百花繚乱
鏡の中に、少年がいた。
寝癖のついた黒髪と、左の眉の上に残る小さな傷。十六年見慣れてきた顔なのに、影浦耀司は、そこに映る自分をいつも少しだけ他人のように感じる。
「自分は誰?」
手鏡に向かって、小さく問いかける。
夜明け前の部屋は青く沈んでいた。カーテンの隙間から、まだ色を持たない光がひとすじ差し込み、机に置いた手鏡の縁だけを白く光らせている。
「自分は誰?」
二度目の問いで、鏡の奥の瞳がかすかに揺れた。
三度目を口にする前に、胸の内側から声がした。
(耀司。今朝は、私の方が先に目を覚ましていたのに)
「知ってる。だから聞いてるんだ」
(ずるい答え方)
くすりと笑う気配が、耳ではなく心臓のあたりで鳴る。月代の声だった。
二〇一〇年九月七日。耀司と月代は、一つの身体に二つの魂を宿して生まれた。本当なら二卵性の双子として、二つの産声を上げるはずだった。けれど母の胎内で何かが起こり、少年の身体は少女の身体を抱き込むようにして一つになった。
だから耀司の中には、生まれる前から月代がいる。
もう一人の人格、という言い方を、二人はどちらも好まなかった。月代は月代で、耀司は耀司だ。見たものも聞いたものも、心の揺れさえも分け合える。ただ、使える身体が一つしかない。それだけのことだった。
「朝っぱらから、また哲学かよ」
窓辺の鳥かごの中で、白い文鳥が羽を膨らませていた。ピー助だ。桜色の嘴の下、細い銀の鎖に、小指の爪ほどの古びた十字架が下がっている。いつからそこにあるのか、耀司は知らない。物心ついた時には、もうピー助の首元で揺れていた。
「おはよう、ピー助」
「おはようじゃねえよ。まだ五時前だぞ。文鳥の睡眠を何だと思ってるんだ」
家族の耳には、チュン、チチ、というさえずりにしか聞こえない声。けれど耀司と月代には、少しかすれた少年の声として、はっきりと言葉が届く。
「ピー助も起きてたくせに」
「起こされたんだよ。おまえらの寝言で」
(寝言?)
「花がどうとか、雨がどうとか。毎晩毎晩、同じことを言いやがって」
耀司は手鏡を伏せた。
覚えている。ここ一週間、同じ夢を見ている。色とりどりの花が咲き乱れる中を、誰かと手をつないで走っている夢だ。花びらに雨が打ちつけ、遠くで古い建物の看板が明滅している。そして最後に、必ず誰かが叫ぶのだ。
――逃げろ。
その声の主の顔だけが、いつも見えない。
「境目だな」
ピー助が、ぽつりと言った。
窓の外で、東の山の端が薄く燃え始めていた。夜と朝のあわい。その一瞬だけ、部屋の影が二重になる。
机の下の暗がりから、黒い衣の女が音もなく立ち上がった。腰まで届く髪は夜の水の色をしていて、輪郭はいつも少しだけ滲んでいる。陰の守護霊、月守だった。
「夜の番は、ここまで」
月守が静かに告げたのと同時に、カーテンの隙間から差し込んだ最初の陽光が、床の上で人の形を結んだ。白金の衣に、背負った日輪のような光をまとう男。陽の守護神、照真。
「昼の番を引き受けよう」
二人の守護者は、同じ月の影から生まれたのだという。満ちた月が地上に落とす影。その影から陽と陰が分かれた。照真は日の出から日没まで、月守は日没から日の出まで、交代で耀司と月代を見守っている。二人が並んで立てるのは、夜明けと日暮れの、ほんの短い時間だけだ。
「月守。月代の夢、昨夜も同じだった?」
耀司が尋ねると、月守は少しだけ目を伏せた。
「同じ。花と、雨と、劇場の看板。それから、三つの足音」
「三つ?」
「わたしに見えるのは、影の残響だけ。誰の足音かまでは分からない」
月守は、知っているふりをしない。過去の影は断片しか運んでこない、というのが彼女の口癖だった。
照真が窓辺へ歩み寄り、鳥かごをのぞき込む。
「ピー助。おまえは、何を聞いた」
