしなかった。俺は、自分のことで手一杯だったから」
月代は、何も言わなかった。言えなかった。由紀の部屋で震え続けていた椅子の影が、まぶたの裏によみがえる。
「俺も、使われた一人だ」
野上は、自分の手を見下ろした。
「金だよ。最初は貸してくれって。そのうち、返さないどころか、もっと持ってこいって言われるようになった。持ってこないと、俺が昔やったつまらないことを、学校中にばらすって」
「それで……」
「親父の店の、手提げ金庫から抜いた。何度も」
野上の声が、かすれた。
「九月二十七日の夕方、もう限界だと思って、劇場の裏であいつを捕まえた。鏡座の最終公演で、あいつは大道具の手伝いのバイトに入ってたんだ。裏口で、金を返せって怒鳴った。胸ぐらをつかんで、壁に押しつけた」
「その後は」
「あいつ、笑ったんだよ。そんなことしたら、おまえの親父の金庫のことも全部しゃべるぞって。それで俺は、手を離して、逃げるみたいに帰った。夕方の五時過ぎだ。それきり、あいつの顔は見てない」
野上は顔を上げた。
「警察には言わなかった。あの日あいつと揉めたなんて言ったら、俺が疑われる。金庫の金のことも、親父にばれる。家出だって話になって、正直、ほっとした。最低だろう」
月代は、首を横に振らなかった。うなずきもしなかった。ただ、野上の言葉を最後まで聞いた。
(月代)
内側から耀司が呼ぶ。月代の意識を通して、耀司にも野上の震えが伝わっていた。
「話してくださって、ありがとうございます」
月代が言うと、野上は苦笑した。
「十六の子に礼を言われるようなことじゃない」
「あの日、久賀さんは、他にも誰かと会う予定がありましたか」
「……言ってたな。俺が胸ぐらをつかんだ時に、こう言ったんだ。今夜は大事な話があるんだから、服を汚すなって。劇場の裏で、誰かと会うつもりだったらしい」
「誰と」
「知らない。ただ、裏口の鍵は、管理人の芦原の爺さんが持ってた。最終公演の夜、閉館のあとの裏口なんか、爺さんの許しがなきゃ誰も入れなかったはずだ」
芦原。旧劇場の管理人。月代は、その名前を胸の中で繰り返した。
「それと」
野上が、ためらうように付け加えた。
「事件の何日かあとに、役場の若い人がうちに来た。家出の届けのことで、同級生に話を聞いて回ってるって。あいつと揉めた生徒はいないか、とか。俺は、知らないって答えた」
「役場の人の名前は」
「覚えてない。眼鏡をかけてたことくらいしか。最後に、余計なことは言わない方が、みんなのためだって言われた。親切で言ってくれたんだと、その時は思った」
月代の背中を、冷たいものが滑り落ちた。
眼鏡。役場の若い人。
耀司も、内側で息を止めていた。二人とも、同じ顔を思い浮かべていた。けれど、二人とも、それを口に出さなかった。眼鏡をかけた役場の若い職員など、あの頃の町には何人もいたはずだ。
(疑う前に、聞く)
三日前の夜の約束を、月代は思い出していた。
工場を出て空き地へ戻る道すがら、二人は意識の中で言葉を交わした。
(耀司。眼鏡の、役場の若い人)
(分かってる。でも、父さんだって決めつける材料は何もない)
(決めつけてない。ただ、今朝、お父さんは記念誌を見て、何かを言いかけた)
(言いかけただけだ)
(うん。言いかけただけ)
月代はそれ以上、言わなかった。耀司も言わなかった。言葉にしないまま、二人の間に同じ重さのものが沈んでいた。意識を分け合っているからこそ、相手がその重さから目をそらしているのも分かってしまう。
「照真」
耀司が呼ぶと、昼の守護神は首を横に振った。
「わたしに聞いても無駄だ。照らせるのは、そこにある物だけだ。おまえの父の心の中は、わたしの光の届く場所ではない」
野上は帰り際に、作業台の引き出しから、一枚の写真を出してきた。修学旅行の時のものだという。
「あいつが写ってる、俺が持ってる唯一の写真だ。捨てようと思って、捨てられなかった」
古い寺の門の前で、男子生徒が数人、ふざけて肩を組んでいる。その真ん中で、整った顔立ちの少年が、人懐っこい笑顔を浮かべていた。
月代は息をのんだ。
資料館の展示室で、手鏡に映った雨の夜。路地の入口で、二人の男女と向き合って笑っていた少年。
同じ顔だった。
手のひらの上で、ピー助が身を硬くしていた。写真から顔を背け、月代の指の間に嘴を押しつけている。
「そいつの顔、見たくねえ」
小さな、かすれた声だった。
日が傾き始めた頃、二人は駅裏の駐車場に立っていた。
月代は空き地で身体を耀司に返していた。鏡座の跡地の、土台の石の前。野上の話では、裏口は劇場の北側、この石の少し奥にあったはずだ。
夕陽が山の端に触れた。照真の輪郭が赤く溶け、駐車場のフェンスの影から、月守が立ち上がる。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
耀司は月守に向き直った。
「月守。ここで二十八年前の九月二十七日の夕方にあったことを、影から拾える?」
「拾えるのは、強い感情が焼きついた影だけ。それも、ほんの切れ端」
「切れ端でいい」
月守がうなずき、耀司の背に手を当てる。耀司の影から月代が立ち上がり、二人並んで、土台の石の奥を見つめた。
