疑心暗鬼
夜明けの境目に、月守が言った。
「あの子は、一晩じゅう眠らなかった」
耀司が目をこすりながら鳥かごを見ると、ピー助は止まり木の端に張りつくようにして、部屋の扉の方をじっと見ていた。扉の向こうには廊下があり、その先に衿子の部屋がある。
「ずっと、扉を見ていた。何かを待つように。あるいは、何かが来るのを恐れるように」
月守の輪郭が朝日に溶け、照真が光の中から現れる。照真は鳥かごを一瞥しただけで、何も言わなかった。
その一時間後のことだ。
悲鳴を上げたのは、姉の衿子だった。
九月三十日、水曜日の朝。耀司が階段を下りると、居間の窓辺で衿子が右手の人差し指を押さえていた。指先に、小さな赤い点が滲んでいる。
「ピー助に噛まれた」
衿子は呆然とした顔で、鳥かごを見つめていた。
「餌を替えようとしただけなのに。いきなり飛びかかってきて」
かごの中で、ピー助は羽を逆立て、喉の奥から低い威嚇の声を出していた。家族の耳には、ギャッ、ギャッ、という鳴き声にしか聞こえない。けれど耀司には、その声がはっきりと言葉になって届いていた。
「寄るな。こっちに来るな」
耀司は息をのんだ。
(ピー助が、衿子姉さんに?)
内側で、月代も戸惑っている。
ピー助を拾ってきたのは、衿子だった。十三年前、耀司がまだ三つの時だ。羽を怪我した文鳥を手のひらに乗せて帰ってきた衿子を、耀司はぼんやりと覚えている。それ以来、ピー助の世話をいちばん焼いてきたのは衿子で、ピー助も衿子の手の上でだけは、目を細めて眠った。
「消毒しておきなよ」
兄の慧が救急箱を持ってきて、衿子の指に絆創膏を貼った。
「十三年飼ってて初めてだろ。どっか具合でも悪いんじゃないのか」
「そうかもね。今度、病院に連れていこうかな」
衿子は、まだ少し震える声でそう言った。
照真が窓辺に立ち、朝の光の中から鳥かごを見下ろしていた。
「この鳥の影が、今朝は二つある」
「二つ?」
耀司が小声で聞き返すと、照真は鳥かごの影を指した。床に落ちたかごの影の中で、文鳥の小さな影が、もう一つ別の影と重なっている。大きな影だった。肩幅のある、人の影。
次の瞬間、雲が日差しを遮り、影は一つに戻った。
「見えたか」
「見えた」
「では、覚えておけ。見えたものと、見えたと思ったものは違う」
照真の声は、いつもより硬かった。
放課後、耀司は駅とは反対の方角へ歩いていた。
どこへ向かっているのか、自分でもよく分からない。ただ、足が勝手に動いていた。正確には、耀司の足を動かしているのは、内側にいる月代の気配だった。
(月代。どこへ行くの)
(分からない。でも、知ってる道なの)
商店街を抜け、古い寺の脇の坂を上り、生け垣の続く住宅地に入る。
坂の途中に、小さな駄菓子屋の跡があった。シャッターは錆びつき、軒先の看板の文字も読めない。それなのに、耀司の頭の中には、店先に並んだ瓶入りのラムネと、それを二本買って、一本を小さな手に渡す自分の手が浮かんでいた。
(私の手だ)
月代がつぶやいた。
(茉莉の手。小さい方の手は、たぶん……)
月代は、その先を言わなかった。角を二つ曲がったところで、月代の気配がふっと止まった。
生け垣の奥に、瓦屋根の古い家が建っていた。門柱の表札には、墨の薄れた文字で「宵宮」とある。
