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影鏡のふたり  作者: 揮奨尋規


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4/20

暗中模索

机の上に、写真が十枚並んでいた。

 新聞の紙面、卒業記念誌の名簿、由紀のノートの最後のページ。スマートフォンで撮ったものを、耀司は全部コンビニで印刷してきた。十月二日、金曜日の夜。部屋の明かりを消し、机の小さなスタンドだけを点けている。

「並べてはみたけど」

 耀司の隣で、霊体の月代が腕を組んだ。月守の力で、今夜は二人並んで座っている。

「どれも、途中で途切れてる」

 家出の記事には名前がない。名簿の余白には「久」の一字だけ。由紀のノートの「あの人」には名前がない。十字架の刻印は最後の一桁が読めない。

「暗中模索、ね」

 窓辺の月守が言った。

「暗闇の中で、手探りで物を探すこと。今のあなたたちは、まさにそう」

「手探りでも、何も触れないんだ」

「触れていないのではない。触れたものの形が、まだ分からないだけ」

 月守は鳥かごに目をやった。ピー助は止まり木の上で、羽を膨らませて目を閉じている。眠っているふりだと、二人とも分かっていた。

「ピー助、寝たふりはやめて」

 月代が言うと、ピー助は片目だけを開けた。

「寝たふりじゃねえ。考え事だ」

「何を考えてたの」

「おまえらが、どこまで行くつもりなのかってことだよ」

 ピー助は、首の十字架を嘴でつついた。

「暗いところを手探りで歩いてたら、いつか、触っちゃいけねえものに手が届く。そうなってから後悔しても遅い」

「触っちゃいけないものって、何」

「知らねえよ。だから手探りなんだろ」

「ピー助。名簿の余白の『久』って、誰?」

 月代が声をかけても、ピー助は片目すら開けなかった。

 耀司は、卒業記念誌の写真を手に取った。三年二組の集合写真。三十九人の顔。右上の空っぽの丸枠。

 その時、気づいた。

「この人だけ、こっちを見てない」

 最後列の右端。ひょろりと背の高い少年が、カメラではなく、右上の空っぽの丸枠の方へ、わずかに顔を向けていた。

「丸枠の方を、見てる」

 月代が写真に顔を寄せる。名簿と照らし合わせると、最後列の右端は――野上達也。

 記念誌の巻末には、卒業生の住所録が載っていた。二十八年前の住所だ。それでも、耀司は番地を指でなぞった。

「川沿いだ。倉庫街の、すぐ手前」

 かごの中で、ピー助の羽がかすかに動いた。


 翌日、十月三日の土曜日。

 朝食の席で、父がテーブルの端に置かれた紙の束に目を留めた。耀司が昨夜印刷して、鞄にしまい忘れた写真だった。いちばん上に、卒業記念誌の集合写真が載っている。

「鏡ヶ浦高校の記念誌か」

 父は一枚をつまみ上げ、眼鏡を額に押し上げて、目を細めた。

「平成十一年卒業。ずいぶん古いのを調べているな」

「課題で」

「そうか。この年の三年生は、確か……」

 父は言いかけて、写真を束に戻した。

「いや。父さんは隣の市の高校だったから、こっちの学校のことはよく知らないんだ」

 何を言いかけたのかを聞く前に、衿子が「お父さん、ジャム取って」と手を伸ばし、話はそれきりになった。衿子の人差し指の絆創膏は、もう外れていた。鳥かごの中のピー助は、今朝は衿子に一度も近づかず、止まり木の端で背を向けていた。

(何を言いかけたんだろう)

 月代が内側でつぶやく。

(分からない。聞き返せばよかった)

(聞き返したら、何て答えたと思う?)

