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影鏡のふたり  作者: 揮奨尋規


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11/20

四苦八苦

机の上に、模造紙が一枚広げてあった。

 十月二十四日、土曜日の朝。耀司は夜明け前から、太いペンで一本の横線を引いていた。左端に「九月二十七日 午後六時 開演」。右端に「九月二十八日 早朝 発見」。その間を、これまでに集めたものが埋めていく。

 八時四十分、終演。芦原の日誌。

 九時前、路地の入口に三人。戸叶の写真、匿名の電話。

 九時過ぎ、傘を差した大人の男。匿名の電話。

 九時半前後、三人の大道具係が退勤。久賀篤志だけ、退勤の記録なし。

 裏口の外で、若い男と低い大人の声が言い争う。芦原の証言、時刻は不明。

 九時から十一時、篁聡と宵宮茉莉の死亡推定時刻。新聞。

 十一時の少し前、三番倉庫のシャッターが下ろされる重い音。ピー助の中の声。

 二十三時五分、倉庫街の入口から、ずぶ濡れの若い男がタクシーに乗り込む。滝本の手帳。

 二十三時十二分、役場の前で降りる。真鍮の鍵を落としかける。

 線の下には、日付のない出来事も並べた。八月二十七日から九月二日の、由紀のノートの破られたページ。九月二十日、芦原の貸出簿から消された一行。十月一日、鍵の返却。

 夜明けの境目に、月守と照真が並んで模造紙をのぞき込んだ。

「よく並べたわね」

 月守が言った。

「でも、ここ」

 月守の指が、線の上の、何も書かれていない一点を指した。

「九時過ぎから、十一時前まで。この二時間の中で、三つの命が終わっている。茉莉と聡がどこで、久賀篤志がどこで。二人の場所は、新聞に書いてある。七番倉庫の前。でも、もう一人の場所は、どこにも書いていない」

「三番倉庫じゃないの」

「三番倉庫は、置かれた場所。命が終わった場所とは限らない」

 朝日が差し込み、月守の輪郭が溶けていく。照真が光の中で模造紙を見下ろした。

「わたしは、一致しているところを照らそう。月守は、空いているところを示した。両方を見なければ、線は完成しない」

 照真が手をかざすと、模造紙の上の、複数の記録が重なる点だけが白く浮かび上がった。午後八時四十分。九時前の三人。二十三時五分。どれも、二つ以上の、互いに無関係な記録が同じことを言っている点だった。

「浮かばないところは、まだ一つの記録しか持たない点だ。一つの記録は、一つの声にすぎん」

 十一時ちょっと前、シャッターの音。それは、浮かび上がらなかった。悪霊の声だけが根拠だったからだ。


 朝食の席で、父は機嫌がよかった。企画展が予定より一週間延長されることになったのだという。

「来場者が三千人を超えた。町の人たちが、こんなに昔のことを懐かしがってくれるとは思わなかった」

「お父さんの頑張りのおかげね」

 母が言い、衿子が拍手のまねをした。父は照れくさそうに笑い、トーストにバターを塗った。

 その手つきは、耀司が物心ついた時から見てきたものと、何も変わらなかった。パンの端までバターを丁寧に伸ばし、最後にナイフの背でならす。几帳面な父の癖。

(お父さん、嬉しそう)

 内側で、月代が小さく言った。

(うん)

 耀司は、自分のトーストに目を落とした。嬉しそうな父の顔を、まっすぐに見ることができなかった。

 昼前、家の前に、白い軽自動車が停まった。

「乗れ」

 運転席の窓から、慧が顎をしゃくった。昨夜、耀司が隣の市の宝飾店のことを話すと、慧は「俺が連れてってやる。バスより早い」と言ったのだ。

「母さんには、おまえの参考書を買いに行くって言ってある」

「ありがとう」

「礼はいい。……月代も、乗ってるんだよな」

「乗ってる」

「よし。シートベルト、二人分締めとけ」

(一本しかないよ)

「一本しかないって」

「冗談だよ。真面目に返すな」

 慧は少しだけ笑って、車を出した。フードの中のピー助が、窓の外を流れる景色を、じっと見つめていた。

 県道に出ると、慧はハンドルを握ったまま、ぽつりと言った。

「月代は、何が好きなんだ。食いもんとか」

(いちご大福)

