前代未聞
午前二時。喉が渇いて目を覚ました耀司は、階段の途中で足を止めた。
一階の廊下の奥、父の書斎の扉が、細く開いている。中から、懐中電灯の小さな光が漏れていた。
父ではなかった。
扉の隙間から出てきたのは、兄の慧だった。スウェット姿で、手に何かを握っている。慧は書斎の扉を音もなく閉めると、廊下の暗がりで一度だけ振り返り、階段の下に立つ耀司と目が合った。
「……寝ぼけてんのか、耀司」
慧は、握っていたものを素早くスウェットのポケットに押し込んだ。
「水、飲みに来ただけ」
「そうか。早く寝ろ」
慧はそれだけ言うと、耀司の横をすり抜けて、二階の自分の部屋へ上がっていった。すれ違う時、兄の肩が、わずかに震えていた。
(慧兄さん、お父さんの書斎で何してたの)
内側で、月代がささやいた。
(分からない)
(ポケットに何か入れた。小さい、四角いもの)
十月二十一日、水曜日。日付が変わったばかりの夜だった。
部屋に戻ると、窓辺の暗がりで月守が待っていた。居間の鳥かごは、衿子が昨日、また耀司の部屋の窓辺へ戻していた。
「見たのね」
「月守。慧兄さんは……」
「あの子の影は、ずっと張りつめている。十日ほど前から」
月守は、窓の外の暗い庭を見つめた。
「でも、あの子の影の張りつめ方は、誰かを傷つけようとする者のそれではない。何かを抱えて、こぼさないように、必死で両手で持っている人の影」
鳥かごの中で、ピー助が片目を開けた。
「兄貴は、悪いやつじゃねえよ」
「どうして分かるの」
「中のやつが、兄貴には反応しねえからだ。中のやつが暴れるのは、あの眼鏡の顔を見た時と、姉貴に近づこうとする時だけだ」
ピー助はそれだけ言って、また目を閉じた。
朝の食卓は、いつもより静かだった。
慧は、トーストを口に押し込むと、誰とも目を合わせずに「行ってくる」と言って出ていった。いつもなら衿子と言い合いの一つもしてから出るのに、今朝はそれもなかった。
「慧、どうしたのかしら。最近、元気がないわね」
母が首をかしげると、新しい眼鏡をかけた父が、新聞から目を上げずに言った。
「仕事が忙しいんだろう。営業は、秋が山場だから」
「お父さんも、最近ちょっと疲れてない? 夜中に起きてるでしょう」
母の言葉に、父の新聞をめくる手が一瞬止まった。
「眠りが浅くてね。年だよ」
衿子が、窓辺の鳥かごに目をやった。
「ピー助、今朝はおとなしいね。お父さんのこと、もう引っかかない?」
「どうだろうな」
父は、新聞を畳んで立ち上がった。鳥かごの方は、一度も見なかった。見ないようにしているのだと、耀司には分かった。
前と同じ形の銀縁の眼鏡の奥で、父の目の下に、薄い隈ができていた。
その日、学校の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
昼休み、校舎の裏の日陰で、耀司は弁当を広げたまま、箸を止めていた。照真が、陽光の中から言った。
「おまえの兄を、疑っているのか」
「疑いたくない」
「疑いたくないのと、疑っていないのは違う」
(耀司)
内側で、月代が言った。
(疑う前に、聞く。約束したでしょう)
(うん)
(今夜、慧兄さんに聞こう。何をポケットに入れたのか)
耀司は、うなずいた。
(それにね、耀司)
月代の声が、少しだけ揺れた。
(私たち、ずっと家族に隠してきたでしょう。十六年間。もし慧兄さんが、何かを一人で抱えてるんだとしたら、それって、私たちと同じなのかもしれない)
(同じ?)
