温故知新
鏡ヶ浦新報の社屋は、駅前通りから一本入った角に建っていた。
二階建ての古いビルで、一階の硝子戸には、色の褪せた金文字で社名が書かれている。九月二十八日、月曜日。授業を終えて一度家に戻った耀司は、パーカーのフードにピー助を入れて、その硝子戸の前に立っていた。
「本当にここでいいの?」
「知らねえよ。俺は昨日、思いついたことを言っただけだ」
フードの中で、ピー助がくぐもった声を出す。
(思いついたにしては、ずいぶん具体的だったけど)
月代が内側で言った。耀司は小さく笑って、硝子戸を押した。
受付には、二十代半ばくらいの女性が座っていた。胸の名札に「菅沼」とある。耀司が、学校の課題で町の百年を調べていると告げると、菅沼は意外なほどうれしそうな顔をした。
「若い人が古い新聞を読みに来るなんて、めったにないのよ。資料室、案内するね」
階段の踊り場で、耀司はふと足を止めた。
二階の編集部は硝子の仕切りの向こうにあり、窓際の机で、白髪混じりの男が受話器を耳に当てていた。六十を少し過ぎたくらいだろうか。日焼けした首筋と、袖をまくった太い腕。男は電話を続けながら、硝子越しに、まっすぐ耀司を見ていた。
「あの人は?」
「編集長の戸叶さん。昔は写真もやってたの。資料館に貸し出した鏡座の写真、あれ、戸叶さんが撮ったのよ」
耀司は軽く会釈した。戸叶は会釈を返さず、ただ視線を外して、電話の相手に何か短く答えた。
照真が、耀司の半歩うしろで足を止めている。
「覚えておけ。あの男は、おまえの顔を見る前に、フードを見ていた」
耀司は思わず、背中のフードに手をやった。ピー助は、身じろぎひとつしなかった。
資料室は、階段の奥の狭い部屋だった。
鉄の棚に、年ごとに綴じられた新聞がぎっしりと並んでいる。窓は北向きで、午後の光は弱く、古い紙の匂いが鼻の奥に溜まった。
「平成十年は、このあたり。破かないように気をつけてね。何かあったら下にいるから」
菅沼が出ていくと、部屋には耀司とピー助と、照真だけが残った。
耀司は分厚い綴じ込みを机に下ろし、九月の束を開いた。
最初に見つけたのは、九月二十五日付の記事だった。
――鏡座、七十年の幕。二十七日に最終公演。
駅裏の劇場、鏡座が、建物の老朽化のため閉館する。最終公演は二十七日の日曜、午後六時開演。記事には、戦前から続いた劇場の歴史と、閉館を惜しむ町の人々の声が並んでいた。
「二十七日の、日曜」
耀司は日付を指でなぞった。昨日、資料館で見た写真の説明書きには「一九九八年九月」としか書かれていなかった。けれど最終公演の夜は、間違いなく九月二十七日だ。
次の紙面をめくる。九月二十九日、火曜日の一面。
――倉庫街で男女二人の遺体。
二十八日の早朝、川沿いの倉庫街の空き倉庫の前で、出勤途中の作業員が二人の遺体を見つけた。亡くなっていたのは町内に実家のある篁聡さんと、宵宮茉莉さん。二人とも二十四歳。県外で働いていたが、週末を利用して帰省していた。二人は二十七日の夜、鏡座の最終公演を観たあと、行方が分からなくなっていた。死亡推定時刻は、二十七日の午後九時から十一時ごろ。警察は殺人事件として捜査を始めた――。
記事は抑えた筆致で書かれていた。それでも、文字を追うだけで、耀司の指先は冷たくなった。
(耀司)
月代の声が、内側でかすれた。
(大丈夫)
(大丈夫じゃないのは、あなたの方)
そうかもしれない。耀司は息を吐き、紙面から目を上げた。
「照真」
「分かっている」
照真が机の上に手をかざした。白い光が、綴じ込みの上を薄く撫でていく。光の触れた日付だけが、紙面からわずかに浮かび上がって見えた。
九月二十五日、閉館の告知。九月二十七日、最終公演。同じ夜の午後九時から十一時、死亡推定時刻。九月二十八日の早朝、発見。九月二十九日、第一報。
「過去を温めて、新しきを知る」
照真が静かに言った。
「温故知新、という。古いものを並べ直すだけで、見えてくることがある。新しい何かを足す前に、まず順番を正しく置け」
「順番……」
耀司は、浮かび上がった日付を見つめた。
最終公演が終わるのは、遅くとも午後九時前後だろう。二人は劇場を出て、それから二時間以内に殺された。見つかったのは劇場の前ではなく、川沿いの倉庫街だ。
「劇場の前から、倉庫街まで」
「昨日の古地図を思い出せ」
鏡座の脇の路地が北へ延び、駐車場跡を抜けて、川沿いの倉庫街へつながっている。歩けば、どのくらいかかるのだろう。
耀司が考え込んでいると、内側で月代が身じろぎした。
(ねえ、耀司。代わって)
(ここで?)