(ここだ)
月代の声が、ひどく小さかった。
(どうして、道を知ってたの)
(私の家だったから)
耀司は門の前で立ち尽くした。
照真が、背後から静かに言った。
「入るなら、おまえではなく、月代が行け。この家の者は、少年より少女の方に心を開く」
「でも、月代の姿で……」
(行かせて)
月代が言った。
(お願い。私が行きたいの)
耀司は、近くの公園の手洗いを借り、手鏡を取り出した。
「自分は誰?」
鏡の中の少年の輪郭が、水面のように揺らぐ。
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
身体が組み替わる感覚のあと、鏡の中には、長い髪の少女がいた。月代は手洗いの鏡で髪を整え、制服の上に羽織ったカーディガンの袖を折り返した。
「行ってくる」
(一人じゃないよ)
「知ってる」
宵宮家の呼び鈴を押すと、しばらくして、引き戸の向こうから小柄な老女が顔を出した。白い髪を後ろで一つに束ね、紺の割烹着を着ている。七十代の終わりだろうか。目尻に深い皺があった。
「どちらさま?」
「あの、鏡ヶ浦高校の一年です。学校の課題で、町の百年を調べていて……鏡座のことを、お話を伺えたらと」
月代の声は、思ったよりもしっかりしていた。
老女は、しばらく月代の顔を見つめていた。何かを探すような目だった。
「鏡座のこと、ね」
やがて老女は、引き戸を大きく開けた。
「お入りなさい。宵宮登美です。何もないけれど、お茶くらいは出せるから」
通された座敷には、古い仏壇があった。
並んだ遺影は三つ。一つは、十年ほど前に亡くなったという登美の夫のもの。残りの二つは、若い女性だった。髪の長い、二十代の女性。そして、まだ幼さの残る、制服姿の少女。
月代は、二つの遺影の前で動けなくなった。
遺影の中の若い女性は、少し照れくさそうに笑っていた。鏡の中でいつも見ている月代の顔とは、似ていない。それでも月代には、その笑い方の癖が分かった。笑う前に一度、唇を結ぶ。耀司も、意識を通してそれを知っていた。月代も同じ癖を持っているからだ。
「上の娘の茉莉と、下の娘の由紀。もう、二人ともずいぶん昔のことだけど」
登美が湯呑みを置きながら言った。
「鏡座のことを調べているなら、茉莉のことも聞いたでしょう」
「……はい。資料館で」
「そう。だったら隠しても仕方ないね」
登美は座布団に腰を下ろし、仏壇の方へ目をやった。
照真が月代の背に手を当てた。月代の影の中から、霊体の耀司が立ち上がる。今は月代が身体を持ち、耀司が外にいる。耀司は座敷の隅に立ち、登美と月代のやりとりを見守った。
「聡くんのご両親も、事件のあと何年かして町を出ていかれた。年賀状だけは、今も届くけれどね」
登美はそう前置きしてから、話を続けた。
「茉莉はね、県外の会社で働いていたの。あの週末は、高校の同級生の聡くんと二人で帰ってきていてね。鏡座がなくなる前に、最後の公演を一緒に観たいって」
登美の声は、淡々としていた。何度も語り、何度も飲み込んできた言葉の響きだった。
「出かける前に、茉莉が由紀の部屋に寄ったのを覚えてる。何を話していたのかは知らない。でも、帰ってこなかった」
月代は膝の上で、指を固く組んでいた。
(月代、大丈夫?)