「いちご大福だって」

「渋いな。……耀司は、昔からいちご大福だけは食わなかったよな。あれ、もしかして」

「僕は苦手。月代が好きなのに、身体が一つだから、食べると僕の方が胸焼けする」

 慧は声を上げて笑った。それから、少し黙って、フロントガラスの向こうを見た。

「親父がさ、俺に自転車の乗り方を教えてくれたの、この道なんだよ。川沿いの、この先の土手。何回転んでも、後ろで荷台を持っててくれた。手を離したのに気づかないで、俺、一人で走ってた」

 耀司は、何も言えなかった。

「いい親父なんだよ。俺にとっては」

「……うん。僕にとっても」

 慧はそれ以上何も言わず、ウインカーを出して、隣の市への橋を渡った。

 隣の市までは、川沿いの県道を三十分ほどだった。古い商店街の一角に、その店はあった。間口の狭い宝飾店で、硝子のショーケースに指輪や時計が並んでいる。看板には「宝飾 みのわ」とあった。紺色の小箱の蓋の裏の、色褪せたシールと同じ名前だった。

「俺は車で待ってる」

 慧は、店の前で車を停めて言った。

「何が出てくるか知らないけど、俺は、聞かない方がいい気がする。聞いたら、たぶん、親父の顔をまっすぐ見られなくなる」

「……うん」

「何かあったら、すぐ呼べ」

 耀司は、車を降りた。


 店の奥のカウンターには、白髪の老人が座っていた。八十近いだろうか。拡大鏡を額に上げ、細い指で古い腕時計の裏蓋を開けている。

「いらっしゃい」

 耀司は、ポケットから紺色の小箱を取り出し、カウンターに置いた。

「この箱、こちらのお店のものだと思うんです。二十八年くらい前の」

 老人は、箱を手に取り、蓋の裏のシールを見て目を細めた。

「ああ、うちのだ。この紺の箱は、平成の初めの頃に使っていたやつだな。箕輪庄一。親父の代から、この店をやってる」

 老人は、箱を開けて台座のくぼみを見た。

「小さな十字架のペンダントだな。銀の。うちで扱っていたのは、刻印を入れられる型だ」

「刻印……」

「裏に、名前のイニシャルや日付を彫る。贈り物用だな。若い人に人気があった」

 箕輪は、カウンターの下から分厚い帳面を何冊も出してきた。背表紙に、年ごとの数字が書かれている。

「注文の控えは、全部取ってある。商売の決まりでな。平成十年なら……」

 耀司の胸の内側で、月代がざわめいていた。

(耀司。代わって)

(ここで?)

(あの人、さっきから私たちのことをじっと見てる。たぶん、思い出しかけてる。注文した人のことを)

 耀司は、手洗いを借りたいと言って、店の奥の小さな洗面所に入った。手鏡を取り出す。

「自分は誰?」

「自分は誰?」

「――自分は、月代」

 少女の姿で洗面所を出ると、箕輪は帳面をめくる手を止めて、顔を上げた。

「おや?」

「さっきの子の、従姉です。一緒に来ていて」

 月代が言うと、箕輪はしばらく月代の顔を見つめてから、ゆっくりとうなずいた。

「……そうか。いや、驚いた。二十八年前、この十字架を注文に来た女の子に、少し似ていると思ってな」

 月代の指が、カウンターの縁で強張った。

「どんな、女の子でしたか」

「高校生くらいの、色の白い子だった。お小遣いを貯めてきたって言って、小銭の混じったお金を、恥ずかしそうに出してな。大事な人の誕生日に、どうしても間に合わせたいって。あんまり一生懸命だったから、刻印の代金をまけてやった」

 箕輪は、平成十年の帳面の、八月のページを開いた。

 ――八月十八日受付。銀クロスペンダント(小)。刻印あり。受取予定、八月二十九日。注文者、宵宮様。

 照真が、帳面の上に光を落とした。

 刻印の欄には、二行の文字が書き込まれていた。けれど、その部分だけ、昔こぼした水のしみで、インクがにじんでいた。

 ――□.K.