 耀司は答えられなかった。答えを想像すること自体を、どこかで避けている自分がいた。

 駅裏の駐車場から北へ、路地を抜け、倉庫街を横切って歩く。フードの中のピー助は、倉庫街に入ったとたん、ぴたりと黙り込んだ。羽毛越しに、小さな心臓がせわしなく打っているのが分かる。

「暗中模索の中にいる者は、つい明かりのある方へ走りたくなる」

 照真が、並んで歩きながら言った。

「だが、明かりの近くには影も濃い。足元を確かめながら進め。一歩ずつだ」

「照真は、どっちに明かりがあるか知ってるの」

「知らん。知っていたとしても、おまえたちの足の代わりにはなれん」

 住所の場所には、古い自動車整備工場が建っていた。トタン張りの壁に、ペンキの剥げた看板で「野上モータース」とある。シャッターは半分だけ上がり、奥から、金属を叩く音が響いていた。

「まだ、あった」

 耀司はフードの中のピー助に言った。ピー助は返事をしなかった。川の匂いが、ここまで届いている。

 照真が、工場の壁に貼られた古い地図に目を留めた。

「この町の地図だ。よく見ておけ」

 昭和の終わり頃に作られたらしい、色あせた道路地図だった。工場の位置に赤い丸がつけてある。そこから南へ、倉庫街を抜け、駐車場跡の脇の路地を下り、駅裏の鏡座跡まで、まっすぐ線を引けば、ほとんど一本道だった。

「劇場の裏口から、ここまで」

「歩いて十五分ほどだろう。昨日の路地を、そのまま北へ延ばした先だ」

 照真が地図の上に光を落とすと、鏡座の裏口と、路地の曲がり角と、倉庫街と、この工場が、細い光の線で結ばれた。

 耀司は、半分開いたシャッターの下から声をかけた。

「すみません。野上達也さんは、いらっしゃいますか」

 金属音が止まり、作業着の男が、車の下から這い出してきた。四十代半ば。日に焼けた顔に、油の染みがついている。背が高く、少し猫背だった。写真の中のひょろりとした少年の面影が、確かに残っていた。

「俺だけど。車の修理?」

「いえ。鏡ヶ浦高校の一年です。平成十年の、鏡座の最終公演の夜のことを調べていて」

 野上の顔から、表情が消えた。

「それと、同じ頃にいなくなった、三年二組の生徒のことを」

「知らないな」

 即答だった。

「悪いけど、仕事中なんだ。帰ってくれ」

 工場の奥の事務所の窓から、五、六歳くらいの女の子が顔をのぞかせていた。クレヨンを握ったまま、不思議そうに耀司を見ている。野上は振り返り、「中にいろ」と短く言った。女の子は頬をふくらませて窓から消えた。

「少しだけでいいんです。その人の名前を……」

「知らないって言ってるだろう」

 野上はスパナを握り直し、背を向けた。その背中が、明らかにこわばっていた。

 耀司は、それ以上踏み込めなかった。

(真っ直ぐすぎ)

 月代が内側で言った。

(あの人、名前を聞いた瞬間に壁を作った。たぶん、怖いんだと思う)

(怖い?)

(責められるのが。耀司の聞き方、取り調べみたいだった)

 耀司は工場を離れ、角を曲がったところの空き地で立ち止まった。

(代わって。私が聞いてみる)

「でも、今さっき追い返されたばかりだよ」

(追い返されたのは、耀司でしょう)

 耀司は、空き地の隅の資材置き場の陰に入り、手鏡を取り出した。

「自分は誰?」

 鏡の中で、少年の輪郭が揺れる。

「自分は誰?」

「――自分は、月代」

 髪が伸び、肩が細くなる。月代はパーカーのフードを外してピー助を手のひらに移し、深呼吸をした。

「ピー助。お願いだから、おとなしくしてて」

「俺はいつでもおとなしい」

「今朝、私の髪を三回つついた」

「寝ぼけてたんだよ」

 月代は少しだけ笑い、工場へ引き返した。


 シャッターの前で、月代は野上の背中に声をかけた。

「あの、すみません」

 振り返った野上は、少女の姿を見て、眉をひそめた。

「さっきの子の、連れか」

「従姉です。さっきは、失礼な聞き方をしてごめんなさい」

 月代は頭を下げた。

「私、宵宮由紀さんのことを調べているんです」

 野上の手が止まった。

「……由紀ちゃん」

「ご存じですか」

「同じ学年だったからな。組は違ったけど」

 野上は、作業台の端に腰を下ろした。油で汚れた手を、何度もタオルで拭う。拭っても落ちないものを、それでも拭うように。

「由紀ちゃんのことで、何を調べてるんだ」

「由紀さんが、あの夏、何かをとても怖がっていたこと。それが、九月二十七日に関係しているかもしれないこと」

 月代は、言葉を選びながら話した。由紀の母を訪ねたこと。由紀のノートに、名前の書かれていない「あの人」がいたこと。けれど、由紀の被害の中身には一言も触れなかった。触れずに、ただ、由紀が怖がっていた、とだけ言った。