「何も。俺は文鳥だぞ。夢なんか見るかよ」
ピー助はそっぽを向き、止まり木の上で首の十字架を揺らした。
(嘘つき)
月代が、耀司の内側でつぶやいた。
(耀司。少しだけ、代わってもいい? 夢の中の看板、描いておきたいの。忘れないうちに)
「いいよ」
耀司は手鏡を起こし、もう一度鏡面を見つめた。
「自分は誰?」
今度は、問いを月代に手渡すつもりで言う。
「自分は誰?」
鏡の中の少年の輪郭が、水に落としたインクのように揺らいだ。
「――自分は、月代」
答えたのは、少女の声だった。
肩に触れる髪が伸び、指先が細くなる。骨格がやわらかく組み替わり、パジャマの襟が少し大きく感じられた。痛みはない。ただ、身体の芯を通る重心が、ほんのわずかに右から左へ移る。それが、二人が入れ替わる時の感覚だった。
鏡の中には、長い髪の少女がいた。
「おはよう、耀司」
(おはよう。早く描きなよ。母さんが起きる前に)
月代はスケッチブックを開き、鉛筆を走らせた。夢の中の看板。半円形の屋根。縦に並ぶ三文字。最後の文字だけが、雨ににじんで読めない。
「鏡……」
一文字目を書いたところで、鉛筆の先が止まった。
「鏡、何?」
「ああ」
ピー助が、かごの中で妙に平坦な声を出した。
「鏡座だよ。駅裏にあった劇場だ。とっくに取り壊されたけどな」
「ピー助、どうして知ってるの」
「町の鳥なら誰でも知ってる」
照真が、わずかに眉を動かした。月守の輪郭は、朝の光に押されて薄れていく。
「時間ね」
「今夜、また」
月守の姿が消えると、部屋の影は一つに戻った。
階下で、湯を沸かす音がした。月代は描きかけのスケッチブックを閉じ、手鏡に向かってもう一度問いかけた。身体は静かに、耀司の形へ戻っていった。
影浦家の朝は、いつもにぎやかだ。
「耀司、卵、焼くのと茹でるの、どっち」
「焼く方」
台所の母、佐和子が振り返りもせずに聞く。五十歳。町立図書館で働き、家族の誰より朝が早い。
兄の慧は、トーストをくわえたまま電車の時刻を確かめていた。二十五歳、隣の市の機械メーカーの営業で、日曜の今日も展示会に顔を出すらしい。
「日曜まで仕事って、ブラックじゃない?」
姉の衿子が、コーヒーを注ぎながら言った。二十六歳。町の保育園で保育士をしている。慧とは年子で、子どもの頃から言い合いが絶えない。
「展示会は営業の稼ぎ時なんだよ」
「会社のため、でしょ」
耀司は目玉焼きに醤油を垂らした。内側の月代は、いつものように姉の味方だ。
(衿子姉さんの勝ち)
(判定が甘すぎる)
家族は、月代を知らない。
十六年間、影浦家の末っ子は耀司ただ一人だった。月代が身体の主導権を持つのは、部屋の扉を閉めた時か、人のいない場所だけ。家族の誰にも、二人はまだ本当のことを話せずにいる。
信じてもらえないから、ではない。信じてもらえた時に、この家の何かが変わってしまう気がするからだ。
「今日の企画展、行くんだろう」
新聞を畳みながら、父の柾人が言った。
五十二歳。町役場の総務課に長く勤め、今は鏡ヶ浦町の町制百周年記念事業の担当課長を務めている。眼鏡の奥の目はいつも穏やかで、家で声を荒らげたことは一度もない。
「うん。午前中に」
「そうか。父さんも昼から資料館に詰めるから、何かあったら声をかけなさい」
「百花繚乱、だっけ」
衿子が企画展の名前を口にすると、父は少し照れくさそうに笑った。
「町の百年を、花の数ほどの記憶で振り返る。名前を決めたのは館長だけどね」
「お父さん、何年もこの準備してたもんね」
母が皿を置きながら言うと、父は「まだ始まったばかりだよ」と笑った。
何の変哲もない、日曜の朝だった。
窓辺に移した鳥かごの中で、ピー助だけが黙って父の背中を見ていた。首の十字架が、朝日を受けて小さく光った。
