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影鏡のふたり  作者: 揮奨尋規


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10/20

前代未聞

午前二時。喉が渇いて目を覚ました耀司は、階段の途中で足を止めた。

 一階の廊下の奥、父の書斎の扉が、細く開いている。中から、懐中電灯の小さな光が漏れていた。

 父ではなかった。

 扉の隙間から出てきたのは、兄の慧だった。スウェット姿で、手に何かを握っている。慧は書斎の扉を音もなく閉めると、廊下の暗がりで一度だけ振り返り、階段の下に立つ耀司と目が合った。

「……寝ぼけてんのか、耀司」

 慧は、握っていたものを素早くスウェットのポケットに押し込んだ。

「水、飲みに来ただけ」

「そうか。早く寝ろ」

 慧はそれだけ言うと、耀司の横をすり抜けて、二階の自分の部屋へ上がっていった。すれ違う時、兄の肩が、わずかに震えていた。

(慧兄さん、お父さんの書斎で何してたの)

 内側で、月代がささやいた。

(分からない)

(ポケットに何か入れた。小さい、四角いもの)

 十月二十一日、水曜日。日付が変わったばかりの夜だった。

 部屋に戻ると、窓辺の暗がりで月守が待っていた。居間の鳥かごは、衿子が昨日、また耀司の部屋の窓辺へ戻していた。

「見たのね」

「月守。慧兄さんは……」

「あの子の影は、ずっと張りつめている。十日ほど前から」

 月守は、窓の外の暗い庭を見つめた。

「でも、あの子の影の張りつめ方は、誰かを傷つけようとする者のそれではない。何かを抱えて、こぼさないように、必死で両手で持っている人の影」

 鳥かごの中で、ピー助が片目を開けた。

「兄貴は、悪いやつじゃねえよ」

「どうして分かるの」

「中のやつが、兄貴には反応しねえからだ。中のやつが暴れるのは、あの眼鏡の顔を見た時と、姉貴に近づこうとする時だけだ」

 ピー助はそれだけ言って、また目を閉じた。


 朝の食卓は、いつもより静かだった。

 慧は、トーストを口に押し込むと、誰とも目を合わせずに「行ってくる」と言って出ていった。いつもなら衿子と言い合いの一つもしてから出るのに、今朝はそれもなかった。

「慧、どうしたのかしら。最近、元気がないわね」

 母が首をかしげると、新しい眼鏡をかけた父が、新聞から目を上げずに言った。

「仕事が忙しいんだろう。営業は、秋が山場だから」

「お父さんも、最近ちょっと疲れてない? 夜中に起きてるでしょう」

 母の言葉に、父の新聞をめくる手が一瞬止まった。

「眠りが浅くてね。年だよ」

 衿子が、窓辺の鳥かごに目をやった。

「ピー助、今朝はおとなしいね。お父さんのこと、もう引っかかない?」

「どうだろうな」

 父は、新聞を畳んで立ち上がった。鳥かごの方は、一度も見なかった。見ないようにしているのだと、耀司には分かった。

 前と同じ形の銀縁の眼鏡の奥で、父の目の下に、薄い隈ができていた。

 その日、学校の授業は、ほとんど頭に入らなかった。

 昼休み、校舎の裏の日陰で、耀司は弁当を広げたまま、箸を止めていた。照真が、陽光の中から言った。

「おまえの兄を、疑っているのか」

「疑いたくない」

「疑いたくないのと、疑っていないのは違う」

(耀司)

 内側で、月代が言った。

(疑う前に、聞く。約束したでしょう)

(うん)

(今夜、慧兄さんに聞こう。何をポケットに入れたのか)

 耀司は、うなずいた。

(それにね、耀司)

 月代の声が、少しだけ揺れた。

(私たち、ずっと家族に隠してきたでしょう。十六年間。もし慧兄さんが、何かを一人で抱えてるんだとしたら、それって、私たちと同じなのかもしれない)

(同じ?)