(細かい字、あなたより私の方が速く読めるでしょう。続報を全部見たいの)
耀司は、部屋の扉に目をやった。菅沼は下にいる。しばらくは誰も来ないはずだ。
ポケットから手鏡を取り出す。
「自分は誰?」
古い紙の匂いの中で、鏡面がほの白く曇った。
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
鏡の中の少年がほどけ、長い髪の少女が結び直される。パーカーの肩がすとんと落ち、袖口が指先を半分隠した。
「やっぱり、大きいね」
月代は袖をまくり上げ、綴じ込みに身を乗り出した。
月代が身体を使っている間、耀司は内側から世界を見る。自分の目で見ているのに、見ている手応えだけが、少し遠い。月代の視線は耀司よりも速く、紙面の隅から隅へと滑っていった。
十月一日、続報。二人が劇場を出たところまでは、複数の観客が見ている。その先の足取りは分からない。
十月三日。雨のため、現場周辺の痕跡の多くが流されていた。
十月六日。月代の指が、小さな囲み記事の上で止まった。
――鏡ヶ浦高三年の男子生徒、行方分からず。家出か。
九月末から、町内の高校三年の男子生徒と連絡が取れなくなっている。家族は家出の可能性があるとして、警察に相談している――。名前は書かれていない。記事は、たった五行だった。
(九月末)
耀司が内側で繰り返す。
「同じ時期だね」
月代がつぶやいた、その時だった。
背中のフードは軽かった。ピー助は、二人が入れ替わる前に、机の端へ移っていた。その小さな身体が、記事を見下ろしたまま、ぴたりと固まっている。
「ピー助?」
「……関係ねえだろ」
声が、いつもより低かった。
「家出なんか、どこにだって転がってる」
「まだ何も言ってないよ」
ピー助は答えず、窓の方へ顔を背けた。首の十字架が、北向きの弱い光の中で揺れた。
階段を上がってくる足音がした。
月代が顔を上げるのと、扉が開くのは、ほとんど同時だった。
「どう? 何か見つかった――」
菅沼が、湯気の立つ紙コップを二つ持ったまま止まった。
「あれ? さっきの男の子は?」
月代は、袖を握りしめたまま、一瞬だけ言葉を失った。
(下で電話してるって言って)
耀司が内側でささやく。
「あ、あの、兄……いえ、従兄は、外で電話を。私、一緒に来ていて」
「そうなの? 気づかなかった。ごめんね、コーヒー、一つしか――あ、二つあるか。よかった」
菅沼は人の好さそうな顔で紙コップを机に置き、月代のパーカーをちらりと見た。さっきの男の子と同じ服、大きすぎる袖口に、何か言いたげな顔をしたが、口には出さなかった。
「閉館は五時半だから、それまでに片付けてくれればいいからね」
扉が閉まると、月代はその場に座り込んだ。
「心臓、止まるかと思った」
(止まったら困るよ。僕の心臓でもあるんだから)
「笑いごとじゃない」
机の端で、ピー助が、くっ、と喉を鳴らした。笑ったのだと分かるまで、少し時間がかかった。
新聞社を出る前に、月代は手洗いを借りて身体を耀司に返した。硝子戸を出る時、受付の菅沼が「従兄くん、戻ってきたのね」と手を振った。耀司は曖昧に笑って会釈した。
「古いものを並べ直したなら、次は歩いてみろ」
駅前通りに出ると、照真が言った。
「新聞の時刻と、地図の道と、おまえの足。三つを重ねれば、紙の上だけでは見えないものが見える」
ふと振り返ると、新聞社の二階の窓に人影があった。戸叶だった。編集長は窓枠に手をついたまま、駅裏へ向かう耀司の背中を、じっと目で追っていた。
鏡座の跡地は、駅裏の月極駐車場になっていた。白線の引かれたアスファルトの端に、劇場の土台だったらしい古い石が一つだけ残っている。耀司はスマートフォンのストップウォッチを押し、駐車場の脇から北へ延びる細い路地へ入った。