鏡ヶ浦町立郷土資料館は、町役場の裏手にある二階建ての古い建物だ。
入口には、本当に花があふれていた。秋桜、竜胆、鶏頭、千日紅、吾亦紅。町中の花壇から集められた鉢が段々に並べられ、その間を縫うようにして、「百花繚乱――鏡ヶ浦の百年」と書かれた垂れ幕が下がっている。
見上げると、パーカーのフードの中で、もぞりとピー助が動いた。
「花なんか見て何が楽しいんだか」
「じゃあ、なんでついてきたの」
「おまえらだけだと、ろくなことにならねえからな」
ピー助は、出かける時にはいつも耀司のフードに潜り込む。外で口をきくのは、耀司と月代にだけ届く言葉に限っていた。
照真は、陽光の中を半歩うしろからついてくる。昼の守護神の姿は、耀司と月代以外には見えない。
「多くの花が一度に咲き誇るさまを、百花繚乱という」
照真が言った。
「美しい言葉だが、花が多ければ、その中に紛れたものは見えにくくなる」
「紛れたもの?」
「枯れても、なお咲いているように見えるもの。気をつけて見ておけ」
照真は答えを言わない。いつもそうだった。照らすのは、見るべき場所までだ。
展示室の中は、外の華やかさとは打って変わって薄暗かった。古い写真のパネルが年代順に並び、ガラスケースには、祭りの法被や廃線の切符が収められている。
一九九〇年代の区画の端に、他とは色の違うパネルがあった。
黒い縁取り。その上に、白い文字。
情報提供のお願い
平成十年(一九九八年)九月二十七日夜、鏡ヶ浦町内において、篁聡さん(当時二十四歳)、宵宮茉莉さん(当時二十四歳)の二名が殺害されました。犯人は現在も検挙されていません。どんな小さな情報でも構いません。
パネルの下に、県警の連絡先が記されている。百周年の展示に似つかわしくないその一角だけ、空気が冷たかった。
(今日だね)
月代が、内側でつぶやいた。
「うん。二十八年前の、今日だ」
耀司は、二人の名前から目を離せなかった。
篁聡。宵宮茉莉。
会ったこともない人たちだ。耀司と月代が生まれる十二年も前に亡くなっている。それなのに名前を読むたびに、胸の奥に冷たい水が満ちていくような悲しみが広がる。まるで、自分たちが二人を知っていたかのように。
パネルの横には、一枚の白黒写真が掲げられていた。
半円形の屋根を持つ劇場の正面。縦に並ぶ看板の文字。
「鏡座……」
月代がスケッチブックに描いた看板と、同じ形だった。三文字目は雨ににじんでなどいない。くっきりと「座」と読める。
写真の説明書きには、「一九九八年九月 鏡座最終公演の夜(鏡ヶ浦新報提供)」とあった。劇場の入口の前には、傘を差した観客たちの影が、濡れた舗道に長く伸びている。
「照真」
耀司は小声で呼んだ。
「月代を、外に出せる?」
「ここは光が弱い。長くはもたんぞ」
「少しでいい」
照真がうなずき、耀司の背に手を当てた。
温かい光が、背骨に沿って流れていく。耀司の足元の影が、ガラスケースの影と重なり、ゆっくりと広がった。影の縁がほの白く光り、そこから、長い髪の少女の姿が立ち上がる。
月代だった。
耀司の身体は耀司のまま立っている。月代は、耀司の影を依り代にして、もう一つの姿を得ていた。霊体の彼女は誰にも見えず、何にも触れられない。それでも、耀司の隣に立って、同じ写真を見上げることはできる。
月代は写真に顔を近づけた。
「この傘の人たち、みんな劇場の方を向いてる。でも、ここだけ……」
彼女が指さしたのは、写真の左端だった。劇場の脇へ続く細い路地。その入口の暗がりに、三つの小さな人影がある。二つは寄り添うように並び、もう一つは、少し離れて二人と向き合っていた。
「この三人だけ、劇場を見てない」
耀司は息をのんだ。
ポケットの中で、手鏡がかすかに震えている。取り出して鏡面を写真に向けると、そこに映ったのは白黒写真ではなかった。