耀司が外から呼びかけても、月代は答えなかった。けれど、意識を通して伝わってくるものがある。悲しみではない。もっと冷たくて、硬いもの。言葉にできない恐怖だった。
「由紀さんは、どんな方だったんですか」
月代が、やっとの思いで尋ねた。
「明るい子だったよ。茉莉より七つも下だったから、姉にべったりでね。でも、あの年の夏から、急に口数が減った」
登美は、湯呑みを両手で包んだ。
「部屋にこもって、電話が鳴るとびくっとして。何かあったのかと聞いても、何でもない、の一点張りで。一度だけ、怖い人がいる、と言ったことがある。誰なのかは、とうとう言わなかった」
「警察には」
「話したよ。茉莉のことで刑事さんが何度も来たから、由紀の様子がおかしいことも、全部話した。でも、関係ないだろうって。年頃の娘にはよくあることだって」
登美の口元が、わずかにゆがんだ。
「茉莉の事件は茉莉の事件、由紀のことは由紀のこと。ばらばらに扱われて、それっきり。同じ月に、同じ高校の男の子が一人いなくなったことも、家出だっていうので、誰も一緒には考えなかった」
照真が、座敷の柱の陰から言った。
「別々の箱に入れられた三つのことだ。箱を並べたのは、おまえたちが初めてかもしれん」
耀司は、昨日の新聞の囲み記事を思い出していた。五行だけの、家出の記事。
「それにね」
登美は、少し迷うように言葉を継いだ。
「これは、誰にも言ったことがないんだけど」
月代が顔を上げた。
「茉莉のお葬式が終わった夜、由紀がぽつりと言ったの。もう、怖くないって」
座敷の空気が、冷たくなった。
「お姉ちゃんが死んだばかりなのに、もう怖くない、って。あの子はほっとしたような顔を、一度だけした。私はそれが、ずっと胸に引っかかってる。あの子が何を知っていたのか。何を怖がって、何がいなくなったのか」
登美は首を振った。
「次の年の二月に、あの子も雪の日の事故で逝ってしまって。聞けずじまい」
耀司は、自分の背筋が冷えていくのを感じた。
怖い人がいた。九月二十七日の夜、姉が殺された。同じ時期に、同じ高校の男子生徒が姿を消した。そして由紀は、もう怖くないと言った。
(まさか)
耀司は、その先を考えることが怖かった。
由紀が、何かをしたのではないか。あるいは、何かを知っていたのではないか。
(耀司。やめて)
月代の声が、鋭く割り込んできた。
(今、由紀を疑ったでしょう)
(疑ったわけじゃない。ただ、可能性として……)
(あの子は、十七歳だった)
月代の怒りが、熱となって意識に流れ込む。耀司はたじろいだ。月代がこんなふうに怒るのを、耀司は初めて感じた。
「由紀の部屋、見ていく?」
登美が言った。
「ずっとそのままにしてあるの。片付けられなくてね」
由紀の部屋は、二階の北側にあった。
カーテンが閉め切られ、部屋は薄暗い。勉強机、本棚、色あせたポスター。机の上には、使い込まれた大学ノートが一冊だけ置かれていた。
「日記代わりにしていたノート。読んでもいいよ。あの子も、もう怒らないだろうから」
登美はそう言って、階下へ戻っていった。
薄暗い部屋に、月代と、霊体の耀司と、照真が残った。
「ここは、光が届かんな」
照真が言い、窓の方へ下がる。代わりに、部屋の隅の深い影から、細い声がにじみ出た。
(この部屋の影は、まだ怯えている)
月守だった。日の高い時間、夜の守護霊は姿を見せられない。けれど閉め切られた部屋の暗がりで、声だけは届く。
(勉強机の椅子の影を見て)
月代が振り向くと、椅子の影が、細かく震えていた。風もないのに、床の上の影だけが、ずっと何かに怯えるように揺れている。
(二十八年、ずっとこう。この影は、言葉にならなかった恐怖を覚えている。誰が怖かったのかは、影は言わない。わたしにも、分からない)
月代は、ノートを開いた。
丸みのある、少女の字だった。一学期の終わりまでは、友達のこと、部活のこと、姉から届いた手紙のことが、楽しそうに綴られている。
夏休みに入ったあたりから、字が小さくなった。
――今日も電話。出なかった。
――学校に行きたくない。
――誰に言えばいいのか分からない。
月代は、それ以上の言葉を読み上げなかった。耀司も、聞かなかった。ページの向こうにあるものを、二人は意識を通して同時に感じ取り、黙ってページをめくった。由紀が書かなかったことを、言葉にするつもりはなかった。