「どうして、そこまで」

 野上が、低く尋ねた。

「由紀さんのお母さんが、二十八年間、由紀さんの部屋をそのままにしているんです。あの子が何を怖がっていたのか、聞けずじまいだったって。私、それを放っておけなくて」

 嘘ではなかった。全部を言っていないだけだった。

 野上は長いこと黙っていた。工場の奥で、古いラジオが雑音まじりの演歌を流している。

「久賀篤志」

 やがて、野上はぽつりと言った。

「三年二組の、いなくなったやつの名前だ」

 月代の手のひらの上で、ピー助がびくりと震えた。

 月代は、ピー助を包む指に少しだけ力を込めた。

「久賀さんは、どんな人でしたか」

「人当たりのいいやつだったよ。先生にも親にも受けがよくて、頭もよかった。でも――」

 野上は、言葉を切った。

「人の弱いところを見つけるのが、恐ろしくうまかった。見つけたら、それを使うんだ。笑いながら」

 月代は、ゆっくりとうなずいた。

「由紀ちゃんは、あいつと付き合ってた」

 月代の指が、わずかにこわばった。

「二年の終わりから。あいつの方から近づいたんだ。由紀ちゃんは明るくて、人を疑わない子だったから。あいつにとっては、いちばん扱いやすい相手だったんだろう。夏休みが明けた頃には、由紀ちゃんはすっかり笑わなくなってた。何があったのかは知らない。知ろうともしなかった。俺は、自分のことで手一杯だったから」

 月代は、何も言わなかった。言えなかった。由紀の部屋で震え続けていた椅子の影が、まぶたの裏によみがえる。

「俺も、使われた一人だ」

 野上は、自分の手を見下ろした。

「金だよ。最初は貸してくれって。そのうち、返さないどころか、もっと持ってこいって言われるようになった。持ってこないと、俺が昔やったつまらないことを、学校中にばらすって」

「それで……」

「親父の店の、手提げ金庫から抜いた。何度も」

 野上の声が、かすれた。

「九月二十七日の夕方、もう限界だと思って、劇場の裏であいつを捕まえた。鏡座の最終公演で、あいつは大道具の手伝いのバイトに入ってたんだ。裏口で、金を返せって怒鳴った。胸ぐらをつかんで、壁に押しつけた」

「その後は」

「あいつ、笑ったんだよ。そんなことしたら、おまえの親父の金庫のことも全部しゃべるぞって。それで俺は、手を離して、逃げるみたいに帰った。夕方の五時過ぎだ。それきり、あいつの顔は見てない」

 野上は顔を上げた。

「警察には言わなかった。あの日あいつと揉めたなんて言ったら、俺が疑われる。金庫の金のことも、親父にばれる。家出だって話になって、正直、ほっとした。最低だろう」

 月代は、首を横に振らなかった。うなずきもしなかった。ただ、野上の言葉を最後まで聞いた。

(月代)

 内側から耀司が呼ぶ。月代の意識を通して、耀司にも野上の震えが伝わっていた。

「話してくださって、ありがとうございます」

 月代が言うと、野上は苦笑した。

「十六の子に礼を言われるようなことじゃない」

「あの日、久賀さんは、他にも誰かと会う予定がありましたか」

「……言ってたな。俺が胸ぐらをつかんだ時に、こう言ったんだ。今夜は大事な話があるんだから、服を汚すなって。劇場の裏で、誰かと会うつもりだったらしい」

「誰と」

「知らない。ただ、裏口の鍵は、管理人の芦原の爺さんが持ってた。最終公演の夜、閉館のあとの裏口なんか、爺さんの許しがなきゃ誰も入れなかったはずだ」

 芦原。旧劇場の管理人。月代は、その名前を胸の中で繰り返した。

「それと」

 野上が、ためらうように付け加えた。

「事件の何日かあとに、役場の若い人がうちに来た。家出の届けのことで、同級生に話を聞いて回ってるって。あいつと揉めた生徒はいないか、とか。俺は、知らないって答えた」