(家族を壊したくなくて、黙ってる)

 耀司は、箸を置いた。家族には言えない。言えば、何かが変わってしまう。そう思って、二人は月代のことを隠してきた。慧がもし、同じ理由で何かを隠しているのだとしたら。

「照真」

「何だ」

「家族に、月代のことを話したら、どうなると思う」

「わたしに分かるのは、隠し続けたものは、いつか必ず、自分で選ばない形で明るみに出るということだけだ。選べるうちに選べ」

 照真が、少しだけ表情を和らげた。

「前代未聞、という言葉がある。これまで誰も聞いたことのないような、珍しいこと」

「それが、どうしたの」

「おまえたちの存在が、まさにそれだ。そして今夜、おまえたちはたぶん、それを誰かに聞かせることになる」

「どういう意味」

「わたしにも、分からん。ただ、そういう匂いがする」

 照真は、校舎の上の秋空を見上げた。

「わたしと月守は、おまえたちが生まれた夜に目を覚ました。一つの身体に二つの魂が宿るのも前代未聞なら、その二つに昼と夜の守り手がつくのも前代未聞だ。この世に、前例のないことなどいくらでもある。前例がないからといって、ありえないことにはならん。人に話して、すぐ信じてもらえることばかりではない。それでも、話すべき時はある」


 夕暮れ。部屋の窓から差し込む赤い光の中で、照真が溶け、月守が立ち上がった。

「昼の番は、ここまでだ」

「夜の番を、引き受ける」

 家族はまだ誰も帰っていなかった。母は図書館の遅番、衿子は保育園の会議、慧は残業、父は資料館の片付け。

「月守。二人で話したい」

 月守が耀司の背に手を当て、影から月代が立ち上がった。二人は窓辺に並んで座り、鳥かごの中のピー助と向き合った。

「ピー助。聞きたいことがあるの」

 月代が言った。

「中にいる人に。あの夜の、二人のこと」

 ピー助は、長いこと黙っていた。

「……聞いてどうする」

「知りたいの。茉莉と聡が、どうやって」

 月代の声が詰まった。耀司が、代わりに続けた。

「最後に、何があったのか」

 ピー助は目を閉じた。小さな身体が、止まり木の上でわずかに傾く。次に目を開いた時、その奥に赤い濁りが滲んでいた。

「二人とも、同じ夜に死んだ」

 年上の、乾いた声だった。

「同じ日だ。九月の二十七日。俺が暗いところに置かれたのと、同じ夜」

「見ていたの」

「見てねえ。聞いてただけだ。遠くで、二人の声がした。雨の中で、ずっと、お互いの名前を呼んでた」

 月代が、両手で口元を押さえた。

「聡、聡って。茉莉、茉莉って。最後まで、手を離すなって言い合ってた。それから、声が止んだ。二つ、同時に」

 悪霊の声は、そこで途切れた。

 赤い濁りが引いていき、ピー助は止まり木の上で、ぐったりと羽を下ろした。

「……悪い。中のやつが、話したがった。あいつ、あの二人の声だけは、ずっと覚えてたらしい」

 月代は、泣いていなかった。泣くことさえできないほど、静かに震えていた。

 耀司は、霊体の月代の手に、自分の手を重ねた。触れられない手の上に、触れられない手を。

 耀司の頭の中で、ずっと見えなかった夢の続きが、ふいに形を結んだ。

 雨の路地。誰かの手を引いて走っている。振り返ると、長い髪の女が、濡れた顔でこちらを見ている。その後ろに、傘を差した黒い人影。逃げろ、と叫んだのは、自分の声だった。聡の声だった。茉莉に向かって、逃げろ、と。