 ――1998.8.3□

 最初の一文字と、最後の数字が、にじんで読めなかった。

「宵宮……」

 月代の声が、かすれた。

 由紀だ。由紀が、誰かの誕生日に、この十字架を贈った。お小遣いを貯めて、小銭まで数えて。破り取られたノートのページ。お誕生日、おめでとう。喜んでくれた。

「K」

 箕輪が、帳面のにじみを指でなぞった。

「名字のイニシャルだろうな。最初の文字は、下の名前の頭。日付は、八月三十日か、三十一日か。贈る相手の誕生日だろう」

 箕輪は、帳面を閉じかけて、ふと手を止めた。

「そういえば、この型の十字架のことで、もう一人来た人がいたな。ずいぶん後になってからだ。十年か、もっと前か。背広の男が、この型はまだ作っているかと聞きに来た。もう作っていないと言ったら、そうですか、とだけ言って、しばらくショーケースの前に立っていた。何か、なくしたものを探しているような顔だった」

「その人の顔は」

「覚えておらん。眼鏡をかけていたような気もするが、この年になると、客の顔はみんな同じに見える」

 箕輪は、帳面をカウンターの下に戻した。

「その女の子はな、受け取りに来た時、言ってたよ。この人は、私を守ってくれるって約束してくれたの、って。お兄さんみたいな人なの、って。あんまり嬉しそうだったから、よく覚えてる」

 月代は、カウンターの縁をつかんだまま、深く頭を下げた。

「ありがとうございました。……その子のこと、覚えていてくださって」

「なんの。古い店は、古いことを覚えておくのが仕事みたいなもんだ」

 箕輪は、拡大鏡を額に下ろし、また腕時計の裏蓋に向き直った。

「もし、その十字架の現物がどこかにあるなら、刻印は大事にしてやりなさい。銀の刻印は、長く身につけているとすり減る。読めなくなる前に、誰かが読んでやらないとな」

 月代は、何も言えなかった。

 八月三十日。

 その日付を、月代は知っていた。耀司も知っていた。毎年、家族でケーキを囲む日だった。


 帰りの車の中で、慧は何も聞かなかった。

 月代は洗面所で身体を耀司に返していた。助手席で、耀司は膝の上の紺色の小箱を見つめていた。フードの中のピー助は、行きよりもずっと静かだった。

 家に着く少し前、慧が前を見たまま言った。

「何か、分かったのか」

「……まだ、言えない」

「そうか」

 慧は、それ以上聞かなかった。聞かないでくれていることが、耀司には痛いほど分かった。

 家に着くと、慧は「先に入ってろ」と言って、車の中に残った。ハンドルに額を押しつける兄の背中が、窓越しに見えた。

 部屋に入って扉を閉めた瞬間、耀司の内側で、月代が言った。

(耀司。お父さんの誕生日、八月三十日だよね)

(……八月の終わりに誕生日の人なんて、町に何百人もいるよ)

(Kは?)

(久賀も、Kだ)

(久賀さんの誕生日は、九月七日。私たちと同じ。由紀は、恋人の誕生日に贈ったんじゃない。だって、由紀は久賀さんを怖がってた)

 耀司は、答えなかった。答えられなかった。

(耀司。逃げないで)

(逃げてない)

(逃げてる。あなた、宝飾店で帳面を見た時から、ずっと考えないようにしてる。私には、全部伝わってる)

 耀司は、机の前に座り込んだ。

「月代は、父さんだって決めたいの」

 声に出していた。自分の声が、ひどく冷たく聞こえた。

(決めたいなんて、思ってない)

「でも、決めかけてる」

(あなたは、決めないために目をつぶってる)

「慧兄さんは、父さんを信じたいって言った。僕たちに、確かめてくれって。確かめるっていうのは、こういうことじゃない。誕生日が同じだから、イニシャルが同じだから。それだけで決めるのは、二十八年前に、誰かが家出だって決めつけたのと同じだ」

(それだけじゃないでしょう)

 月代の声が、震えていた。

(筆跡。宿直。タクシー。鍵。空の箱。久賀って名前。十字架を見た時の顔。それを全部、それだけって言うの?)