路地は、思っていたよりずっと狭かった。両側に古い家の塀が続き、大人が二人並べばいっぱいになる。途中で道は一度折れ、ブロック塀に挟まれた暗い区画を抜けると、急に視界が開けて、川の匂いがした。
倉庫街だった。トタン屋根の古い倉庫が並び、半分以上はシャッターが下りたままだ。
ストップウォッチは、十二分を指していた。
(劇場を出たのが九時前として、ここまで十二分)
月代が内側で計算する。
(死亡推定時刻は九時から十一時。時間は、十分ある)
「十分すぎるくらいだな」
「時間があるということは、誰にでもできたということだ」
照真が言った。
「だが、誰がしたかは、時間だけでは決まらん。早合点するな」
耀司はうなずき、路地の途中の、ブロック塀に挟まれた暗い区画を振り返った。街灯は、今も一本だけ立っている。古い型の、傘のついた街灯だった。
フードの中で、ピー助が身を固くしているのが分かった。
「ピー助、どうしたの」
「川は嫌いなんだよ。羽が湿る」
(文鳥って、水浴びが大好きなはずなのに)
月代のつぶやきに、ピー助は聞こえないふりをした。
ピー助は、最後まで川の方を見ようとしなかった。
二人は一度家に戻り、ピー助をかごに入れてから、町立図書館へ向かった。図書館には母が勤めている。月代の姿で行くわけにはいかない。
郷土資料室は、図書館の二階の奥にある。窓の外では、西の空がゆっくりと色を変え始めていた。
耀司が探していたのは、鏡ヶ浦高校の卒業記念誌だった。新聞の囲み記事の「高校三年」が、どうしても頭から離れない。一九九八年に三年生だった生徒は、翌年の三月に卒業する。
平成十一年三月卒業。背の褪せた冊子を棚から抜き出し、閲覧机に広げる。
クラスごとの集合写真と、名簿が並んでいた。
「照真」
「長くは無理だぞ。もうすぐ日が沈む」
「少しでいい」
照真の手が背に触れる。耀司の影が閲覧机の影と重なり、そこから月代が立ち上がった。霊体の月代は耀司の肩越しに名簿をのぞき込み、細い指で行をたどっていく。
「三年一組、三年二組……」
二組の名簿で、月代の指が止まった。
五十音順に並んだ名前の、か行の途中。そこに、一行分の余白があった。
印刷の乱れではない。前後の名前の間隔が、そこだけ不自然に開いている。まるで、一人分の名前を刷る直前に、版から抜き取ったかのように。
耀司は、向かいのページの集合写真を数えた。三年二組の生徒は、写真の中に三十九人。名簿の名前も三十九人。写真の右上には、撮影日に休んだ生徒の顔を入れるための丸い枠が刷られていたが、枠の中は白いままだった。
「顔を入れるはずの枠だけあって、中身がない」
「ここ、誰かがいた」
月代がつぶやいた。
窓の外で、太陽が山の端に触れた。
閲覧室の照明は点いているのに、部屋の隅の影だけが、ふっと濃くなる。境目の時間だった。照真の輪郭が赤い光の中で揺らぎ、書架の影から、月守の黒い衣がにじみ出た。
「余白にも、影は残る」
月守が、名簿の余白に指先を触れさせた。
白い紙の上に、ほんの一瞬、灰色の文字が浮かんだ。
――久。
最初の一文字だけだった。続きは、水に溶けるように消えた。
「わたしに拾えるのは、ここまで」
月守は指を引いた。
「この一文字が誰のものかは、わたしにも分からない。印刷の時に抜かれたのか、最初から載せる予定がなかったのか。それを確かめるのは、あなたたち」
照真が、消えかけの光の中から言った。
「余白は、それだけでは何も語らん。だが、余白を作った誰かがいる。それは確かだ」
日が沈み、照真の姿が光の粒になってほどけた。
月代は、名簿の続きを読んでいた。
三年三組。さ行の終わり近くに、その名前はあった。
――宵宮由紀。
名前の横に、小さな黒い星印がついている。ページの下の注記には、「※在学中に逝去された方」とだけ記されていた。
月代の霊体の輪郭が、大きく揺れた。
「宵宮……」
(月代?)