「夢の中の声」

 耀司がつぶやくと、月代が顔を上げた。

「逃げろって叫んでたの、僕だったんだ。聡が、茉莉に」

「私、逃げなかった」

 月代が、首を振った。

「逃げないで、聡の手をつかんだ。離さなかった。一人で逃げるくらいなら、って」

「手を、離すなって」

 月代が、消え入りそうな声で言った。

「私たち、生まれる前から、ずっとそうしてたんだね」

「うん」

 手を離さなかったから、二人は今、一つの身体の中にいるのかもしれない。耀司は、ふとそう思った。言葉にはしなかった。月代にも、伝わっていた。

 月守が、二人の後ろで目を伏せていた。


 夜十時過ぎ。家族が全員帰ってきて、それぞれの部屋に引き上げたあと。

 月代は手鏡に問いかけて、身体を受け取っていた。

「自分は誰?」

「自分は誰?」

「――自分は、月代」

 少女の身体で、月代は机に向かった。由紀のノートの写真を、もう一度、自分の目で読みたかった。耀司の目を通してではなく。

 パジャマの袖をまくり、印刷した写真を一枚ずつめくっていく。月守は、窓辺の影に溶けるように立っていた。

 ノックの音がした。

 返事をする前に、扉が開いた。

「耀司、ちょっといいか。昨日の夜のこと――」

 慧だった。

 扉を開けたまま、慧は凍りついた。

 弟の部屋の、弟の机に、長い髪の見知らぬ少女が座っている。弟のパジャマを着て、弟の写真の束を手にして。

「……誰だ」

 慧の声が、低くなった。

「誰だ、おまえ。耀司はどこだ」

 月代は、椅子から立ち上がることもできなかった。

(月代、落ち着いて)

 内側から、耀司の声。

(どうしよう。戻る? 今、ここで鏡に問いかけたら)

(慧兄さんの目の前で、変わることになる)

「答えろ。耀司に何をした」

 慧が一歩、部屋に踏み込んだ。拳を握っている。弟を守ろうとする兄の顔だった。

 窓辺の影の中で、月守が静かに言った。

(決めなさい。隠すか、見せるか。どちらを選んでも、あなたたちは守る)

 月代は、深く息を吸った。

「慧兄さん」

 少女の口から出た呼び方に、慧の足が止まった。

「私、月代っていいます。耀司の中に、生まれた時から、ずっといるの」

「……は?」

「信じられないと思う。だから、見せる」

 月代は、机の上の手鏡を取った。慧の目の前で、鏡を自分の顔に向ける。

「自分は誰?」

 慧は、何も言わなかった。言えなかった。

「自分は誰?」

「――自分は、耀司」

 答えたのは、少年の声だった。

 長い髪が肩の上でほどけるように短くなり、細い指が骨ばっていく。パジャマの肩幅が、すとんと身体に合った。痛みも、光もない。ただ、慧の目の前で、少女が少年に戻っていった。

 鏡を下ろした耀司の顔を、慧は、口を半分開けたまま見つめていた。

「……慧兄さん」

「耀司」

「うん」

「今の、何だ」

「月代。僕の、もう一人」

 慧は、後ろ手に扉を閉めた。それから、壁に背中を預けて、ずるずると床に座り込んだ。

「前代未聞だ」

 慧は、両手で頭を抱えた。

 耀司の手のひらの中で、手鏡がまだかすかに温かかった。窓辺の影で、月守が黙って慧の背中を見下ろしている。慧には見えない。鳥かごの中のピー助も、羽を膨らませたまま、じっと慧を見ていた。

「いや、夢か。俺、疲れてるんだ。残業続きで」

「夢じゃないよ」

「分かってる。分かってるから、頭がおかしくなりそうなんだ」


 しばらく、部屋には時計の音しかなかった。

 やがて、慧が顔を上げた。

「……つきちゃん」

 耀司は、目を見開いた。

「おまえが三つか四つの頃、よく一人で話してたんだよ。つきちゃん、つきちゃんって。誰と話してるんだって聞いたら、ここにいるよって、自分の胸を指さして」

 慧は、天井を見上げた。

「一回だけ、夜中におまえの部屋をのぞいたら、ベッドに知らない女の子が寝てた。俺はまだ十二で、怖くて、夢だと思うことにした。次の朝見たら、おまえが寝てたから」

「それ、たぶん私」

 内側で月代が言い、耀司は小さく笑った。

「月代が、それ、たぶん私だって」

「……そうか」

 慧は、長い息を吐いた。

「十二年越しに、答え合わせかよ」

 慧は、床に座ったまま、まじまじと耀司の顔を見た。

「なあ。その、月代は、今どこにいるんだ」

「僕の中。今も聞いてる」

「全部か」

「全部」

「……俺が去年、おまえの部屋で勝手にゲームのセーブデータ上書きしたのも」

「知ってるって。あれ、月代のデータだったって」

 慧は、一瞬きょとんとしてから、天井を仰いで笑い出した。乾いた、少し泣きそうな笑い声だった。

「悪かった。月代、悪かった」

(許してあげる)