雨だった。
色のある、濡れた夜。明滅する鏡座の看板。路地の入口で、二人の若い男女が、一人の少年と向き合っている。少年は笑っていた。男女の方は、笑っていない。
鏡の中の女が、こちらを振り返った。
その顔を見る前に、展示室の照明が一度だけ瞬いた。
鏡面には、もう薄暗い展示室しか映っていなかった。
「今の……」
「見えた」
月代の霊体の輪郭が、細かく震えている。
「私、あの人を知ってる。ううん、知ってるんじゃない。あれは――」
言いかけて、月代は口をつぐんだ。
ガラスケースの陰で、黒い影がかすかに揺らいだ。昼の光の届かないわずかな暗がりに、月守の声だけがにじむ。
(記憶を、証拠と取り違えないで)
姿はない。陽の高い時間、月守は深い影の中でしか声を保てない。
(鏡が見せるのは、断片。あなたたちが見たいものも、混ざる)
耀司は手鏡を握りしめた。
分かっている。分かっているけれど、胸の奥で誰かの声がしている。
――三人だった。
耀司の声でも、月代の声でもない。
フードの中で、ピー助が身じろぎした。
「三人で話してたんだ」
低い、かすれた声だった。
「あの路地で。あいつらと、もう一人」
「ピー助?」
耀司が振り返ると、ピー助はフードの縁から顔をのぞかせ、写真ではなく、展示室の奥の方を見ていた。
「……何でもねえよ。写真を見て、そう思っただけだ」
「今、あいつらって言ったよね」
「言ってない」
「言った」
月代の霊体が、ピー助をまっすぐに見つめる。ピー助は首を引っ込め、十字架の鎖だけがフードの縁で揺れた。
「その写真に、何か気になるところでもあったかい」
背後から、穏やかな声がした。
振り返ると、父が立っていた。首から資料館のスタッフ証を下げ、両手に企画展のパンフレットの束を抱えている。
「父さん。昼からじゃなかったの」
「来場者が思ったより多くてね。早めに来たんだ」
父は耀司の隣に並び、白黒写真を見上げた。月代の霊体が、そっと一歩下がる。父には、彼女の姿は見えていない。
「鏡座の最終公演の夜だ。この写真を探すのに、ずいぶん苦労した」
「この事件、知ってるの?」
「知っているも何も、町じゅう大騒ぎになったからね。父さんはまだ二十四だった。役場に入って二年目だったかな」
父は、少しだけ遠い目をした。
「あの夜は、ひどい雨だった。劇場の裏口の街灯が切れていて、路地は真っ暗だったんだ。だから誰も、何も見ていなかった」
(街灯)
月代の声が、耀司の内側に落ちた。霊体のまま、彼女は父の横顔を見つめている。
(耀司。そんなこと、パネルのどこにも書いてない)
耀司は、写真の説明書きをもう一度読んだ。新聞の切り抜きも、情報提供のパネルも、裏口の街灯については一言も触れていない。
「父さん、それ、どうして知ってるの」
「ん?」
「街灯が切れてたって」
父は一瞬だけ、言葉を探すように瞬きをした。
「当時の新聞に書いてあったんじゃなかったかな。いや、役場で誰かに聞いたのか。何しろ二十八年も前の話だからね」
父は、いつもと同じ穏やかな顔で笑った。
「それより、二階の古い地図も見ていきなさい。町の形がずいぶん違って面白いぞ」
父はパンフレットを抱え直し、展示室の入口へ向かって歩いていった。
その後ろ姿を、耀司は手鏡越しに見た。
鏡面に映る父の足元には、一つの影が伸びていた。展示室の照明が作る、ごく普通の影。
けれど、ほんの一瞬だけ、その影の先端が、花の形に揺れた気がした。
「耀司」
照真が、低い声で呼んだ。
「月代を戻せ。これ以上は、影が保たん」
月代の霊体は端からほどけ、耀司の影の中へ溶けるように戻っていった。
(ねえ、耀司)
戻ってきた月代の声は、少し震えていた。
(お父さん、私たちに嘘をついたと思う?)