「知ってる。この名前、知ってる」
月代は両手で自分の肩を抱いた。
「小さい女の子が、私を呼んでるの。お姉ちゃん、って。お姉ちゃん、待って、って。でも、顔が……顔が見えない」
「月代、戻って。影がもたない」
月守が月代の背にそっと手を当て、霊体を耀司の影の中へ導いた。戻ってきた月代の意識は、ひどく冷たかった。耀司は、自分の胸の内側を両手で包むようなつもりで、黙って呼吸を整えた。
「あら、耀司。珍しいところにいるのね」
声に振り向くと、母が立っていた。返却本を載せた台車を押している。
「お母さん」
「卒業記念誌? ずいぶん古いのを見てるのね」
「学校の課題。町の百年を調べてて」
「そう。勉強熱心で結構」
母は台車の上の本を棚に戻しながら、ちらりと記念誌に目をやった。開いたままのページには、星印のついた名前がある。母は何も言わず、少しだけ表情を曇らせた。
「暗くなる前に帰りなさいね。今日はお父さんも早いから、みんなで夕飯よ」
夕食の席は、いつもより少しだけ静かだった。
姉の衿子が保育園の運動会の準備で疲れていて、兄の慧は珍しく残業がなかった。父は機嫌がよく、企画展の初日に思ったより人が来たことを話していた。
「新聞にも載るらしい。鏡ヶ浦新報が取材に来てね」
「戸叶さん?」
耀司が言うと、父は箸を止めた。
「よく知ってるな」
「今日、新聞社に行ったから。昔の記事を見せてもらった」
「熱心だな」
父は笑った。
「鏡座の写真も、戸叶さんに借りたんだ。あの人も、あの頃はまだ若手だった」
「お父さん、鏡座の最終公演、観に行ったの?」
衿子が尋ねた。
「行ったよ。役場の若い連中と一緒にね。最後の演目が終わって、客席みんなで拍手をして……いい夜だった」
父はそう言って、少し遠い目をした。
「土曜の夜だったな。次の日は役場の宿直で、日曜は一日、庁舎に詰めていたんだ」
耀司の手の中で、箸が止まった。
(耀司)
内側で、月代が息を詰めている。
耀司は、新聞社で見た九月二十五日付の閉館告知を思い出していた。あの紙面には、はっきりと日曜と刷られていた。
「父さん」
耀司は、なるべく何気ない声を作った。
「最終公演って、日曜じゃなかった? 今日見た新聞に、二十七日の日曜って書いてあったよ」
食卓の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
「そうだったか?」
父は首をかしげ、それから苦笑した。
「じゃあ、父さんの記憶違いだな。二十八年も前だ。土曜も日曜もごっちゃになる」
「お父さん、昨日も二十八年前、二十八年前って言ってた」
衿子がからかうと、父は「年を取るとそういうものだよ」と肩をすくめた。
「宿直の方が土曜だったんじゃないの?」
慧が言い、父は「そうかもしれないな」とうなずいた。母は黙って、父の湯呑みにお茶を注ぎ足した。
会話はすぐに、衿子の運動会の話へ移っていった。
食器を片付けながら、耀司は台所の母に小声で尋ねた。
「お母さん。図書館で見てた名簿の、星印の人。知ってる?」
母は洗い物の手を止めずに、少しだけ間を置いた。
「宵宮さんのところの下の娘さんね。お母さんもまだ二十歳を過ぎたばかりの頃の話だから、詳しくは知らないけど……町じゅうで噂になったから。宵宮さんのお宅は、あの年、娘さんを二人とも亡くしたのよ」
「二人とも」
「上のお嬢さんは、あの劇場の事件で。下のお嬢さんは、次の年の冬に、雪の日の事故で。お葬式が続いて、気の毒でね」
母はそこで言葉を切り、蛇口を閉めた。
「どうしてそんなことを聞くの」
「課題で、ちょっと」
「そう。あんまり、人の悲しいことを掘り返さないのよ」
母の声は穏やかだったが、耀司は、それ以上何も聞けなかった。