「許すって」

「そうか。……そうか」

 慧は笑いを収めると、真顔に戻った。

「母さんたちは、知らないのか」

「知らない。慧兄さんが、初めて」

「なんで、俺なんだよ」

「慧兄さんが、ノックの返事を待たずに開けたから」

「……おまえ、そういうところ、昔から容赦ないよな」

「月代が言えって」

「……それは、悪かった」

 慧は、もう一度だけ、短く笑った。

 耀司は、兄の前に膝をついた。全部を話すことはできない。前世のことも、篤志のことも、父のことも。けれど、半分だけなら。

「慧兄さん。僕たちは、二十八年前の事件を調べてる。鏡座の夜の、二人が殺された事件。どうしてか、僕にも月代にも、あの事件が他人事に思えない。だから、確かめたいんだ」

 慧の目が、わずかに揺れた。

「親父が、何か関わってると思ってるのか」

 耀司は、言葉を探して黙り込んだ。

「まだ、分からない」

「分からない、か」

 慧は、スウェットのポケットに手を入れた。

「昨日の夜、俺が親父の書斎で何をしてたか、聞きに来たんだろ。逆に、俺が聞きに来たんだけどな」

 慧がポケットから出したのは、二つのものだった。

 一枚の写真。芦原の鍵の貸出簿を写した、あの消えた一枚。

 そして、手のひらに収まるほどの、小さな紺色の箱。

「十日前の祝日、俺は昼過ぎまで家で寝てた。親父が、資料館の途中で一度帰ってきて、おまえの部屋に入っていった。出てきた時、この写真を持ってた。そのあと、書斎に入って、また出かけた」

 慧は、写真を耀司に渡した。

「おまえの机の物だろ。返そうと思って、親父の書斎を探した。引き出しの奥に、くしゃくしゃに丸めて突っ込んであった。その奥に、これがあった」

 慧は、紺色の箱の蓋を開けた。

 中は、空だった。白い台座に、小さな十字の形のくぼみが一つ、残っているだけだった。くぼみに合わせて、細い鎖を通すための溝が、台座を横切っていた。

 蓋の裏に、色の褪せた小さなシールが貼られていた。隣の市の、宝飾店の名前だった。

「中身は、どこにもなかった。でも、捨てずに、引き出しのいちばん奥にしまってあった。二十年以上、たぶん、ずっと」

 慧は、箱を閉じた。

「昨日の夜も、もう一回確かめに行った。夢じゃないかと思って。親父が夜中に一人で起きてるようになったのは、ピー助に引っかかれた日からだ。あの日、親父はピー助の首を見て、顔色が変わってた。俺、見てたんだよ」

 慧は、耀司の顔をまっすぐに見た。

「おまえとピー助と、その空の箱と。何がつながってるのか、俺には分からない。分かりたくもない。でも、親父が何かを怖がってる。それだけは分かる」

「慧兄さん」

「母さんには言うな。衿子姉にもだ。俺は、家族が壊れるのを見たくない」

 慧は、膝の上で握った拳を、ゆっくりと開いた。営業で毎日頭を下げている、大人の手だった。その手が、小刻みに震えていた。

 慧は立ち上がり、空の箱を耀司の手のひらに押しつけた。

「これは、おまえが持ってろ。俺が持ってたら、親父に返したくなる。何も見なかったことにして」

「……いいの」

「よくない。全然よくない」

 慧は、扉の取っ手に手をかけたまま、振り返った。

「俺は、親父を信じたい。だから、おまえが確かめろ。親父が何もしてないって、ちゃんと確かめてくれ」

 その声は、ひどくかすれていた。

「それと、月代」

 慧は、耀司の胸のあたりを見て言った。

「……弟を、よろしくな」

 扉が閉まった。

 内側で、月代が声を殺して泣いていた。

 五分ほどして、机の上のスマートフォンが短く震えた。慧からのメッセージだった。

 ――寝れねえ。月代に、おやすみって伝えとけ。

 耀司は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

(おやすみって、返して)