本棚の上に、写真立てが一つ伏せてあった。月代がそっと起こすと、浴衣姿の二人の姉妹が写っていた。背の高い方が小さい方の肩を抱き、二人とも花火の明かりに顔を照らされている。
月代の指が、写真の縁で止まった。
――大丈夫。お姉ちゃんがついてる。
声が聞こえた。耳ではなく、もっと深いところで。
――今夜、話してくる。あの子にちゃんと言ってくる。だから由紀は、家で待ってて。
あの夜、出かける前に、茉莉が妹の部屋で言った言葉だった。誰に、何を話しに行くのか。その続きは、霧の向こうに沈んでいる。
「私、あの夜、由紀と約束したんだ」
月代が、写真を胸に抱いた。
「話をしてくるって。それで、帰らなかった」
霊体の耀司は、何も言えずに月代の背中を見ていた。前世の記憶は、月代の方に濃く残っている。耀司が思い出せるのは、雨の匂いと、誰かの手を引いて走った感触だけだった。
八月の終わりの数ページが、根元から破り取られていた。
照真が、破り口の前後の日付に光を当てた。破られる直前の書き込みは八月二十七日。破られたあとの最初の書き込みは九月二日。抜けているのは、その間の数日分だった。
「八月の末から九月の頭。そこに、由紀が誰にも見せたくなかったか、誰かが見られたくなかったことがある」
破り口は古く、紙の繊維が茶色く変色している。
その次のページは、九月に入っていた。字が、少しだけ元に戻っている。
――先生に相談した。でも、だめだった。
――あの人に話した。あの人は、怒ってくれた。
――あの人なら、きっと何とかしてくれる。
そして、最後の書き込み。日付は、九月二十六日。
――明日、あの人が話をつけてくれる。お姉ちゃんにも、全部話した。
ノートは、そこで終わっていた。
「あの人……」
月代がつぶやく。
「照真。この日付」
「並べるぞ」
照真が、窓のカーテンの隙間から差す細い光を、ノートの上に落とした。光の中で、日付が浮かび上がる。
九月二十六日、土曜日。明日、あの人が話をつけてくれる。
九月二十七日、日曜日。茉莉と聡が殺される。同じ頃、高校三年の男子生徒が姿を消す。
「話をつける、と書いた翌日に、すべてが起きている」
照真が言った。
「だが、この『あの人』が誰なのかは、ここには一文字も書かれていない」
耀司は、ノートを撮影させてほしいと登美に頼んだ。登美は少し考え、「あの子の字を、誰かに覚えていてもらうのも、いいかもしれないね」と言って許した。
帰り際、登美は玄関で月代の手を取った。
「あなた、どこかで会ったことがあるかしら」
月代は、何も答えられなかった。
「ごめんなさいね。年を取ると、若い人の顔がみんな娘に見える」
登美は笑って、手を離した。
「課題が終わったら、また遊びにいらっしゃい。この家は、静かすぎるから」
「はい。必ず」
月代の声は震えていた。生け垣の角を曲がるまで、登美は門の前に立って見送っていた。
家に帰り着く頃には、日が傾いていた。
月代は公園の手洗いで身体を耀司に返していた。部屋の窓から西日が差し込み、照真の輪郭が赤く溶けていく。境目の時間だった。本棚の影から、月守が立ち上がる。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
照真が消えると、耀司は鳥かごの前に立った。
「ピー助。由紀さんを知ってるんだね」
ピー助は、止まり木の上で背を向けていた。
「知らねえ」
「今朝、衿子姉さんを噛んだ。十三年で初めてだって、慧兄さんが言ってた」
「腹が減ってただけだ」
「嘘だ」
耀司の声が、思ったより強く出た。月代が内側で、はっと息をのむ。
「ピー助、本当は何もかも知ってて、僕たちをわざと遠回りさせてるんじゃないの。新聞社に行けって言ったのも、川を見なかったのも、図書館の由紀さんの名前を知ってたのも、全部」
ピー助が、ゆっくりと振り返った。
その目が、文鳥の目ではなかった。黒く、冷たく、底のない目だった。
「僕たちのこと、本当は心配なんかしてないんじゃないの。ただ、見てるだけで」
(耀司、言いすぎ)
月代が止めようとした。けれど、言葉はもう出てしまっていた。
「あの女が、余計なことを言わなきゃよかったんだ」
低い声だった。いつものピー助の、かすれた少年の声とは違う。もっと年上の、乾いた声。
「全部、あいつのせいだ。黙ってりゃ、誰も――」
「ピー助!」