(家族を壊したくなくて、黙ってる)
耀司は、箸を置いた。家族には言えない。言えば、何かが変わってしまう。そう思って、二人は月代のことを隠してきた。慧がもし、同じ理由で何かを隠しているのだとしたら。
「照真」
「何だ」
「家族に、月代のことを話したら、どうなると思う」
「わたしに分かるのは、隠し続けたものは、いつか必ず、自分で選ばない形で明るみに出るということだけだ。選べるうちに選べ」
照真が、少しだけ表情を和らげた。
「前代未聞、という言葉がある。これまで誰も聞いたことのないような、珍しいこと」
「それが、どうしたの」
「おまえたちの存在が、まさにそれだ。そして今夜、おまえたちはたぶん、それを誰かに聞かせることになる」
「どういう意味」
「わたしにも、分からん。ただ、そういう匂いがする」
照真は、校舎の上の秋空を見上げた。
「わたしと月守は、おまえたちが生まれた夜に目を覚ました。一つの身体に二つの魂が宿るのも前代未聞なら、その二つに昼と夜の守り手がつくのも前代未聞だ。この世に、前例のないことなどいくらでもある。前例がないからといって、ありえないことにはならん。人に話して、すぐ信じてもらえることばかりではない。それでも、話すべき時はある」
夕暮れ。部屋の窓から差し込む赤い光の中で、照真が溶け、月守が立ち上がった。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
家族はまだ誰も帰っていなかった。母は図書館の遅番、衿子は保育園の会議、慧は残業、父は資料館の片付け。
「月守。二人で話したい」
月守が耀司の背に手を当て、影から月代が立ち上がった。二人は窓辺に並んで座り、鳥かごの中のピー助と向き合った。
「ピー助。聞きたいことがあるの」
月代が言った。
「中にいる人に。あの夜の、二人のこと」
ピー助は、長いこと黙っていた。
「……聞いてどうする」
「知りたいの。茉莉と聡が、どうやって」
月代の声が詰まった。耀司が、代わりに続けた。
「最後に、何があったのか」
ピー助は目を閉じた。小さな身体が、止まり木の上でわずかに傾く。次に目を開いた時、その奥に赤い濁りが滲んでいた。
「二人とも、同じ夜に死んだ」
年上の、乾いた声だった。
「同じ日だ。九月の二十七日。俺が暗いところに置かれたのと、同じ夜」
「見ていたの」
「見てねえ。聞いてただけだ。遠くで、二人の声がした。雨の中で、ずっと、お互いの名前を呼んでた」
月代が、両手で口元を押さえた。
「聡、聡って。茉莉、茉莉って。最後まで、手を離すなって言い合ってた。それから、声が止んだ。二つ、同時に」
悪霊の声は、そこで途切れた。
赤い濁りが引いていき、ピー助は止まり木の上で、ぐったりと羽を下ろした。
「……悪い。中のやつが、話したがった。あいつ、あの二人の声だけは、ずっと覚えてたらしい」
月代は、泣いていなかった。泣くことさえできないほど、静かに震えていた。
耀司は、霊体の月代の手に、自分の手を重ねた。触れられない手の上に、触れられない手を。
耀司の頭の中で、ずっと見えなかった夢の続きが、ふいに形を結んだ。
雨の路地。誰かの手を引いて走っている。振り返ると、長い髪の女が、濡れた顔でこちらを見ている。その後ろに、傘を差した黒い人影。逃げろ、と叫んだのは、自分の声だった。聡の声だった。茉莉に向かって、逃げろ、と。
「夢の中の声」
耀司がつぶやくと、月代が顔を上げた。
「逃げろって叫んでたの、僕だったんだ。聡が、茉莉に」
「私、逃げなかった」
月代が、首を振った。
「逃げないで、聡の手をつかんだ。離さなかった。一人で逃げるくらいなら、って」
「手を、離すなって」
月代が、消え入りそうな声で言った。
「私たち、生まれる前から、ずっとそうしてたんだね」
「うん」
手を離さなかったから、二人は今、一つの身体の中にいるのかもしれない。耀司は、ふとそう思った。言葉にはしなかった。月代にも、伝わっていた。
月守が、二人の後ろで目を伏せていた。