 月代が言った。耀司は、指を動かした。

 ――月代も、おやすみって。ありがとうって。

 既読の印がついて、それきり返事は来なかった。

 続けて、扉を小さく叩く音がした。今度は、返事を待つ叩き方だった。

「耀司、起きてる?」

 衿子だった。扉を少しだけ開けて、顔をのぞかせる。

「さっき、慧が出てきたけど。何かあった? あの子、すごい顔してたよ」

「ちょっと、相談に乗ってもらってただけ」

「慧に? 珍しい」

 衿子は笑い、それから鳥かごの方を見た。

「ピー助、最近、私が近づくと逃げちゃうんだよね。嫌われちゃったかな」

 鳥かごの中で、ピー助はくるりと背を向けた。けれど、その背中は、逃げるというより、何かを衿子から隠すように丸まっていた。

「嫌ってないよ」

 耀司は言った。

「たぶん、姉さんのことが、すごく大事なんだと思う」

「そう? だったらいいけど」

 衿子は「おやすみ」と言って扉を閉めた。

 耀司は、ピー助の丸まった背中を見つめた。悪霊を、衿子から遠ざけるために。十三年、ずっと。


 慧の足音が遠ざかると、窓辺の影から月守が姿を現した。昼間はどこかで息をひそめていた照真の気配も、夜の部屋の隅に、ごくかすかに残っていた。二人の守護者は、慧の前では一度も姿を見せなかった。慧には見えないのだから、見せる必要もなかった。それでも、二人ともずっと、そこにいた。

「よく、選んだわね」

 月守が言った。

「隠すことも、できた。でも、あなたたちは見せた。見せた分だけ、背負うものも増えた」

「慧兄さんにも、背負わせちゃった」

 耀司が言うと、月守は首を振った。

「あの子は、もうとっくに背負っていた。十日前から、一人で。今夜、それを三人で分けただけ」

「月守。二人で話したい」

 耀司の言葉に、月守がうなずく。影の中から、月代が立ち上がった。目元が、まだ赤かった。霊体でも涙の跡が残るのだと、耀司は初めて知った。

「慧兄さん、優しいね」

「うん」

「私のこと、怖がらなかった。最後に、弟をよろしくって」

「僕のこと、月代に頼んだんだ」

「うん」

「慧兄さんは、お父さんを信じたいって言った」

 月代が、膝を抱えた。

「私も、本当は信じたい。最初の日、資料館で、お父さんは私たちに古い地図を見ていけって言った。町の形が違って面白いぞって。あれ、本当に楽しそうだった」

「うん」

「毎朝、ご飯の時に新聞を読んで、お母さんの皿を受け取って。芦原さんの話を、毎週聞きに行って。あれも全部、本当のお父さんなんだよね」

 耀司は答えなかった。答えの代わりに、月代の霊体の肩に、そっと自分の肩を寄せた。

 月守が、静かに言った。

「表と裏。どちらも本当。だから、苦しい。あなたたちが今いるのは、そういう場所」

「月守。この箱の、宝飾店」

 耀司が、蓋の裏のシールを指さした。

「隣の市の店だ。眼鏡屋さんと、現金書留の消印と、同じ町」

「その店に、まだ記録が残っているかもしれない」

 月守はうなずいた。

「でも、それを確かめるのは、昼の仕事。照真の光が要る」

 二人は、耀司の手のひらの上の、紺色の小さな箱を見つめた。

 十字の形のくぼみ。鎖の溝。隣の市の宝飾店のシール。

 鳥かごの中で、ピー助が身を乗り出していた。首から下がる銀の十字架が、月の光の中で揺れている。

 耀司は、箱の蓋をそっと開けた。

「ピー助」

「……やめろ」

 ピー助の声が、かすれていた。

「やめろよ。見なくても、分かってるだろ」

 耀司は、鳥かごの格子越しに、箱の台座をピー助の首元へ近づけた。

 白い台座のくぼみと、小指の爪ほどの銀の十字架。

 大きさも、形も、ぴたりと同じだった。

 ピー助は、格子の向こうで、長いこと動かなかった。

「……知ってたよ」

 やがて、かすれた声で言った。

「中のやつが、ずっと言ってた。これは、あの男の首にかかってた物だって。暗いところで、ずっと、俺のすぐそばにあったって」

「ピー助が、それを」

「俺が拾われる前の日だ。倉庫のシャッターの隙間から、中に入った。中のやつに呼ばれた。真っ暗で、冷たくて、羽を引っかけて怪我した。でも、これだけは、くちばしにくわえて出てきた」

 ピー助は、首の十字架を嘴で軽くつついた。

「誰が首にかけたのかは、俺にも分からねえ。気がついたら、かかってた。中のやつがやったのかもしれねえ。あいつは、これを、あの男に返したがってる。ずっと、ずっと」

 耀司は、空の箱を握りしめた。

 十字架がどこから来たのか。それが、ようやく、一本の線になった。


(第10話 了)


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