(分からない)
耀司は正直に答えた。
(覚え違いかもしれない。新聞のどこかに書いてあったのかもしれない)
(でも、確かめる)
(うん。確かめよう)
フードの中で、ピー助は何も言わなかった。
家に戻ったのは、夕方近くだった。
二階の古地図の前で、二人は長い時間を過ごした。一九九八年当時の地図には、駅裏に鏡座の名前があり、その脇から細い路地が北へ延びていた。路地の先は、今は駐車場になっている一角を抜けて、川沿いの古い倉庫街へとつながっている。
一日に何度も影を使えば、二人の意識が混線し、ひどい疲れが残る。照真はそういうところだけは厳しかった。
部屋の窓を開けると、西の空が燃えるように赤かった。
「境目だな」
ピー助が、また言った。
夕陽が山の端に触れる。部屋の中の影が、二重になる。窓から差し込む赤い光の中で照真の輪郭が薄れ、代わりに、本棚の影から月守が立ち上がった。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
二人の守護者が並ぶ、短い時間。耀司は、机の上に手鏡を置いた。
「照真。月守。二人に聞きたいことがある」
「言ってみろ」
「あの事件の夜のこと、本当は知ってるんじゃないの」
照真と月守は、顔を見合わせた。
「知らない」
先に答えたのは月守だった。
「わたしたちは、あなたたちが生まれた時に、あなたたちの影から目を覚ました。それより前のことは、影の残響として断片を拾えるだけ。拾ったものが本当かどうかは、あなたたちが確かめるしかない」
「我々は、照らすことはできる。だが、選ぶことはできん」
照真が続けた。
「誰を信じ、何を疑うかは、おまえたちが選べ。それが、我々がおまえたちを守る理由でもある」
夕陽が沈み、照真の姿が光の粒になって消えた。
部屋には、月守と、耀司と、ピー助だけが残った。
「月守」
耀司の内側から、月代が呼ぶ。
「もう一度、二人で話したい」
月守がうなずき、耀司の背に冷たい手を当てた。夜の守護霊の力は、昼のそれとは違う。光で押し出すのではなく、影でそっと抱き上げるように、隠れている意識を外へ連れ出す。
耀司の影から、月代が現れた。今度の輪郭は、昼間よりずっとはっきりしている。夜は、陰の守護霊の時間だった。
二人は、ベッドの端に並んで座った。
「ねえ、耀司」
「うん」
「あの鏡の中の女の人ね」
月代は膝の上で指を組んだ。
「振り返った時、顔は見えなかった。でも、分かったの。あれは私だって」
耀司は、黙ってうなずいた。
「僕もだ。あの男の人の背中を見た時、自分の背中だと思った」
二人が生まれる前から互いを知っている理由。それを、二人は言葉にしたことがなかった。言葉にしてしまえば、もう引き返せない気がしていたからだ。
「僕たち、前にも生きてたんだ」
「うん」
「篁聡と、宵宮茉莉として」
「うん」
月代の霊体の手が、耀司の手に重なった。触れることはできない。それでも、そこに温度がある気がした。
「そして、二十八年前の今日、殺された」
月守は、何も言わずに二人を見守っていた。
「三人だった」
鳥かごの中で、ピー助が言った。
二人が振り向くと、ピー助は止まり木の上で、首の十字架をくちばしで挟んでいた。暗い部屋の中で、銀色の小さな十字架が、月の光を受けて鈍く光っている。
「あの路地にいたのは、三人だ。おまえらと、もう一人」
「もう一人って、誰?」
「さあな」
ピー助は、十字架を放した。
「文鳥に聞くなよ。俺は、ただの可愛いペットだぜ」
「ピー助」
月代が、鳥かごの前にしゃがみ込む。
「あなた、何を知ってるの」
ピー助は答えず、かごの隅へ背を向けた。
「明日、新聞社に行ってみろ。鏡ヶ浦新報。あの写真を撮ったやつが、まだいるはずだ」
「どうして、そんなことまで」
「さあな」
同じ言葉を繰り返して、ピー助は羽の中に顔をうずめた。
月守が、窓の外の月を見上げた。
「九月二十七日が、終わる」
満ちかけた月が、町の上に昇っていた。その光が窓から差し込み、床の上に影を落とす。
耀司の影。月代の影。月守の影。
そして、鳥かごの形の影の中に、文鳥の小さな影がひとつ。
けれど、耀司は気づいてしまった。
文鳥の影の首元から下がる十字架の影だけが、なぜか、人の手のひらほどの大きさに伸びていることに。
影の十字架の真ん中に、何かが刻まれている。月の光が強すぎて、まだ読めない。
耀司は手鏡を取り、そっと床の影に向けた。
「自分は誰?」
鏡に問う。
鏡の中の少年と、その隣に立つ少女の霊体が、同時に唇を動かした。
「耀司」
「月代」
二つの声が重なった、その瞬間。
鏡の端に、見覚えのない誰かの手が映った。
十字架を握りしめた、大人の男の手だった。
(第1話 了)