夜十時過ぎ。家族が全員帰ってきて、それぞれの部屋に引き上げたあと。
月代は手鏡に問いかけて、身体を受け取っていた。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
少女の身体で、月代は机に向かった。由紀のノートの写真を、もう一度、自分の目で読みたかった。耀司の目を通してではなく。
パジャマの袖をまくり、印刷した写真を一枚ずつめくっていく。月守は、窓辺の影に溶けるように立っていた。
ノックの音がした。
返事をする前に、扉が開いた。
「耀司、ちょっといいか。昨日の夜のこと――」
慧だった。
扉を開けたまま、慧は凍りついた。
弟の部屋の、弟の机に、長い髪の見知らぬ少女が座っている。弟のパジャマを着て、弟の写真の束を手にして。
「……誰だ」
慧の声が、低くなった。
「誰だ、おまえ。耀司はどこだ」
月代は、椅子から立ち上がることもできなかった。
(月代、落ち着いて)
内側から、耀司の声。
(どうしよう。戻る? 今、ここで鏡に問いかけたら)
(慧兄さんの目の前で、変わることになる)
「答えろ。耀司に何をした」
慧が一歩、部屋に踏み込んだ。拳を握っている。弟を守ろうとする兄の顔だった。
窓辺の影の中で、月守が静かに言った。
(決めなさい。隠すか、見せるか。どちらを選んでも、あなたたちは守る)
月代は、深く息を吸った。
「慧兄さん」
少女の口から出た呼び方に、慧の足が止まった。
「私、月代っていいます。耀司の中に、生まれた時から、ずっといるの」
「……は?」
「信じられないと思う。だから、見せる」
月代は、机の上の手鏡を取った。慧の目の前で、鏡を自分の顔に向ける。
「自分は誰?」
慧は、何も言わなかった。言えなかった。
「自分は誰?」
「――自分は、耀司」
答えたのは、少年の声だった。
長い髪が肩の上でほどけるように短くなり、細い指が骨ばっていく。パジャマの肩幅が、すとんと身体に合った。痛みも、光もない。ただ、慧の目の前で、少女が少年に戻っていった。
鏡を下ろした耀司の顔を、慧は、口を半分開けたまま見つめていた。
「……慧兄さん」
「耀司」
「うん」
「今の、何だ」
「月代。僕の、もう一人」
慧は、後ろ手に扉を閉めた。それから、壁に背中を預けて、ずるずると床に座り込んだ。
「前代未聞だ」
慧は、両手で頭を抱えた。
耀司の手のひらの中で、手鏡がまだかすかに温かかった。窓辺の影で、月守が黙って慧の背中を見下ろしている。慧には見えない。鳥かごの中のピー助も、羽を膨らませたまま、じっと慧を見ていた。
「いや、夢か。俺、疲れてるんだ。残業続きで」
「夢じゃないよ」
「分かってる。分かってるから、頭がおかしくなりそうなんだ」
しばらく、部屋には時計の音しかなかった。
やがて、慧が顔を上げた。
「……つきちゃん」
耀司は、目を見開いた。
「おまえが三つか四つの頃、よく一人で話してたんだよ。つきちゃん、つきちゃんって。誰と話してるんだって聞いたら、ここにいるよって、自分の胸を指さして」
慧は、天井を見上げた。
「一回だけ、夜中におまえの部屋をのぞいたら、ベッドに知らない女の子が寝てた。俺はまだ十二で、怖くて、夢だと思うことにした。次の朝見たら、おまえが寝てたから」
「それ、たぶん私」
内側で月代が言い、耀司は小さく笑った。
「月代が、それ、たぶん私だって」
「……そうか」
慧は、長い息を吐いた。
「十二年越しに、答え合わせかよ」
慧は、床に座ったまま、まじまじと耀司の顔を見た。
「なあ。その、月代は、今どこにいるんだ」
「僕の中。今も聞いてる」
「全部か」
「全部」
「……俺が去年、おまえの部屋で勝手にゲームのセーブデータ上書きしたのも」
「知ってるって。あれ、月代のデータだったって」
慧は、一瞬きょとんとしてから、天井を仰いで笑い出した。乾いた、少し泣きそうな笑い声だった。
「悪かった。月代、悪かった」
(許してあげる)
「許すって」
「そうか。……そうか」
慧は笑いを収めると、真顔に戻った。
「母さんたちは、知らないのか」