月守が、アスファルトの上に両手をかざした。
夕陽の作る長い影の中に、別の影が浮かび上がった。
二つの人影だった。背の高い影が、もう一つの影の胸元をつかみ、壁に押しつけている。声は聞こえない。影だけが、無音のまま揉み合っている。背の高い影は、やがて手を離し、逃げるように北の路地へ消えていった。
「野上さんだ」
月代がつぶやいた。
残された影は、その場にとどまっていた。襟元を直すような仕草をして、それから、ふと、笑ったように肩を揺らした。
影は、それで消えた。
「今、何かポケットに入れなかった?」
月代が言った。笑うように肩を揺らす直前、影の手が、上着の内側に何かを押し込むような動きをした気がしたのだ。
「封筒みたいな、薄いもの」
「野上さんから取ったお金かな」
「野上さんは、返せって言いに来たんだよ。渡しに来たんじゃない」
二人は顔を見合わせた。影の切れ端は、それ以上の答えをくれなかった。
月守が手を下ろす。肩で息をしていた。
「ここまで。夕方の影は、夜の影に塗りつぶされている。その夜に、この場所で、もっと強い感情が何度も焼きついたから」
「何度も?」
「一度ではない。怒り、恐怖、驚き。いくつもの感情が重なって、底が見えない」
フードの中で、ピー助が、ほとんど聞き取れないほど小さな声で言った。
「口論の相手は、一人じゃない」
耀司と月代は、同時に振り返った。
「どういう意味」
「言葉のとおりだ。夕方のは、ただの前座だよ」
ピー助はそれだけ言うと、フードの奥深くへもぐり込んだ。
二人は、駐車場の脇から路地へ入り、最初の曲がり角まで歩いた。傘付きの古い街灯の下に立つと、劇場の跡地は塀に隠れて、まったく見えなくなった。
「ここから劇場は見えない。劇場からも、ここは見えない」
耀司が言った。
「お父さんは、ここの街灯が切れていたって言った。でも、劇場の正面にいた人には、ここが暗かったかどうかなんて分からないはず」
「ここに、来た人じゃなければ」
月代が続けた。二人とも、その先は言わなかった。
「確かめる方法はあるはず。二十八年前に、この街灯が本当に切れていたかどうか。役場か、電力会社か、どこかに記録が残ってるかもしれない」
月守が、街灯の柱の影に手を触れた。
「この柱の影も、あの夜を覚えている。でも、ひどく暗い。光が、なかったのかもしれない」
「かもしれない、か」
「影は、断言しない。断言するのは、記録の仕事」
駐車場の街灯が、一本ずつ点き始めた。路地の曲がり角の、あの古い傘付きの街灯も、少し遅れて、ぼんやりと灯った。
暗闇の中で、手探りで探す。触れたものの形は、まだ分からない。
けれど今日、二人の指先は、確かに一つの名前に触れた。
久賀篤志。
ピー助が見たくないと言った顔。名簿の余白から抜き取られた名前。二十八年前、劇場の裏で、夜に誰かと「大事な話」をするはずだった少年。
「月代」
「うん」
「僕の聞き方、まずかったね」
「耀司が先に行って、壁を見せてくれたから、私はその壁を避けられた」
霊体の月代が、少しだけ笑った。
「一人だったら、たぶん両方失敗してた」
耀司は手鏡を取り出し、点いたばかりの街灯の光を映した。
「自分は誰?」
「耀司」
「月代」
二つの声が重なる。鏡の中で、街灯の光が小さく揺れた。
その光の端を、誰かの影が横切った気がした。眼鏡をかけた、若い男の横顔の影。
瞬きをすると、もう何も映っていなかった。
その夜、耀司は居間の押し入れから、古いアルバムを引っ張り出した。
家族の誰にも気づかれないよう、月守の作る影の中で、ページをめくる。両親の結婚式。衿子が生まれた日。慧の初めての運動会。さらに前へ戻ると、独身時代の父の写真が数枚、挟み込まれていた。
一枚は、役場の入庁式の集合写真だった。裏に父の字で「平成九年四月」とある。紺の背広を着た、二十二歳の父。
眼鏡は、かけていなかった。
次のページの写真は、二年後の役場の忘年会だった。宴席で笑う父は、銀縁の眼鏡をかけていた。
「間の一年が、ない」
霊体の月代が、ページの空白を指さした。平成十年の写真は、一枚も挟まれていなかった。
月守が、アルバムの上の影を静かに見下ろした。
「写真がないことは、何も意味しないかもしれない。ただ、撮らなかっただけかもしれない」
「うん」
「それでも、気になるなら、覚えておきなさい。暗闇の中で触れたものは、捨てずに持っておくの。形が分かるのは、たいてい、ずっとあとだから」
アルバムを押し入れに戻しながら、耀司は次にすることを数えた。
劇場の管理人だった芦原という人を探すこと。由紀が相談した「先生」を探すこと。そして、二十八年前の九月、路地の街灯が本当に切れていたのかを確かめること。
「三つも」
「暗中模索なんだから、手探りの指は多い方がいいよ」
月代が笑い、霊体の手を耀司の手に重ねた。触れられなくても、指先の重なったところだけ、少し温かい気がした。
鳥かごの中で、ピー助が眠っていた。今度は、眠ったふりではなかった。小さな寝息の合間に、ピー助は一度だけ、誰かの名前を呼んだ。
由紀、と聞こえた気がした。
(第4話 了)