 意識がつながっているからこそ、言葉の一つ一つが、自分の内側から自分を刺した。月代の怒りは、耀司の胸の中で燃えた。耀司の拒絶は、月代の胸の中で凍った。互いの痛みが、そのまま自分の痛みになって返ってくる。

 四苦八苦。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ。愛する者と別れる苦しみ。憎む者と会う苦しみ。求めても得られない苦しみ。心と身体が思うようにならない苦しみ。照真が、いつだったか教えてくれた言葉だった。

 愛する者を、疑わなければならない苦しみ。そんなものは、八つの中に入っていなかった。

「照真」

 耀司は、窓辺の光に向かって呼んだ。

「どっちが、正しいの」

 照真は、首を横に振った。

「わたしは、一致している点を照らすだけだ。おまえたちの言い争いに、正しい方を照らす光は持っていない」

「……今日は、交替しない」

 耀司が言った。

「月代と代わったら、僕は月代の気持ちに引っ張られる。月代も、たぶん、僕に引っ張られる。だから、このまま考える。一つの身体のまま、二人で」

(いいよ)

 月代の声が、硬いまま答えた。

(私も、そうしたい)


 二人は、日が傾くまで、互いに一言も口をきかなかった。

 声に出さなくても、意識の底では、ずっと考えが流れ合っていた。互いの考えを、互いに読みながら、読まないふりをした。模造紙の時間の線を、何度も何度も目でなぞった。

 言葉を交わす代わりに、耀司は電話をかけた。これまで会った人たちに、一つずつ、確かめ直すために。

 芦原は、二度目の呼び出し音で出た。

「裏口の外の声のことか。何度も思い出そうとした。若い方は、笑っていた。低い方は、怒鳴ってはいなかった。静かだった。静かすぎて、かえって怖かった」

 奥寺は、書道教室の片付けの途中だった。

「十月七日に来た教育委員会の人ね。ノートには書かなかったけれど、帰り際に、宵宮由紀さんは最近どうしていますか、と聞かれたの。どうしてあの子のことを知っているのかしらと、少し不思議に思った」

 受話器を置くたびに、耀司は模造紙に小さく書き足した。照真が、その書き足した文字の上に光を落とす。

 ――路地で、男の子は笑っていた。匿名の電話。

 ――裏口の外で、若い方は笑っていた。芦原。

 二つの、互いに無関係な声が、同じことを言っていた。照真の光の中で、その一点だけが、新しく白く浮かび上がった。

「一致した」

 照真が言った。

「花屋の店先から見た者と、劇場の地下で聞いた者。顔も知らぬ二人が、同じ少年の笑い声を覚えている」

 最後に、野上に電話をかけた。工場の機械の音の向こうで、野上は少し考えてから言った。

「あの日の夕方、あいつが上着の内ポケットに入れた封筒か。表に、女の字で何か書いてあった気がする。丸っこい字だった。中身は知らない。あいつは、それを大事そうに叩いて、今夜の話の種だ、って笑ってた」

 丸っこい字。耀司は、由紀のノートの字を思い出した。

 浮かび上がった点を見つめながら、耀司は思った。一つ一つは小さな声だ。けれど、声が重なるたびに、線は少しずつ太くなっていく。望んでいる方へではなく、事実のある方へ。

 夕陽が差し込み、照真の輪郭が溶けて、月守が立ち上がった。

「昼の番は、ここまでだ」

「夜の番を、引き受ける」

 鳥かごの中で、ピー助が身を起こした。目の奥に、赤い濁りが滲んでいる。

「九時半だ」

 悪霊の声だった。

「九時半に、俺はもう、暗いところにいた。冷たくて、狭くて、何も見えなかった」

「九時半?」

 耀司が、思わず模造紙を見た。

「でも、さっきは、十一時前にシャッターが下りたって」

「十時だ。十時過ぎに、あいつの声を、すぐそばで聞いた。何か言ってた。俺に向かって」

「九時半に暗いところにいて、十時に、すぐそばで声を聞いた。十一時前に、シャッターが下りた」

(時間が、ばらばら)