「役場の人の名前は」

「覚えてない。眼鏡をかけてたことくらいしか。最後に、余計なことは言わない方が、みんなのためだって言われた。親切で言ってくれたんだと、その時は思った」

 月代の背中を、冷たいものが滑り落ちた。

 眼鏡。役場の若い人。

 耀司も、内側で息を止めていた。二人とも、同じ顔を思い浮かべていた。けれど、二人とも、それを口に出さなかった。眼鏡をかけた役場の若い職員など、あの頃の町には何人もいたはずだ。

(疑う前に、聞く)

 三日前の夜の約束を、月代は思い出していた。

 工場を出て空き地へ戻る道すがら、二人は意識の中で言葉を交わした。

(耀司。眼鏡の、役場の若い人)

(分かってる。でも、父さんだって決めつける材料は何もない)

(決めつけてない。ただ、今朝、お父さんは記念誌を見て、何かを言いかけた)

(言いかけただけだ)

(うん。言いかけただけ)

 月代はそれ以上、言わなかった。耀司も言わなかった。言葉にしないまま、二人の間に同じ重さのものが沈んでいた。意識を分け合っているからこそ、相手がその重さから目をそらしているのも分かってしまう。

「照真」

 耀司が呼ぶと、昼の守護神は首を横に振った。

「わたしに聞いても無駄だ。照らせるのは、そこにある物だけだ。おまえの父の心の中は、わたしの光の届く場所ではない」


 野上は帰り際に、作業台の引き出しから、一枚の写真を出してきた。修学旅行の時のものだという。

「あいつが写ってる、俺が持ってる唯一の写真だ。捨てようと思って、捨てられなかった」

 古い寺の門の前で、男子生徒が数人、ふざけて肩を組んでいる。その真ん中で、整った顔立ちの少年が、人懐っこい笑顔を浮かべていた。

 月代は息をのんだ。

 資料館の展示室で、手鏡に映った雨の夜。路地の入口で、二人の男女と向き合って笑っていた少年。

 同じ顔だった。

 手のひらの上で、ピー助が身を硬くしていた。写真から顔を背け、月代の指の間に嘴を押しつけている。

「そいつの顔、見たくねえ」

 小さな、かすれた声だった。


 日が傾き始めた頃、二人は駅裏の駐車場に立っていた。

 月代は空き地で身体を耀司に返していた。鏡座の跡地の、土台の石の前。野上の話では、裏口は劇場の北側、この石の少し奥にあったはずだ。

 夕陽が山の端に触れた。照真の輪郭が赤く溶け、駐車場のフェンスの影から、月守が立ち上がる。

「昼の番は、ここまでだ」

「夜の番を、引き受ける」

 耀司は月守に向き直った。

「月守。ここで二十八年前の九月二十七日の夕方にあったことを、影から拾える?」

「拾えるのは、強い感情が焼きついた影だけ。それも、ほんの切れ端」

「切れ端でいい」

 月守がうなずき、耀司の背に手を当てる。耀司の影から月代が立ち上がり、二人並んで、土台の石の奥を見つめた。

 月守が、アスファルトの上に両手をかざした。

 夕陽の作る長い影の中に、別の影が浮かび上がった。

 二つの人影だった。背の高い影が、もう一つの影の胸元をつかみ、壁に押しつけている。声は聞こえない。影だけが、無音のまま揉み合っている。背の高い影は、やがて手を離し、逃げるように北の路地へ消えていった。