窓辺の鳥かごの中で、ピー助だけが、父の横顔から目を離さなかった。
部屋に戻ると、月守が窓辺に立っていた。
夜の守護霊は、昼間よりもはっきりとした輪郭で、月の光を背にしている。
「月守。二人で話したい」
月守は黙ってうなずき、ひやりとした手のひらを耀司の背に添えた。影の中から、月代が姿を現す。今夜の月代は、図書館の時よりも落ち着いていた。それでも、膝の上で組んだ指先は白かった。
「お父さんが日付を間違えたの、ただの記憶違いだと思う?」
「分からない」
耀司は、昨日と同じ答えを返した。
「でも、土曜と日曜を取り違えただけなら、宿直の日も一緒にずれるはずだ。最終公演を観た夜と、宿直の日。どっちかがずれてる」
「どっちがずれてるかで、意味が変わる」
「うん」
「それに、街灯のこと」
月代が続けた。
「新聞は十月の続報まで全部読んだけど、街灯が切れていたなんて、どこにも書いてなかった。雨で痕跡が流された、とはあったけど」
「今日の路地には、街灯が一本だけあった。曲がり角の、暗い区画のところに」
「お父さんが言ってたのは、たぶん、あの街灯」
耀司は黙ってうなずいた。あの区画は、劇場の裏口から見て、ちょうど最初の曲がり角の先にあたる。劇場の正面にいた観客からは見えない場所だった。
二人は顔を見合わせた。言葉にしなくても、同じことを考えているのが分かる。分かってしまうのが、少し怖かった。
「ピー助」
月代が鳥かごに声をかけた。
「九月二十七日の夜のこと、本当に何も覚えてないの?」
ピー助は止まり木の上で、長いこと黙っていた。
「忘れた方がいい」
やがて、ぽつりと言った。
「思い出したって、誰も生き返らねえ。おまえらも、あの由紀って子も」
「どうして、由紀さんの名前を」
「図書館で、おまえらがでかい声で言ってたからだよ」
ピー助はそう言って、羽の中に嘴をうずめた。図書館には、ピー助は連れて行っていない。新聞社を出たあと、一度家に戻って、かごに入れてから出かけたのだ。
耀司がそれを口にしようとした時、月守が首を横に振った。
「今夜は、問い詰めないで」
「どうして」
「この子の影が、ひどく震えている。怯えた影から拾ったものは、たいてい形が歪む」
月守は鳥かごの前に膝をつき、ピー助の首から下がる十字架に、指先を近づけた。触れはしない。ただ、月の光の角度を少しだけ変えるように、手のひらを傾けた。
床に落ちた十字架の影が、また大きく伸びた。
昨夜は読めなかった刻印が、今夜は影の中で、わずかに形を結ぶ。
――1998・8・3
その先の数字は、すり減ったようにかすれている。日付の上には、何かの文字が一つ刻まれていたらしい痕があったが、それも削れて読めなかった。
「千九百九十八年、八月三日……」
月代が読み上げる。
「三日とは限らない。三十日かもしれないし、三十一日かもしれない」
耀司は、影の数字を手鏡に映した。鏡の中でも、最後の一桁は霞んだままだった。
「事件の、一か月半前」
「誰かが、誰かに、この十字架を贈った日」
月守が言った。
「わたしに分かるのは、それが祝いの日の影だということだけ。喜びの残響が、とても強い」
喜び。
殺された二人と、行方の分からなくなった高校生と、在学中に亡くなった少女。その全部の真ん中に、誰かの喜びの日が刻まれている。
耀司は、手鏡を握る手に力を込めた。
「自分は誰?」
鏡の中で、少年と少女の唇が同時に動く。
「耀司」
「月代」
答えは、昨日と同じだった。けれど、二人の声の奥にある重さは、昨日とは少し違っていた。
かごの中で、ピー助がほんの小さく、誰にも聞こえない声で何かを言った。
月守にだけは、それが聞こえたのかもしれない。夜の守護霊は、悲しそうに目を伏せた。
(第2話 了)