「知らない。慧兄さんが、初めて」
「なんで、俺なんだよ」
「慧兄さんが、ノックの返事を待たずに開けたから」
「……おまえ、そういうところ、昔から容赦ないよな」
「月代が言えって」
「……それは、悪かった」
慧は、もう一度だけ、短く笑った。
耀司は、兄の前に膝をついた。全部を話すことはできない。前世のことも、篤志のことも、父のことも。けれど、半分だけなら。
「慧兄さん。僕たちは、二十八年前の事件を調べてる。鏡座の夜の、二人が殺された事件。どうしてか、僕にも月代にも、あの事件が他人事に思えない。だから、確かめたいんだ」
慧の目が、わずかに揺れた。
「親父が、何か関わってると思ってるのか」
耀司は、言葉を探して黙り込んだ。
「まだ、分からない」
「分からない、か」
慧は、スウェットのポケットに手を入れた。
「昨日の夜、俺が親父の書斎で何をしてたか、聞きに来たんだろ。逆に、俺が聞きに来たんだけどな」
慧がポケットから出したのは、二つのものだった。
一枚の写真。芦原の鍵の貸出簿を写した、あの消えた一枚。
そして、手のひらに収まるほどの、小さな紺色の箱。
「十日前の祝日、俺は昼過ぎまで家で寝てた。親父が、資料館の途中で一度帰ってきて、おまえの部屋に入っていった。出てきた時、この写真を持ってた。そのあと、書斎に入って、また出かけた」
慧は、写真を耀司に渡した。
「おまえの机の物だろ。返そうと思って、親父の書斎を探した。引き出しの奥に、くしゃくしゃに丸めて突っ込んであった。その奥に、これがあった」
慧は、紺色の箱の蓋を開けた。
中は、空だった。白い台座に、小さな十字の形のくぼみが一つ、残っているだけだった。くぼみに合わせて、細い鎖を通すための溝が、台座を横切っていた。
蓋の裏に、色の褪せた小さなシールが貼られていた。隣の市の、宝飾店の名前だった。
「中身は、どこにもなかった。でも、捨てずに、引き出しのいちばん奥にしまってあった。二十年以上、たぶん、ずっと」
慧は、箱を閉じた。
「昨日の夜も、もう一回確かめに行った。夢じゃないかと思って。親父が夜中に一人で起きてるようになったのは、ピー助に引っかかれた日からだ。あの日、親父はピー助の首を見て、顔色が変わってた。俺、見てたんだよ」
慧は、耀司の顔をまっすぐに見た。
「おまえとピー助と、その空の箱と。何がつながってるのか、俺には分からない。分かりたくもない。でも、親父が何かを怖がってる。それだけは分かる」
「慧兄さん」
「母さんには言うな。衿子姉にもだ。俺は、家族が壊れるのを見たくない」
慧は、膝の上で握った拳を、ゆっくりと開いた。営業で毎日頭を下げている、大人の手だった。その手が、小刻みに震えていた。
慧は立ち上がり、空の箱を耀司の手のひらに押しつけた。
「これは、おまえが持ってろ。俺が持ってたら、親父に返したくなる。何も見なかったことにして」
「……いいの」
「よくない。全然よくない」
慧は、扉の取っ手に手をかけたまま、振り返った。
「俺は、親父を信じたい。だから、おまえが確かめろ。親父が何もしてないって、ちゃんと確かめてくれ」
その声は、ひどくかすれていた。
「それと、月代」
慧は、耀司の胸のあたりを見て言った。
「……弟を、よろしくな」
扉が閉まった。
内側で、月代が声を殺して泣いていた。
五分ほどして、机の上のスマートフォンが短く震えた。慧からのメッセージだった。
――寝れねえ。月代に、おやすみって伝えとけ。
耀司は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
(おやすみって、返して)
月代が言った。耀司は、指を動かした。
――月代も、おやすみって。ありがとうって。
既読の印がついて、それきり返事は来なかった。
続けて、扉を小さく叩く音がした。今度は、返事を待つ叩き方だった。
「耀司、起きてる?」
衿子だった。扉を少しだけ開けて、顔をのぞかせる。
「さっき、慧が出てきたけど。何かあった? あの子、すごい顔してたよ」