「野上さんだ」

 月代がつぶやいた。

 残された影は、その場にとどまっていた。襟元を直すような仕草をして、それから、ふと、笑ったように肩を揺らした。

 影は、それで消えた。

「今、何かポケットに入れなかった?」

 月代が言った。笑うように肩を揺らす直前、影の手が、上着の内側に何かを押し込むような動きをした気がしたのだ。

「封筒みたいな、薄いもの」

「野上さんから取ったお金かな」

「野上さんは、返せって言いに来たんだよ。渡しに来たんじゃない」

 二人は顔を見合わせた。影の切れ端は、それ以上の答えをくれなかった。

 月守が手を下ろす。肩で息をしていた。

「ここまで。夕方の影は、夜の影に塗りつぶされている。その夜に、この場所で、もっと強い感情が何度も焼きついたから」

「何度も?」

「一度ではない。怒り、恐怖、驚き。いくつもの感情が重なって、底が見えない」

 フードの中で、ピー助が、ほとんど聞き取れないほど小さな声で言った。

「口論の相手は、一人じゃない」

 耀司と月代は、同時に振り返った。

「どういう意味」

「言葉のとおりだ。夕方のは、ただの前座だよ」

 ピー助はそれだけ言うと、フードの奥深くへもぐり込んだ。

 二人は、駐車場の脇から路地へ入り、最初の曲がり角まで歩いた。傘付きの古い街灯の下に立つと、劇場の跡地は塀に隠れて、まったく見えなくなった。

「ここから劇場は見えない。劇場からも、ここは見えない」

 耀司が言った。

「お父さんは、ここの街灯が切れていたって言った。でも、劇場の正面にいた人には、ここが暗かったかどうかなんて分からないはず」

「ここに、来た人じゃなければ」

 月代が続けた。二人とも、その先は言わなかった。

「確かめる方法はあるはず。二十八年前に、この街灯が本当に切れていたかどうか。役場か、電力会社か、どこかに記録が残ってるかもしれない」

 月守が、街灯の柱の影に手を触れた。

「この柱の影も、あの夜を覚えている。でも、ひどく暗い。光が、なかったのかもしれない」

「かもしれない、か」

「影は、断言しない。断言するのは、記録の仕事」

 駐車場の街灯が、一本ずつ点き始めた。路地の曲がり角の、あの古い傘付きの街灯も、少し遅れて、ぼんやりと灯った。

 暗闇の中で、手探りで探す。触れたものの形は、まだ分からない。

 けれど今日、二人の指先は、確かに一つの名前に触れた。

 久賀篤志。

 ピー助が見たくないと言った顔。名簿の余白から抜き取られた名前。二十八年前、劇場の裏で、夜に誰かと「大事な話」をするはずだった少年。

「月代」

「うん」

「僕の聞き方、まずかったね」

「耀司が先に行って、壁を見せてくれたから、私はその壁を避けられた」

 霊体の月代が、少しだけ笑った。

「一人だったら、たぶん両方失敗してた」

 耀司は手鏡を取り出し、点いたばかりの街灯の光を映した。

「自分は誰?」

「耀司」

「月代」

 二つの声が重なる。鏡の中で、街灯の光が小さく揺れた。

 その光の端を、誰かの影が横切った気がした。眼鏡をかけた、若い男の横顔の影。

 瞬きをすると、もう何も映っていなかった。


 その夜、耀司は居間の押し入れから、古いアルバムを引っ張り出した。

 家族の誰にも気づかれないよう、月守の作る影の中で、ページをめくる。両親の結婚式。衿子が生まれた日。慧の初めての運動会。さらに前へ戻ると、独身時代の父の写真が数枚、挟み込まれていた。

 一枚は、役場の入庁式の集合写真だった。裏に父の字で「平成九年四月」とある。紺の背広を着た、二十二歳の父。

 眼鏡は、かけていなかった。

 次のページの写真は、二年後の役場の忘年会だった。宴席で笑う父は、銀縁の眼鏡をかけていた。

「間の一年が、ない」

 霊体の月代が、ページの空白を指さした。平成十年の写真は、一枚も挟まれていなかった。

 月守が、アルバムの上の影を静かに見下ろした。

「写真がないことは、何も意味しないかもしれない。ただ、撮らなかっただけかもしれない」

「うん」

「それでも、気になるなら、覚えておきなさい。暗闇の中で触れたものは、捨てずに持っておくの。形が分かるのは、たいてい、ずっとあとだから」

 アルバムを押し入れに戻しながら、耀司は次にすることを数えた。

 劇場の管理人だった芦原という人を探すこと。由紀が相談した「先生」を探すこと。そして、二十八年前の九月、路地の街灯が本当に切れていたのかを確かめること。

「三つも」

「暗中模索なんだから、手探りの指は多い方がいいよ」

 月代が笑い、霊体の手を耀司の手に重ねた。触れられなくても、指先の重なったところだけ、少し温かい気がした。

 鳥かごの中で、ピー助が眠っていた。今度は、眠ったふりではなかった。小さな寝息の合間に、ピー助は一度だけ、誰かの名前を呼んだ。

 由紀、と聞こえた気がした。


(第4話 了)


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