月代の声が、耀司の口から飛び出した。身体は耀司のままなのに、声だけが月代のものだった。
ピー助は、びくりと震えた。
黒い目に、ふっと光が戻る。いつもの、小さな文鳥の目だった。
「……今の、俺が言ったのか」
ピー助の声は、もとのかすれた少年の声に戻っていた。小さな身体が、止まり木の上で縮こまっている。
「俺、今、何を言った」
耀司も月代も、答えられなかった。
月守が、鳥かごの前に膝をついた。
「この子の影には、二つの声が棲んでいる。今出てきたのは、この子の奥の、ずっと古い方」
「古い方……」
「どちらがこの子なのか。それを決めるのは、たぶん、まだ早い」
月守はそう言って、ピー助の影にそっと手をかざした。ピー助は羽を膨らませ、かごの隅で目を閉じた。
扉をノックする音がした。
「耀司、入るよ」
衿子だった。指には、朝の絆創膏が貼られたままだ。月守の姿は、衿子には見えない。
「ピー助、どう? 朝の、やっぱり気になって」
「寝てるよ」
「そう」
衿子はかごを覗き込み、少し寂しそうに笑った。
「この子を拾ったの、川沿いの倉庫のところなんだよ。十三年前の、春だったかな。羽を怪我して、古い倉庫のシャッターの前でうずくまってた」
耀司の心臓が、大きく跳ねた。
「倉庫……」
「そう。もう取り壊されたかもね。あのへん、昔は何か事件があったらしいって、お母さんが言ってたけど。私が生まれる前の話だし、よく知らない」
衿子は本当に何も知らない顔で、首をかしげた。
「耀司、最近、昔のことばっかり調べてるでしょ。課題?」
「うん」
「熱心だね。あんまり根を詰めないようにね」
「姉さん。ピー助の首の十字架って、拾った時からついてたの?」
「ううん。拾った時は何もなかった。うちに来て、しばらくしてからかな。気がついたら下げてたの。お父さんもお母さんも慧も、誰もつけてないって言うし。不思議だよね。この子、どこから持ってきたんだろう」
衿子は、かごの格子越しに眠るピー助に「おやすみ」と声をかけ、部屋を出ていった。
扉が閉まると、耀司は床に座り込んだ。
「月守。二人で話したい」
月守が耀司の背に手を当て、影の中から月代が現れた。霊体の月代は、耀司の隣に座らず、少し離れた窓辺に立った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。意識がつながっている分、相手が何を考えているかは分かる。分かるから、余計に言葉が出てこない。
「さっきは、ごめん」
耀司が言った。
「由紀さんを疑ったこと」
「私も。ピー助を、あんなふうに責めさせちゃった」
月代は窓の外の暗い空を見ていた。
「疑い始めると、何もかもが怪しく見えるね。由紀も、ピー助も、お父さんも、戸叶さんも。衿子姉さんまで、何か知ってるんじゃないかって、一瞬思った」
「疑心暗鬼、か」
「暗いところに、鬼がいるように見える」
月守が、静かに言った。
「疑いは、悪いことではない。でも、疑いだけで見ると、影はみんな鬼の形になる。影の形ではなく、影を落としている物の方を見なさい」
耀司は、スマートフォンを取り出した。由紀のノートの最後のページを撮った写真を開く。
「月守。この写真の影、見られる?」
「写真の影は薄い。でも、やってみる」
月守が画面に手をかざす。白く光る画面の上に、ほんの一瞬、灰色の筋が浮かんだ。
最後のページではない。その前の、破り取られたページの下に残った、筆圧の跡だった。上のページに強く書かれた文字が、下の紙にへこみとして残っていたのだ。
影の筋が、いくつかの文字の形を結ぶ。
――お誕生日、おめでとう。
――喜んでくれた。
それだけ読み取ると、影はほどけて消えた。
「誕生日……」
月代が、ゆっくりと振り返った。
「十字架の刻印。千九百九十八年、八月三――」
「八月の終わりのページが、破られてた」
二人の声が重なり、それから、どちらも黙った。
「先生に相談した、って書いてあった」
耀司が言った。
「由紀さんが相談した先生を探そう。それから、同じ時期にいなくなった男子生徒のことも。三つの箱を、一つずつ開けていく」
「うん」
月代はうなずき、それから小さく付け加えた。
「今度は、疑う前に、ちゃんと聞く」
かごの中で、眠っていたはずのピー助が、片目だけを開けていた。
首の十字架が、月の光を受けて、かすかに震えていた。
(第3話 了)