「ちょっと、相談に乗ってもらってただけ」
「慧に? 珍しい」
衿子は笑い、それから鳥かごの方を見た。
「ピー助、最近、私が近づくと逃げちゃうんだよね。嫌われちゃったかな」
鳥かごの中で、ピー助はくるりと背を向けた。けれど、その背中は、逃げるというより、何かを衿子から隠すように丸まっていた。
「嫌ってないよ」
耀司は言った。
「たぶん、姉さんのことが、すごく大事なんだと思う」
「そう? だったらいいけど」
衿子は「おやすみ」と言って扉を閉めた。
耀司は、ピー助の丸まった背中を見つめた。悪霊を、衿子から遠ざけるために。十三年、ずっと。
慧の足音が遠ざかると、窓辺の影から月守が姿を現した。昼間はどこかで息をひそめていた照真の気配も、夜の部屋の隅に、ごくかすかに残っていた。二人の守護者は、慧の前では一度も姿を見せなかった。慧には見えないのだから、見せる必要もなかった。それでも、二人ともずっと、そこにいた。
「よく、選んだわね」
月守が言った。
「隠すことも、できた。でも、あなたたちは見せた。見せた分だけ、背負うものも増えた」
「慧兄さんにも、背負わせちゃった」
耀司が言うと、月守は首を振った。
「あの子は、もうとっくに背負っていた。十日前から、一人で。今夜、それを三人で分けただけ」
「月守。二人で話したい」
耀司の言葉に、月守がうなずく。影の中から、月代が立ち上がった。目元が、まだ赤かった。霊体でも涙の跡が残るのだと、耀司は初めて知った。
「慧兄さん、優しいね」
「うん」
「私のこと、怖がらなかった。最後に、弟をよろしくって」
「僕のこと、月代に頼んだんだ」
「うん」
「慧兄さんは、お父さんを信じたいって言った」
月代が、膝を抱えた。
「私も、本当は信じたい。最初の日、資料館で、お父さんは私たちに古い地図を見ていけって言った。町の形が違って面白いぞって。あれ、本当に楽しそうだった」
「うん」
「毎朝、ご飯の時に新聞を読んで、お母さんの皿を受け取って。芦原さんの話を、毎週聞きに行って。あれも全部、本当のお父さんなんだよね」
耀司は答えなかった。答えの代わりに、月代の霊体の肩に、そっと自分の肩を寄せた。
月守が、静かに言った。
「表と裏。どちらも本当。だから、苦しい。あなたたちが今いるのは、そういう場所」
「月守。この箱の、宝飾店」
耀司が、蓋の裏のシールを指さした。
「隣の市の店だ。眼鏡屋さんと、現金書留の消印と、同じ町」
「その店に、まだ記録が残っているかもしれない」
月守はうなずいた。
「でも、それを確かめるのは、昼の仕事。照真の光が要る」
二人は、耀司の手のひらの上の、紺色の小さな箱を見つめた。
十字の形のくぼみ。鎖の溝。隣の市の宝飾店のシール。
鳥かごの中で、ピー助が身を乗り出していた。首から下がる銀の十字架が、月の光の中で揺れている。
耀司は、箱の蓋をそっと開けた。
「ピー助」
「……やめろ」
ピー助の声が、かすれていた。
「やめろよ。見なくても、分かってるだろ」
耀司は、鳥かごの格子越しに、箱の台座をピー助の首元へ近づけた。
白い台座のくぼみと、小指の爪ほどの銀の十字架。
大きさも、形も、ぴたりと同じだった。
ピー助は、格子の向こうで、長いこと動かなかった。
「……知ってたよ」
やがて、かすれた声で言った。
「中のやつが、ずっと言ってた。これは、あの男の首にかかってた物だって。暗いところで、ずっと、俺のすぐそばにあったって」
「ピー助が、それを」
「俺が拾われる前の日だ。倉庫のシャッターの隙間から、中に入った。中のやつに呼ばれた。真っ暗で、冷たくて、羽を引っかけて怪我した。でも、これだけは、くちばしにくわえて出てきた」
ピー助は、首の十字架を嘴で軽くつついた。
「誰が首にかけたのかは、俺にも分からねえ。気がついたら、かかってた。中のやつがやったのかもしれねえ。あいつは、これを、あの男に返したがってる。ずっと、ずっと」
耀司は、空の箱を握りしめた。
十字架がどこから来たのか。それが、ようやく、一本の線になった。
(第10話 了)