 月代がつぶやいた。悪霊の声は、さらに続いた。

「八時半だったかもしれねえ。いや、零時だったか。分からねえ。暗いところに長くいると、時間が分からなくなる。一晩が、十年みたいに感じる。十年が、一晩みたいに」

 赤い濁りが引いていき、ピー助はぐったりと止まり木にしがみついた。

「……悪い。中のやつ、また時間がめちゃくちゃだ。わざとじゃねえ。たぶん、あいつ自身、もう分からなくなってる」

 月守は、鳥かごのすぐ前まで来て、静かに身をかがめた。

「暗いところに閉じ込められた魂は、時間を失う。この子の中の霊も、二十八年分の夜が、一つにくっついてしまっている。だから、この声の時刻は、線の上に書いてはいけない」

「じゃあ、篤志さんがどこで亡くなったのかは」

「この声からは、分からない。でも、空白は空白のまま残しておきなさい。埋めるために、嘘を書いてはいけない」

 耀司は、模造紙の上の、九時過ぎから十一時前までの空白を見つめた。

 埋めたかった。父ではない誰かの名前で。月代は、埋めたかったのかもしれない。父の名前で。どちらも、まだ書けなかった。


 階段を上がってくる足音がして、扉が叩かれた。父だった。

「耀司、ちょっといいか」

 父は扉を半分だけ開け、部屋の中には入らずに言った。模造紙は、耀司がとっさにベッドの下へ押し込んでいた。

「企画展が延長になってね。来週の日曜に展示の入れ替えをするんだが、手伝ってくれないか。重いものを運ぶから、人手が要る。町の百年を調べているなら、勉強にもなるだろう」

「……うん。いいよ」

「助かる」

 父は笑い、扉を閉めかけて、ふと窓辺の鳥かごに目をやった。ほんの一瞬だった。それから、何も言わずに扉を閉めた。

 足音が遠ざかるまで、耀司は息を止めていた。

(来週の日曜、資料館)

 内側で月代がつぶやいた。

(お父さんと二人きりになる。展示室で、あの写真の前で)

 耀司は、ベッドの下から模造紙を引き出し、右端の余白に小さく書き足した。十一月一日、日曜日、資料館。

「月守。二人で話したい」

 耀司が言うと、月守はうなずき、影の中から月代を立ち上がらせた。

 霊体の月代は、耀司の正面に座った。一日ぶりに、互いの顔を見た。

「ひどいこと言った」

 先に言ったのは、月代だった。

「逃げてるって。耀司が、お父さんを信じたいのは、逃げじゃないのに」

「僕も、ひどいこと言った。決めたいんだろって」

 耀司は、膝の上で拳を握った。

「月代は、決めたいんじゃない。由紀さんのために、本当のことを知りたいだけなんだ。小銭を数えて、十字架を買った由紀さんのために」

「うん」

 月代の目から、涙がこぼれた。

「由紀は、お父さんを、大事な人だと思ってたんだよ。だから、誕生日に十字架を贈った。だから、助けてって言った。あの人なら何とかしてくれるって」

「……うん」

「それが、本当にお父さんだったなら。由紀が信じた人が、お父さんだったなら。私、どうしたらいいのか分からない」

 耀司は、霊体の月代の手のすぐ上に、自分の手のひらをそっと置いた。触れられなくても、置いた。

「僕も、分からない。だから、二人で確かめよう。決めないで、確かめる」

 月代は、泣きながらうなずいた。

 鳥かごの中で、ピー助が小さく言った。

「おまえら、仲直り早すぎだろ」

「ピー助」

「褒めてんだよ。……中のやつは、二十八年、誰とも仲直りできなかったからな」

 耀司は、紺色の小箱の蓋を閉じた。にじんだ刻印の、最初の一文字。にじんだ日付の、最後の一桁。それを読める場所が、どこかにあるはずだった。

 ピー助の首の十字架の、裏側。

 耀司は鳥かごの格子に顔を寄せた。小指の爪ほどの銀の裏面は、長い年月ですり減り、肉眼では細い傷の筋にしか見えなかった。いつか月守が見せてくれた影の刻印も、最初の文字と最後の数字だけが、削れたようにかすれていた。

「光と影を、同時に当てれば読めるかもしれない」

 月守が、窓の外の月を見上げて言った。

「照真の光が浮かび上がらせ、わたしの影が形を結ぶ。二人が同時にいられるのは、夜明けと日暮れの、ほんのわずかな間だけ。その間に、刻まれた全部を読み切れるかどうか」

 次の境目まで、あと半日。耀司は、手鏡を伏せた。


(第11話 了)


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